狭間 1
はあ、はあ、はあ…
深い霧に覆われた森の中、少女は走っていた。
背中まで伸びた髪は黒。
必死に何か探す瞳も黒。
少女は本能が告げるまま走る。
「あっ」
小さな声をあげた少女は木の根に足を取られて派手に転ぶ。
「ふっ…っっ、お…」
言いかけてぐっと歯を食いしばる。
袖口で涙をゴシゴシと拭くと少女は前方を精一杯見据え、再び走り出した。
*
薄れゆく霧の中に少女はようやく一つの影を見つけた。
肺が悲鳴を上げる中、それでも少女は力の限り叫んだ。
「おにいちゃん!!」
振り返った深い森と同じ色の瞳は大きく見開かれていた。
少女はその腕の中に躊躇いなく飛び込んだ。
「お前…」
「おにいちゃん、行っちゃダメ!!」
ぎゅっと少女は兄にしがみつく。
何かと「おしごと」で家を空けがちな兄を少女は寂しいながらもいつも送り出す。
そんな少女の我儘はとても珍しい。
「どうしたんだ?俺が出かけるのはいつもの事だろう?」
大きな手が優しく少女の頭を撫でる。いつもは安心できるその手が、少女の不安を一層煽る。
「おにいちゃん、行っちゃダメ」
ぴくり、と僅かに手が反応した。
「イヤ」ではなく「ダメ」なのだ。
その意味が解らぬ兄ではない。
今、ここで手を離せば、間違いなく兄は帰って来ない。
承知しているであろう兄は、ただ困ったように笑い、着の身着のままで飛び出した、泥だらけの寝巻き姿の少女を自分の外套で包む。
森とお日様と兄の匂いの染み付いた外套をぎゅっと小さな手が握りしめる。
そんな少女を兄は優しく抱きしめた。
「俺が、お前との約束を破った事があったか?」
少女は兄の腕の中で頭を振る。
「今度もちゃんと約束したろ?」
「……」
少女は小さく頷いた。
困らせてはいけないのは判っている。
けれどダメなのだ。
しかし、それを説明する術を幼い少女はまだ持たない。
「土産は何がいい?」
「…おにいちゃん」
その答えに兄の肩が小さく揺れる。
きっと、呆れて笑ったのだろう。
「今回は遅くなるかもしれない」
「うん…」
ぎゅっと兄の肩を握る。
ちりん…
鈴の音が小さく鳴った。
それは少女が兄の為に渡したお守りの音。
兄の温もりが離れ、代わりにお日様のような優しい笑顔が少女に向けられる。
「一人で帰れるか?」
心配げな声音に少女はこくり、と頷く。
これ以上困らせてはいけない。
「これが、最後だ」
力強い未来を見据えた声に少女は弾かれたように顔を上げる。
「これが終わったら、一緒に旅をしよう」
「たび?」
兄は頷く。
「たくさん知って、たくさん出会って、世界を広げてお前が本当に望む場所を見つける為に」
優しく、優しく兄は笑う。
何かを言いかけた少女は言葉を飲み込み、別の事を口にする。
「約束?」
兄は笑った。
「約束だ」
ちりん…
鈴が鳴る。
少女はなおも心配する兄を見送った。
約束があれば、きっと大丈夫。
そして最後の「おしごと」から兄が帰ってきたら、ちゃんと言おう。
少女の望む場所はただ一つ。
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