官渡大戦前半
西南で曹操に敵対していた張繍が降伏した後、官渡近郊。ここでは曹操、袁紹の兵が対峙していた。曹操軍5万、実質7万、袁紹軍30万、実質50万。これに補給部隊や商人も合わさってこの一帯に森のごとく人が集結していた。袁紹軍では盛んに軍議が交わされていた。沮授、田豊は180度意見を変えて持久戦を主張していた。田豊はこう主張した。
「現在曹操は東の玄徳、西の張繍らを討ち果たし、軍は意気盛んです。荊州の劉表は漁夫の利を狙って動かず、江東の孫権は内治に忙しく外征の余裕がありません。曹操の軍は精強で曹操自身の采配は恐るべきものがあります。ここは守りを固めて諸侯に激を飛ばし、大軍の利を生かして絶え間なく奇襲部隊を送りだし、国力にものを言わせて消耗戦に引きずり込むべきです」
沮授はこれに加えて「3年で勝利を得られる」と述べている。これに対し、郭図と審配の両者が反論する。
「曹操の軍は確かに精強ですが、数少なく、連年の出兵で兵は疲弊し、物資は不足しています。ここは大軍を起こし、多方面から攻撃をかければ、曹操は打つ手も無く、防ぎきれないでしょう。兵法にも、小敵の堅は大敵の虜と申します。今こそ攻勢に出る絶好の好機です」
袁紹は郭図、審配らの主張する積極策を採用した。また、権限が巨大化した軍監、沮授の権限を沮授・郭図・淳于瓊ら3人の都督に分割した。袁紹を総大将に都督沮授の兵が12万、郭図の兵が10万、淳于瓊の兵が8万
建安5年2月、準備を整えた袁紹の大軍は、曹操軍が徐州に遠征している隙をついて行動を開始する。白馬に布陣した曹操軍の東郡太守劉延を、淳于瓊・郭図・顔良を派遣し、その18万の兵をもって攻撃させ、袁紹の本隊12万は于禁が1万の兵で守る延津を攻撃した。沮授率いる本隊の方は消耗戦を狙って有利な位置を確保しつつ小競り合いを繰り返した。袁紹軍は本隊を陽動に用い、別働隊を主軸とした攻撃に出た。曹操は袁紹軍本隊の戦意が低いのを見抜き、「今のところ本体の攻勢は陽攻です。今こそ白馬を救い、分散した敵を討ち破る好機です」という参謀荀攸の進言に従って白馬の方を救援することに決めた。4万を官渡と白馬の中間にある延津に本陣を移動させ、黄河を渡河する準備をして敵の背後を脅かし、白馬に軽騎5000で急行して油断している敵を討つことを狙った。袁紹軍は部隊を分割して広正面同時制圧を狙い、曹操軍が機動防御で対抗する図式である。曹操が軍を延津に移動させると、袁紹は荀攸の予想通り別働隊を2分し、その主力であった淳于瓊・郭図の軍を移動させて曹操の渡河に備えた。白馬に残ったのは猛将顔良と兵2万である。曹操はこれを知るや否や一気に軍を白馬まで進軍させ、関羽、張遼らを先鋒として顔良を攻撃させた。関羽が不意を突いて顔良を斬り、その混乱を利用して張遼が騎兵で敵軍を討ち破った。袁紹軍2万はさんざんに討ち破られ、荀攸の狙い通りに白馬の包囲は解かれた。
白馬を囲んだ軍を撃破した曹操は、即座に西へと取って返した。渡河地点に置き去りにされた形の袁紹軍本体が黄河を渡り、曹操を追跡していた。物見の報告によって先鋒が追撃用の長蛇の陣であったのを知った曹操は、その先頭集団を混乱させるため、白馬から運んできた輜重を街道沿いに放棄した。敵の先頭集団が輜重にたかり始めたのを見た曹操は攻撃に転じる。長蛇の陣は移動には良いが、戦闘には向かない。蛇の頭を止められると連携が取れなくなるのだ。袁紹軍は10万を超える大軍であったが、曹操軍は600あまりの騎兵で敵を大いに混乱させ、伏兵によって敵を分断して敵将の文醜を打ち取る事に成功した。緒戦は曹操が制した。




