呂布滅亡
徐州制圧後に配下になった陳珪、陳登らの進言に従って、呂布は曹操の軍門に下っていた。しかし曹操は丁原、董卓、劉備を次々に主君を裏切った呂布を信頼しなかった。案の定、呂布は反乱を起こした。198年、下邳の呂布は軍師陳宮と、高順、張遼らの猛将たちを従えて劉備の守っていた沛城を攻撃した。曹操は沛城救援のために夏候惇を向かわせた。夏候惇軍3万と、籠城していた劉備軍5千、呂布軍2万2千が豫州の沛において対峙した。夏候惇軍は歩兵2万5千を5つの集団に分けて3つを呂布軍に対し横に並べ、残り2つを予備としてその後ろに並べ、騎兵2千は右翼に、3千は自らが率いて左翼に布陣した。これに対して呂布軍は歩兵1万2千を中央に置き陳宮に指揮を取らせ、騎兵5千を自らが率いて左翼に、3千を高順に任せて右翼に布陣した。残りの騎兵2千は張遼に任せ、劉備軍への備えとした。戦争開始の銅鑼が鳴ると、呂布軍は突撃を開始した。呂布の左翼騎兵隊は正面にいる夏候惇軍の騎兵隊を瞬く間に粉砕した。しかし右翼では高順が夏候惇との一騎打ちに敗れて負傷し、混戦となった。にげる高順を追いかけた夏候惇は、陳宮が伏せていた曹性率いる弩弓隊の一斉射撃を受けて左目を負傷してしまった。この指揮官の負傷と、呂布本隊の歩兵隊への側面攻撃によって中央部の歩兵隊は大混乱に陥り潰走した。夏候惇軍は、自身の率いる騎馬隊を殿として撤退した。この大敗を見た劉備軍は撤退を援護しようと出陣したが、これに備えていた張遼の騎馬隊に襲われてこれも潰走した。夏候惇が劉備ともども敗走した知らせを受けると、曹操は自ら7万の大軍を率いて呂布討伐に出陣した。曹操は徐州の入り口に当たる彭城を攻め落とし、さらに軍を下邳城に進めた。呂布当人の軍事的才能は抜群で、戦では負けなかったが、政治的、兵学的な才能で曹操には及ばなかった。戦う度に呂布の兵は減り、曹操の兵士は増えていった。次第に追い詰められて下邳の城での籠城策をとった呂布は、たびたび城外に出撃して、城の守りにあたった陳宮と連携して、城に攻め寄せる曹操軍を大いに悩ませた。しかし、数か月すると荀攸と郭嘉の献策で水攻めにされて城から出られなくなった。袁紹、袁術からの援軍を期待して書を送ったが、袁紹は幽州征伐に忙しく、呂布と不仲な袁術が来るはずもなかった。孤立無援となった呂布は日々を酒色にふける様になった。そんなある日、貂蟬が寝台の上で泣き始めた。
「申し訳ござりませぬ」
自刎しようとする貂蟬を慌てて止め、理由を聞く。貂蟬は言った。
「ここまで追い詰められたのは足手まといの私らがいるからでございます。御髪に白い物が交じっているのも私がお心を休ませようとお酒をお勧めし、酒毒にやられたからにございます。申し訳ござりませぬ」
床に拝伏する貂蟬。驚いた呂布は慌てて貂蟬を抱き起こした。
「そうではない。追い詰められたのは部下の言を聞かなんだ我が不明。酒色にふけったのも我が心の不明である」
貂蟬の言葉に奮起した呂布は禁酒令を出し、軍規を一新した。しかし、遅きに失していた。ひとたび緩んだ軍規を締め直すとしわが寄る。一気に城内の将兵から不満が噴出し、遂には部下の宋憲に裏切られ、曹操に捉えられてしまった。呂布は縄で縛られ、曹操配下の将らに眺められる。そこに宋憲ら旧部下が、昨日まで自分を主君と仰いでいた者たちが、そこに席を与えられているのを見て言葉を投げかける。
「貴様らどの面を下げてそこに座っているかっ!」
彼らは目を逸らしてこう言った。
「将軍は我らに将軍の秘妾程の恩を賜らず、また将軍は我らの妻に不義を賜ったではありませんか」
曹操はこれを聞き呂布に問うた。
「だ、そうだが、いかに」
呂布は真っ赤になっていた。彼にとって、すべてがまるで憶えの無い事であった。部下には公平に恩賞を与え、貂蟬一筋である呂布には他人の妻など木石同然であった。しかし、最早自分の道は絶たれた。部下たちは、激戦、激戦、また激戦と、ここまでついてきてくれた。褒賞はともかく、黄巾・西涼以来彼らに施した徳はいくばくだろうか。とても足りないように思えた。呂布は縛られた足のひもを引きちぎり立ちあがると大音声でこう答えた。
「その通り!」
裏切った部下は意外な驚きに打たれた。呂布は彼らの発言を否定しなかった。自ら身に覚えのない罪をかぶり、裏切った彼らの将来を慮った一言は、貂蟬のおかげと言っても良いだろう。それと悟った元臣下たちは驚愕した。縛られたまま、呂布は一歩、一歩、紐を掴んだ兵士たちを引きずり曹操の居る座に歩き出した。兵士たちは呂布に投げ縄を投げて彼を押しとどめようとする。
「聞くがいい曹操よ」
1本、
「我が部下は力なくて敗れたのではない」
5本、
「不義理だから貴様に降ったわけでもない」
17本、
「すべては我が不明にある」
24本と、引く人、投げかけられる紐は増えた。それが50を超えた頃、呂布の歩みが止まった。呂布は立ったまま圧殺されていた。暫く座が真白に染まった後、部下たちはそろって叫んだ。
「見事な立ち往生っ。まさに人中の呂布っ」
それを見た陳宮は、曹操の「我が部下になれ」という好意を蹴り飛ばし、縛っていた紐が解かれた状態で刑場に歩み、呂布の方に頭を向け、こう叫んで首を落とされた。
「我が忠義に狂いなし」
呂布の遺体は粗末ながらも、丁寧に墓に埋葬された。
余談だが、呂布の配下だった武将はこの後、「獰猛な」と形容がつくほど勇猛に戦い、殆どが戦死している。飛将の率いた武将もまた虎の如しということだろうか。彼の愛した貂蟬のその後の行方は、誰も知らない。