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僕と妹の会話 其の壱

 液晶を文字が滑る。カタカタという耳を劈く音と、ジージーという耳障りな音。外は夕焼けも沈んで、無機質な電燈に照らされていた。電燈はあたり一帯を照らして、光に弱い生物を生態系から追いやる。

 電燈の近くには電線。その電線の上には鴉が三匹ほど虚空を見て鳴いていて、夜の底へと引きずり込まれるかのよう。

 その鴉が飛んで行った先の山々、すでに闇に沈み、まるで大きな大きな影かと思えるほどである。

 彼女は何に照らされて、何に追いやられたのだろうか。

 現在、夕闇の底に沈んでいないだろうか。


 僕がパソコンに向かってから、一時間ほどが経ったときだった。思考を弾ませたり、キーボードを滑らかに売っている。

「兄さん。夕飯」

 妹が遠慮がちに僕の部屋の扉を開けた。閉塞していた部屋に、開放的な廊下の空気が入る。その開放的な廊下の空気は、結局は外につながる窓から入ってくるものであった。

 妹は、セーラー服を着ていた。青く、白いその服には清潔感を感じさせる。目の下には泣き黒子があり、少女の印象をより決定づけていた。

 少し伏し目がちにしているところは、男の庇護欲を誘う。尤も、兄妹でそんな念を抱くことは無い。

「ありがとう、湊」

 僕が礼を言うとき、妹は僕のパソコンを見ていた。

 その瞳は、あきれているともとれるし、感心しているともとれる。が、異性の兄妹の心境など中々わからないのであった。


「またやっているの?」

 当然な質問を、妹は僕に投げかけた。というより、やっていなかったら画面にアルファベットの羅列は成立していないだろう。

「まだできていないからね」

「勉強は?」

「僕は湊みたいに勤勉じゃないからね」

 ただし、それも半年前より後の話だ。それより前は、今と見違えるくらいの勤勉さを誇り、村一番の神童……ここは中途半端な町であった。せいぜい、町内一番の神童くらいだ。たいそうなモノじゃない。

「私も勤勉じゃない」

「僕の意識下では勤勉だよ」

 今現在妹ほど勤勉な人を、僕は知らない。もちろん、身内びいき込みでだ。

「別に、」

 妹は変な間をとった。微妙な雰囲気が静寂という言葉で表される。こんな時に限って、窓の外は鴉が鳴かず、鈴虫の耳障りなリーンリーンという音も聞こえず、車は道を通らず。何とも間が悪い。

 妹は僕を見ていなくて、僕は妹を見ていない。

 お相子なのかもしれない。


「早くいかないと、冷めないか?」

 僕は椅子から立った。微妙な空気に耐えられなかったのだ。いつまでもしゃべらなかった妹に、多少愛想を尽かしたのかもしれない。

ついでに、今書いていた文字の羅列を保存して、パソコンをシャットダウンする。僕の挑戦が休止される。

 ひと段落したかのように、一つ息を吐いた。

「そうだね」

 妹はどこか悲しげにツインテールを揺らしながら、僕の部屋から出て行った。

 扉は勢いよく枠の中にはまって行って、きっちりはまるかに思えたそれは、大きな音を出して跳ね返された。


 わかっている。彼女が昔の僕にあこがれていたことくらい。

 今の生活を快く思っていないことくらい。

 でも、僕はそんなことを気にしてはいられない。そんなことをしていたら、会えない。会うには莫大な僕の時間を費やす必要がある。休憩との配分は黄金比で表せるくらい正確に取っている。

 パソコンに色は浮かんでいなかった。

 完全にシャットダウンしている。

 椅子を机に入れると、車輪が床とこすれる音が聞こえる。カラカラと、どこか心地よい。

「さて、行こうか」

 僕は開けっ放しになっていたドアを潜ってから丁重に、跳ね返されないように閉め、階段を降り始めた。





 白米が蒸気を放出しているようだ。表面の光沢は食欲をそそる。

 電子炊飯器の時計は七時半を回っているようで、僕のたとえようがないほどの空腹を如実に表していた。

 鍋に入っている煮物から漂う表現しがたい香りは、僕の腹をさらに擽った。ぐぅと間抜けな音を鳴らす。こんな優雅な食卓を用意してくれているのだ。


「ありがと、母さん」

 いつも言えない礼を、今日こそはと言う。どんな心境の変化か、自分にもわからない。

「そんなことより、早く食べちゃいなさい。さっさと、食器を洗いたいでしょ」

 母親は、テレビの方を頬杖をつきながら見ていた。いつも僕と話すときは、顔を合わせて話すのに、今日ばかりはテレビから目線を外そうとしていない。

 わが母は、すでに夕飯を食べたのか、あとで食べるのか。第三の選択肢は考えたくない。

 まぁ、ぷっくりと中年太りした腹から考えれば、自然と答えは出てきてしまう。

「ん。」


 妹は向かいに座って、行儀よく雑多な料理を口に運んでいる。今日の煮物は香りだけで満足思想だったが、実物を見ると、さらに腹が減ってくる。

 人参は柔らかそうで、じゃが芋はきらりと光っている。さつま揚げは存在感をこれでもかというほど表わしていて、主役か脇役か悩む肉は、ひっそりと隅っこで座っている。それ全体を、白い蒸気がつつんでいた。

「いただきます」

 両手を合わせて、頭を下げる。僕たちを生かすためだけに、殺された命に向かって。最後へと残された時間を奪った詫びを入れる。白米から出ている蒸気は減っている。食べごろは刻々と去っていくのだ。

 僕はとりあえず、白米を口に運んだ。日本人としての心を再認識した気がする。これがないと、ご飯という感じがしない。時々食べるラーメンなどの、またそれなりの良さはあるが。毎日食べる白米は別格なのだ。


「進んでいるの?」

 妹は箸で人参をつかんでいた。兄妹そろって、煮物に入っている人参は好物である。おいしい。あの、柔らかい感じがいいのだ。炒めた硬いにんじんは人参で味があるが、こってり煮込んだ人参は人参以上のポテンシャルを発揮し、僕たちに一時の幸福を与えてくれている。

 言葉の微妙なニュアンスで、言いたいことを感じ取る。彼女とはこれができただろうか。たぶんできていたと思う。

「うん」

 即答である。

「そう……」

 妹は煮物の汁を啜った。お茶碗から見た世界が揺れる。

「もう、俺が勉強に精を出すことはない」

 汗が一筋、僕の頬を撫でる。妹は、僕に神童時代のポテンシャルを発揮してほしいようだった。

 僕はもう冷めてしまっている。完成してから一日くらい経った煮物の中の人参である。もしかしたら電子レンジで一時的に熱くなれるかもしれないが、一日というブランクは非常に大きいのである。

「なんで?」

 妹はいつもの無表情を崩さない。無表情ではない。だが、その表情は無表情である。

「ほかにやりたいことがあるから」

 一日おきの人参だってやれることはあるはずだ。

「本当にそれでいいの?」

 妹は急いて白米を口に入れ始めた。ひとつの米粒が床へとこぼれた。妹は気づいていない。

「いいんじゃないのか?」

「他人事?」

「他人事じゃない。でも、過去だ」

 そう、僕がおいしかった、なんか表現が気持ち悪いな。まぁ、いい。僕がおいしかったのは過去の話なのである。

「私も……」

「湊は勉強を頑張っておけ。やりたいことがあれば、投げ出せばいいさ」

 妹はすでに夕食を食べ終わっていた。いつもより、二分半近く早い気がする。僕の気のせいかもしれない。


 妹はスカートのすそを気にしながら椅子を立った。丁寧に皿とお椀とコップを積んで行って、洗い場に持っていきそうだ。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 いきなり母の声がした。まだ隣の部屋でテレビを見ている。

 ソファーに寝転んで、肘をつき、さらにはおせんべいをかじりながらテレビを見る姿は普遍的な中年となんら変わらない。

「聞かれていた?」

 小声で妹は僕に聞いた。首をかしげるその様子は、愛らしく感じた。彼女は、首をかしげて僕に質問を求めただろうか。

「たぶん。まぁ、大丈夫だ」

 僕も小声で答えた。小声で答えるほかなかった。聞かれても、意味は分からないと信じたかった。

「そうだね」

 妹はキッチンへと食器を運び始めた。


 僕は白米を箸でつまむ。

 この白米は、先ほど落ちた白米とは違うが、人間にとっては白米なのである。白米は白米だが白米は白米とは違う。

 壊れたものだと言い切るのは簡単だが、それは、或る人にとっては壊れたものではないのだ。

 手が止まっていた。

 食事を進めなければ。

 妙な脅迫概念に取りつかれながら、僕は箸を動かした。まるで忙しい曲の指揮者のように、せわしなく僕の手は働いた。

 少しだけ、白米は冷えていた。

「ごちそう様」

「お粗末様でした。さっさと片付けなさいよ」

 母の声は、テレビの音にかき消された。

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