僕と先輩の会話 其の弐
しとしとと、雨が扉の向こう側で降っている。雨に濡れるのも躊躇わずに、僕は扉を開けた。陰鬱な空気が雨の香りとともに運ばれてくる。こんな日では、嫌われ者の鴉も巣にこもるだろう。
「こんにちは、芦葉君」
目に映ったのは、紺色の傘。その下には縮こまるようにして黒髪の先輩が居た。雨の中、本を読んでいる。
しとしとと規則的に滴る水滴は、フェンスの緑を淡く濡らして、そのまま垂れていく。フェンスに軽く凭れている先輩の傘にも流れていき、最後はコンクリートに溶けて、消えて行った。
「雨の中、態々屋上で本を読むなんて先輩も物好きですね」
「君も雨の中態々屋上まで来るなんて、物好き以外のなんなんだい?」
「人のことは言えませんか」
冷静に考えなくても、態々濡れるところで本を読まないと思うが。
僕は、そこら辺の濡れていなさそうなコンクリートに座った。グラウンドでは大きな水たまりがいくつもできている。当然のように尻は濡れた。僕は何とも悲しくなって、大きくため息を吐いた。
「そうだね」
僕は空を見上げた。雨は僕の顔に容赦なく打ち付けてくる。この雨に、彼女を感じた。天から降ってくるもの、それだけで、そこに彼女がいるように思えてくる。
「恍惚とした表情をしているけど、異常性癖かい?」
「雨の中、本を読む先輩に言われたくないです」
だが、本は濡れていなかった。さすがプロだとほめたたえるべきか。
「ひどいなぁ。全国の読書好きを探し回ったら、一パーセントくらいは雨の中で本を読むよ」
一パーセントもいないだろう。僕は断言できる。
「世界に物好きはたくさんいるんですね」
僕は先輩を尊重できる偉い人なのだ。自分で自分をえらいとか言う人間が偉かったことなど、あっただろうか。
「そうだね」
僕は雨にぬれすぎた。
全身が雨に染められて、寒気と温かみを同時に感じる。寒気は肉体的で、あらがえない。温かみは抗う必要がない。
僕は給水塔の赤茶けた色を見た。彼女はよく登っていた気がする。何故給水塔に上るかと、何度か聞いたけど、「上の方がいいからね。僕にとっては」という、よくわからない回答しか返ってこなかった。
もうその質問をすることも、質問の答えが返ってくることもない。
「どこか悲しげな表情だけど、何かあったのかい?」
先輩が本を読む手をやめて、僕のほうを向いていた。本は濡れないように床にもつけず、水滴がいくつもついているセーラー服の中にも入れずに、湿度が高い空気中を浮いているかのようだ。
「勘がいいですね」
「今朝の新聞の六面だったかな?」
「そんなところまでよく読みますよね」
「文章を読むのが好きだからね……君も人のことを言えないんじゃないのかい?」
「ほんと、勘がいいですね」
「にしても、完全なAIが完成した、ね。眉唾物な気がするが。というか、なんで君がそんな所読んでいたんだい?」
「同じものを目指す僕としては、耳が痛くなります。強いて言えば、なんとなく、ですかね。空からの天罰かもしれないですけど」
普段は新聞なんて読まない。運命とか、信じたくはないが。
「まぁ、完全なAIでも、普遍的な人間らしいから、君も別に作ればいいじゃないか」
「それも、一理あるんですけどね」
彼女はまた読書を再開している。彼女の黒髪は、所々が濡れていて、ポタリと、一粒のしずくがコンクリートに吸い込まれた。
「授業、さぼったんですか?」
「まぁ、ね。僕だって、勤勉なわけじゃないんだよ」
昼休みの短い時間で、滴るほど髪が濡れるだろうか。傘を差さないならまだしも、本を読むために、傘は必須であった。しかも、傘を最初からさしていたという証拠に、先輩の手は不思議なほど濡れていない。
「学年一位から転落したことはないですよね」
「細かいことは気にしちゃダメだよ」
これが嫌味ったらしくないのだから、なんというか人生とは不公平なものである。厭味ったらしい、鼻につくやつが学年一位なら、まだやる気を出す人間が多数いたことであろう。
「これは細かくない気がします」
先輩は、また本を読むのをやめた。
先輩の顔が動く。下の、紙に向けられていた目線が、上がってから横に滑る。
先輩の目線が、僕の目線をとらえた。
「僕も、君のことは言えないね」
先輩は笑った。先輩の黒い前髪から、雨粒が一つ落ちた。
「無理しないほうがいいですよ」
「それこそ無理な話だ」
「強情ですね」
「君も人のことが言えるかい?」
「――言えませんね」
昼休みが終わるまで、残り十分付近になった。
僕は立って、後ろを向いた。
僕の髪は驚くほどにびしょぬれで、傘を差さなかったことに多少後悔している。微妙に天井っぽくなっている、校舎と屋上の境界線から垂れる大粒の雨粒が鬱陶しいことこの上ない。
「午後は、出たほうがいいですよ」
「まぁ、善処はするよ」
僕は扉を開けて、雨の降っていない場所に一時的な戦略的撤退をした。飽く迄、一時的だ。




