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斜読三国志  作者: amino
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袁紹勇躍

 さて、袁紹は反董卓連合解体以後、大した兵力も権限も持たずに渤海郡に居た。肥沃な冀州を欲した袁紹は、冀州の北、幽州の牧である公孫瓉をそそのかして冀州を攻めさせ、同時に冀州刺史韓馥に使者を発して自らを頼らせ、そのまま冀州刺史の座を乗っ取った。当然のことながら、利用されただけの公孫瓉は激怒し、戦争が始まった。乗っ取りの時、袁紹は冀州という地盤だけでなく、沮授、辛評らの人材をも手に入れていた。特に沮授を得たのは大きかった。袁紹によって一官吏から抜擢された沮授はこう述べた。

「将軍は暴虐な董卓に対して忠義の立場を貫かれて、彼をして震えさせました。さらに、その御血筋は四世三公にのぼり、今華北に進出して渤海郡を押さえ、冀州を支配下におき、天下にその名を知られております。今は公孫瓚と和睦し、全力を持って東方青州をうち平らげ、返す刀で西方黒山賊を討伐して幷州を治め、その後は北方異民族と和をなして幽州の公孫瓉を討つべきです。用意の整わない今、公孫瓉と正面から当たるのは得策ではありません」

袁紹はこの献策に沿って行動した。それまで公孫瓉は、同郷・同門の劉備率いる私兵集団が居たのもあって強力な軍事力をほこり、袁紹軍に対し戦いを有利に進めていた。そんな中、丁度訪れた和平の勅使が到来し、袁紹と公孫瓉の間で一時的な和平が結ばれた。公孫瓚が背後の異民族の討伐に奔走する中、袁紹は沮授の勧めに従って異民族と手を組み、兵力を各州へ転進させ、冀州、幷州、青州を治める大勢力となった。袁紹が別方向に兵力を向けている間、公孫瓉は南の冀州からの圧力が減じたので、劉備らと趙雲を2千の兵士と共に徐州の大守陶謙への加勢に送りだし、他にも反乱鎮圧や治安維持のために部下を各地に派遣した。これを知った袁紹は公孫瓚配下の将と兵力が分散した隙を見て公孫瓚との和平を破棄する。公孫瓚軍は袁紹の本拠地冀州に侵攻し、界橋で両軍は激突した。公孫瓚軍は歩兵3万をいくつかの方陣に組みそれらを陣法にそって布陣させ、騎兵隊2万をその両翼に配置した。袁紹の兵力5万も同様に陣形を組んだが、いかんせん騎兵の数が少なく、また公孫瓚軍の兵の精強さにはかなわないと思われた。袁紹軍の先鋒麴義は一計を案じ、1000の歩兵隊を前に出し、囮とした。「敵は兵法を知らぬ」と言われるほど見事にこの罠にかかった公孫瓚は、騎兵を単独で動かしてしまい、袁紹軍が伏せていた弩弓兵の放つ矢の嵐によって甚大な損失を被った。総大将の率いる精鋭の騎兵隊が敗走したのを見た歩兵隊は動揺した。この機を逃さずに袁紹は総攻撃を命令する。大混乱に陥った公孫瓚軍は大敗した。袁紹は、将兵、特に騎兵隊に大きな損失を受けた公孫瓉軍相手に戦を優勢に進め、異民族の力も借りて「白馬将軍」と畏怖された公孫瓉を軍事的に連破した。敗れて冀州、幽州の国境沿いにあるに易京城に退いた公孫瓉は、この城に籠り、籠城の策に出た。しかし、ただ籠るのではなく、籠城中にも城外に打って出て散々に袁紹を苦しめた。ある日、沮授はこう献策した。

「公孫瓉が城外に出てきて我が軍は苦戦していますが、これまでの動きから見るに次にどこに来るかは予測できます。兵を伏せ奇襲をすれば城外に出てくるのを牽制でき、大きな打撃を与える事が出来るでしょう」

沮授の予測通り公孫瓉は動き、再び公孫瓚軍に大きな打撃を与える事が出来た。袁紹と公孫瓚の対決は、袁紹の勝利となった。

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