幻楼提灯
ハッピーエンド至上主義とされる方及び男女の恋愛は受け付けられない方にはあまりお勧め致しません。
『鷹虎』
可愛い女が俺に笑い掛けている。
――瞬間、これが夢だと悟りどうしようもない虚無感に苛まれた。
別に、女に飢えている事への虚しさからではない。
あの女が。
あの、俺に微笑む可愛い女が。
俺の唯一本気になった最初で最後のオンナだからだ――…。
【幻楼提灯】
「……。」
ふとして目を覚ましてみれば、隣に眠るのは馴染みの女。
俺が買ってやった洋国の香水とやらをいたく気に入ったのか、
此処へ来るといつも甘いような甘くないような、そんな曖昧な匂いが身を包む。
しかし、この不思議な匂いが嫌いなわけではない。
寧ろこの匂いを嗅ぐと背筋がぞくぞくと震え、つい”その気”にさせられる。
布団からゆっくりと出て行こうとすると、はし と女が俺の手を掴んだ。
縋るような目つきは流石色町とだけあって、男の後ろ髪を引くのが得意である。
「悪ィ…やっぱ今日は帰るわ。」
「……ねえ、鷹虎…。」
「何だ?」
「………何でもないの、ごめんなさい。」
色町の女にしては控え目なこの女を俺は気にいっている。
他の女の様にあれだこれだと要求せず、俺のしたいようにさせてくれる。
ただ、”此処”に通う客というのは求められた方が嬉しいのか
この女はそういう性格柄、あまり人気がないようだった。
布団から起き上がり、黙って俺の帰りの支度を整える指先は微かに震えている。
――これが、この女の本音なのだろう。
我儘放題の女どもにない”奥ゆかしさ”というのか。
こういう耐え忍ぶ女ってのはどうにも堪らなくなる。
「…桜。」
「…、…。」
俺の帯を直すその手を掴み、静かに唇を重ねてやる。
何時まで経っても男慣れしない仕草。
何時もそうだ。
震える唇。すぐに臥せる視線。
上気して紅色に染まりゆく頬。
どうしていいのか勝手が掴めずに、きゅ と握られている女の手に自分の指を絡ませ
再びゆっくりと身体を倒していく。
急に気分を変えた俺を窘めるわけでもなく、俺を受け入れる女。
ただ、俺を受け入れてくれる。
俺の名を呼ぶ。
「…悪かったな。」
「いいの…、有難う。」
控え目に笑んで、再び俺の着物を整える。
既に外は白んで来ていて―――この女も疲れて眠いだろうに。
これは少し上乗せして払っていってやらないと。
そんな考えを見透かしたのか、女が俺の頬を撫でた。
「私は…嬉しいから。いつもの分だけでいいの…ね?」
「あァ…そうかい…。」
「私は……鷹虎の顔が見れるだけで幸せよ。」
「へへ、可愛い事いうじゃねーの。」
本当に、色町に似つかわしくない女だ。
こんなに気立てが良い女、嫁の貰い手には困らないだろうに。
乱れた髪を手櫛で適当に整え、立ち上がる。
振り返らず、部屋を後にしようとする俺を珍しく女が呼び止めた。
振り向けばその手には提灯。
桜の花弁が描かれた真白い提灯だ。
「これ、使って頂戴…?」
「提灯…?店のがあるだろ?それに、オレにゃそんな綺麗なもん…。」
「お願いよ鷹虎…。貴方に持っていって欲しいの。」
「……。」
「桜…駄目だったかしら…。」
「つくづく可愛い女だねェ…お前は。」
提灯を受け取って笑う。
見事な提灯だ。
――客の少ないこの女では買うのに苦労したのではないかと、
そんな無粋な事を考えて、考えを拭うように提灯を再び眺めた。
「これなら、夜になりゃお前に会いたくて此処に来ちまうなァ。」
「…少しでも、長く鷹虎の中に居たいの。」
「何言ってんだい、オレん中ァお前の事で一杯だよ。」
嬉しそうに笑う女に今度こそ部屋を出る。
廊下を歩けば、こんな時間でも嬌声が盛んに聞こえる部屋があり
思わず苦笑を浮かべ”自分も人の事を言えねェか”と笑みに変える。
あと少し。
この先の階段を降ればこの一時の夢が終わる。
朝がくれば夢が終わり、夜が来れば再び夢を見る。
夢に溺れようとは思わないが―――たまに、夢でも良いと思える時がある。
過去を引きずるつもりはなくとも、未だに夢を見る。
忘れてはいけない。忘れたくない故に、現でも夢に逃げるのだ。
いつか、この夢から覚めてしまったら―――俺自身が再び桜の季節に巡り合ってしまえば。
夢の中で笑うあの女の顔も、いずれ忘れてしまうのだろうか。
長い夢に身を置くことで、現実に目覚めるのが怖くなる。
階段の前で立ち止まったまま、物思いに耽ってしまっていた。
我に返ったのは下の階から響いた大袈裟な男の声が原因だった。
何だ何だと階段を下りて行けば、人を口で動かす事と
女の悦ばせ方しか知らなそうな――否、あとは食べる事も知っているだろう。
そんな丸々と肥えて見るに絶えない男と、
この店の店主が立っていた。
店主がへこへこと頭を下げながら、男を奥へ招き入れる。
”本当にあんな娘でいいんですか?”などと念入りに聞いている所からして、
誰か女が”買い上げ”られたのだろう。
玄関前で見送りに提灯を差し出されたが、そいつを断り
代わりに先ほど女からもらった提灯に火をもらう。
そうして、店を出るといよいよこの夢も終わるのである。
手に持つ提灯からは女の残り香が香るようで、背筋が再びぞくりと震えた。
余韻に浸る様にゆっくり歩き、並ぶ店々を見ながら足を止める。
女――桜との出会いを思い出す。
色町の入口を潜れば、そこはもう女の戦場のようなもので。
出迎える女はどれも一級。
皆、客を選ぶ権利を持つような店の看板女ばかりだ。
そこを潜り抜ければ、男や金に飢えた女盛りの群れ。
馴染みの女の居ない、大体の客が此処で捕まる。
俺もその内の一人だった。
特に馴染の女を作るわけでもなく、その場その夜限りだけ。
だが―――桜は違った。
寄ってたかる様な女どもと違い、群れから少し離れた所で
狼狽える桜は初々しく―――新しく連れてこられた女かと思う程だ。
色娘の大半は、客が最低一人でも捕まらないと飯がくえなかったり
酷いところじゃ、仕置きが待っている。
桜の様子では、一人も客が貰えていないのだろう。
初めて見たときはそれほどまでに細い娘だったのだ。
桜提灯を見下ろして一人で静かに笑う。
俺が声をかけたときの、真ん丸な目。
裏返った声。
可笑しくて笑った時の、恥ずかしそうな真っ赤な顔。
気にいって、店に入った時の本当に自分でいいのかと尋ねた時の事が
数年経った今でも忘れられない。
「やっぱし、泊まってくかなァ…。」
踵を返した時だった。
女どもの悲鳴が聞こえ、先ほどまで自分の居た店の灯りが
一層とあかるくなったのは。
何事かと提灯片手に走って引き返せば、人だかり。
「おい!一体どうしたんでェ!」
女どもを掻き分けるように騒ぎの元へ辿り着くとそこには―――。
赤
真っ赤な赤
「こりゃ酷ェ……一体何があったんだよ!?」
「鷹虎!?お前さん戻って来たのか…!!」
顔面蒼白の店主が身体を退けて、自分の腕に抱いている”物”を見せる。
それは―――。
その赤の正体は。
紛れもない。
「桜…!!」
大慌てで桜を抱き起すと、その身体はまだ温かい。
薄らと目を開けた事に少しばかり安堵するが、
それでも俺の鼓動は早鐘の様に動いていた。
血の付いた手が、俺の頬に伸びる。
慣れた臭いのはずなのに、近くで感じる濃厚な血の匂いに
呼吸が詰まる。
「たか…とら…。」
「おいおいおい…!何だってこんな…!」
「あたしの……色…貴方と、い…しょ…。」
赤いの。
このまま、あたし 貴方の一部になりたい。
震える唇に何時も感じる愛おしさはなく、
ただ命の灯の消えそうな恐怖。
紡がれる言葉に滲み出る女の想い。
知らず知らずに手が震えていた。
「あなたの…夢の…中の…いい、ひと…みたいに…。
あたしも…傍に…心に…住みたい、の…。」
ぐったりと垂れた手が再び動くことは無く。
桜の閉じた目から零れた泪が静かに頬を伝う。
死んだ。
まるで、事実を拒もうとする俺に冷たく言い放つように
傍に置いていた提灯の灯りが、風に揺らいで消えた。
――呆然とする俺の傍では、この出来事が日常茶飯事とでもいいたげに
女たちが各々の店に帰っていく。
一つ、二つ。
提灯の消えていくたびに暗闇に包まれていく。
白んだ薄暗い明かりの中、濃厚な死の匂いを掻き消す様に
甘いような甘くないような香りが包む。
それは―――桜の傍に割れて転がる香水の小瓶。
『鷹虎』
嗚呼、これが。
これが、夢から醒めようとする俺への戒めならば。
きっともう、俺は俺のこの心を他の女に見せる事なんてしないだろう。
二度と、本気になろうなんて思わないだろう。
都を離れた小さな丘の上。
桜の木の下に一人。
日の出を眺めながら提灯を吹き消す男が一人居た―――…。
Fin...
1:28 2013/05/16