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斜読三国志  作者: amino
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荊州と新野と襄陽名士

 荊州北部の新野には、関羽、張飛らと合流した劉備玄徳が駐屯していた。荊州の主劉表は玄徳を迎え入れたものの、こぞって彼の周りに人が集まるその人望に、権力を奪われはしないかと恐れをなし、その能力を妬んだ。そこで、襄陽の名士たちと切り離し、その軍事的才能を利用するためにも、州の中心である襄陽では無く、対曹操最前線の新野城に駐屯させていた。しかし、荊州の政治経済の要衝、襄陽から離してもなお、人、特に地元名士達が集まるのを見た劉表はさらなる警戒心を抱く。参謀の蔡瑁、蒯越らの進言で劉表から幾度か暗殺されかけるが、伊籍ら劉表の幕僚たちの協力によって幾度も危機を脱していた。

おそらく、劉備の一党がこれまでのような組織体系であれば、劉表の手によってとうに暗殺されていたかもしれない。これまで劉備の中核たる人士は、関羽や張飛らの地元に勢力を持たない「単家」と呼ばれる存在が中心であった。そのために大性、豪族らの直接的な協力を殆ど受けずに活動しており、また彼らを関羽ら以上に重用する事が無かったので、群雄として確固たる地盤を有する事が出来なかった。これまではそうであったのだが、今回は事情が少し異なってきていた。襄陽の名士層に組みする単家出身の徐庶元直が参入し、組織体系が変化し始めたのである。袁紹、曹操らは元々官人の出であり、名士界での名声や人脈と、それに必要な礼儀作法などを備えていた。本質的に傭兵部隊である劉備軍にはそれが不足していた。これを、徐庶の参入によって手に入れたのである。さらに、劉表が才ある人物を妬む傾向にある事も幸いした。荊州には北の戦乱を逃れてきた名士が多くあり、襄陽に集まってきていた。彼らは劉表に仕官せず、距離を置いていたので、劉備は彼らと公に交わることができた。こうして、劉備の下には荊州各地から人材が集まり、土豪、名士たちとのつながりもでき、勢力は飛躍的に強力になった。

 劉備の一党が新野において力をつけ始めた頃、曹操軍が動いた。202年、袁家討伐の後顧の憂いを無くすため、夏候惇を指揮官とする5万の軍を動員し、于禁、李典が副将として着き、荊州へ攻め下ってきた。劉表はこの時とばかり劉備に迎撃させた。劉備軍1万は迎撃のために博望坡へ移動して布陣した。劉備軍と曹操軍は博望坡で激突する。劉備軍の戦力は圧倒的に少ないが、関羽、張飛、趙雲など名将が陣頭に立って指揮していたために、曹操軍と五分の戦いを演じ、時には曹操軍に痛撃を加えることもあった。彼我の攻防がぐるぐると入れ替わる激戦が展開する最中、劉備はいきなり自陣を焼き払って後退した。これを追撃しようとした夏候惇を李典は「敵が理由なく撤退したのは伏兵を配置しているためです。敵将の中でも関羽の隊が見当たりません。追撃できないのは残念ですが、劉表が出てこない以上、彼に攻め上る意図がないのが分かりました。袁家残党も西方の軍閥も残っている今、無理をして追う必要はありません」と諌めた。しかし夏候惇は諌めを聞かずに「劉備は劉表から警戒されていると聞く。小勢にも関わらず後詰も出してもらえないありさまでは、安心して戦えまい。おそらく後方で何かあったか、劉表の下への撤退を意図しているのだろう」と言い、于禁とともに劉備軍を追撃した。騎兵をもって急追すると、案の定関羽の率いる伏兵に遭って騎兵隊に大損害を受けた。これを見た劉備軍は一転して攻勢に転じた。劉備軍の勝利に終わるかに見えたが、伏兵を予期していた李典の軍が到着すると戦況は一変する。関羽率いる伏兵は李典の率いる軍に撃破され、劉備軍の攻勢は頓挫した。夏候惇、于禁の隊が混乱から回復すると、劣勢となった劉備軍は整然と撤退していった。夏候惇引きいる曹操軍も疲労が激しく、撤退していった。

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