僕と先輩の会話 其の壱
碧空は晴れ渡っていて、僕は吸い込まれたくなった。屋上に大の字で寝ころんだまま、天に行きたい。天に昇りたい。この肉体といういわば無駄なモノから解き放たれて、精神的な存在になっり、空へと飛んでいきたい。飛ぶ。人間には不可能なこの行為を実現させたい。そのような願望が、僕の心をくるくると渦巻いていた。
「芦田君、大丈夫かい?」
コーヒー牛乳をすする音が聞こえる。校舎一階の自販機で九十円だ。時々しか買わない。買っていいかなと思ったことは何度もあるが、その隣の自販機に百円で陳列されている抹茶ラテに心が惹かれるのだ。日本人として致し方がないことだろう。お茶とは我らの心である。はたして、アルミ缶やスチール缶に日本人の心を見出してもいいかは疑問であるが。
「大丈夫です」
「それならいいんだよ」
吹奏楽部の演奏が聞こえた。野太い音である。個人的に、もっとシャープな音のほうが好きだ。最近の若者思考なのだろうか。
その音は周囲に広がって、広がり続けている。
空に、地に、彼方に。僕はその中心付近で不愉快な顔をして聞いている。
「先輩」
言い馴れた口調で僕は言う。これまでこの言葉を何度発したか、僕自身覚えていない。この先輩宛てだけで、だ。
「なんだい?」
このやり取りを、何回繰り返し、これからも何回繰り返すことだろうか。考えただけで辟易としそうである。
「ここ、屋上ですよね」
「残念ながら」
僕は、野球部の鈴木君に応援をした。見えていないけど、心の中で。野球部に鈴木君がいるかは知らないが。なんというか、気分というものだ。学校のすべてを見渡せるようになる屋上にいるのだから、何か屋上でしかできないことをしたいのだ。もちろんグラウンド横でも野球部の応援はできるが、屋上でやる野球部の応援とグラウンド横でやる野球部の応援はトカゲとヤモリのような違いはあるだろう。
「先輩」
「なんだい?」
「おいしいですか?」
先輩の手に持たれたコーヒー牛乳はこげ茶色で彩られていた。その中にいくつかの白が見える。牛乳のイメージだろう。
「微妙かな」
「そうですか」
買わなくてよかった。
僕はコーヒー牛乳を好かない。嫌いではない。あくまで好かないだけである。もちろん飲んだこともないコーヒー牛乳を嫌悪するわけではないし、時々は買うわけだが、なんというか好けないのである。たぶんこれは、タコがイカを思う気持ちと似ている。まぁ、それでも時々は飲んでみようと思う。日常からの脱却を図ろうとするのは、所謂人の性とも言うべき部分であって、矮小な僕ごときが反抗することはできない。
空は、雲一つかからず、迫りくる勢いであった。迫り来てほしい。地面が迫りくるのと、空が迫りくるの、どっちが怖いのだろうか。
僕が空に飛んでいくのと、空が僕に迫りくるの、何か違うところがあるだろうか。
いや、でも通信販売と実際に見て買うのは結構違うな。
なんというか、たとえが悪い気がする。
「先輩」
「なんだい?」
「翼がほしいです」
やっぱ、僕は実際に見て買いたいらしい。そのためには、道具が必要だ。飛行機で行くのはなんというか味気ない。やはり、自分の力で空まで行って、ガラス越しではなく、生の眼で、空を見たいのだ。
「僕は……ペンギンの翼がほしいかな」
何とも意味がないものだ。何故こんなものを選ぶのだ。
「じゃぁ、鷲の翼はもらっていきますね」
僕はさっさと行きたい。
「僕たちの終着点は、同じところなんじゃないのかい?」
なるほど。飛ぶのと、飛べないのと、片方は直接的に行けて、片方は落ちたらいける。空という終着点へ行く方法は、案外多いのかもしれない。ナイフを使ったり、自動車を使ったり。
「連れて行かれるか、自分で行くかの違いですね」
「そうだね。ちょっと話は変わるけど、君は山登りとかしていたんじゃないかな?」
山登りは、空に近づける。幼いころは少しずつ空に近づく感覚を気に入っていた。最近は労力を無駄に使いたくもないという、昨今の社会情勢を無駄に反映したような思考を持っているので、あまり行かないが。
「よく知っていますね。小学時代は山岳を登るのが好きでしたよ。蟷螂山とか毎週登ってました。富士山も何回か上ったことがあります。まぁ、最近はめっきり登らなくなったんですけどね」
そういえば、昔そんなことを先輩と彼女で話した気がする。彼女が海に行くか山に行くか迷った時だったと、僕の記憶は言っている。
「山のてっぺんからも、いけそうだね」
嗚呼、連想から、僕の登山話を思い出したのか。
「手を伸ばしたことはありますけど、届きませんでしたよ」
青々と広がっている空に、僕の手は届かなかった。当時はそれが悔しかったものだ。雄大に聳え立つ富士山から出さえ、碧空へは届かなかったのである。
なんとなく空を見るのがやるせなくなって、僕は寝返りをうった。世界が回って、青から灰色になった。清々しさが痛みに変わった。というか、鼻が押しつぶされて痛い。もうこんな体勢は嫌である。なんで僕はこんなことをやっているのだろうか。
「大丈夫かい?」
「はい」
僕の声はアスファルトに当たってどもった。この体勢は、しゃべるのが大変である。空が嫌だからと言って、自分にこんな苦難を科すこともあるまい。
「夜中に全裸で走り出さないでくれよ」
「僕は変態じゃないです」
先輩の言葉が辛辣すぎる。僕の精神力は大ダメージを受けた。
「じゃぁ、マゾかい?」
「さすがにアスファルトで興奮する性癖は持ち合わせてないですね」
「その体勢はなんなんだい?」
まぁ、なんでこんな体勢をしているか聞きたくなるだろう。僕だって聞きたくなる。
「わかりません」
僕は先ほどの体勢に戻るため、もう一度寝返りを打った。もう一度青が視界に広がった。少々憂鬱とした気分になった。
「先輩」
「なんだい?」
「何していますか?」
「見ればわかるよ」
「見るのが面倒です」
先輩より、空を見たいのである。何ともひどい思考だ。というか、空を見たくないんじゃなかったのか。
「なら、見なければいいじゃないか」
「そうですね」
僕は空を飛ぶ鳥を眺めた。種類はわからなかった。僕は鳥に詳しくないのだ。生活に支障はない。鳥は海のほうから山のほうへと飛んで行った。電信柱の上を、悠々と飛び去り、太陽の方向へ向かっていった。鳥になりたくなった。白い鳥であった。
でも、人間は鳥にはなれなかったのだ。
「先輩」
「なんだい?」
「宇宙飛行士って、どうやったらなれます?」
「人々を洗脳すればなれると思うよ」
突然の話題転換に、よくこんな辛辣な回答ができるものだと思う。
「遠まわしに、なれないって言っていません?」
「そこまで遠まわしじゃないよ」
まぁ、僕でもすぐにわかる程度であった。
「そうですか」
ロケットの噴射を思い出した。下に力を入れると、上に行く。下から力を抜くと、下に行く。重力は有給休暇くらいとってもいいと思う。重力が休んだ日は、僕は僕の意志に向かって働く。
「芦葉くん」
「なんですか?」
「部活は行っているのかい?」
答えづらい質問である。
「放課後、ここにいることが答えです」
「陸上部、君が抜けてから散々らしいよ?」
「大変ですね」
「顧問の内田先生、戦績が振るわないから、授業中に自棄になって大変なんだよ?」
「先輩はその授業にあんま出てないじゃないですか」
先輩は、結構授業をサボる。
「これは一本取られたね」
空に雲がかかり始めたので、僕は先輩のほうを見た。すると、先輩は本を読んでいた。
本は何か月読んでいないだろうか。数えるのも億劫である。参考書は本に入るのだろうか。教科書は入れなくていいと思う。本だけど、あれは本ではない。参考書は、どっちなのだろうか。
「先輩」
「なんだい?」
「参考書って、本だと思います?」
「本じゃないのかい?」
「参考書を読んだときに、本を読んだっていうことに語弊があると思うんですよね」
「そう言われれば、そうかもしれない」
「でも、定義上は本じゃないですか」
「そうだね」
「困りますね」
「まったくだ」
吹奏楽部は休憩らしい。騒々しい音色は消えていた。野球部の声だけが聞こえてくる。きつそうだ。体育会系の部活に行きたくなくなるような感じだ。それでも、僕は結構陸上部を楽しんでいた覚えがある。今は、走るという言葉を聞いただけでうんざりするような人間になってしまったが。時の流れとは酷いものである。天才も、奇人も、ただの人間に変えてしまう。
というより、よく部活でがんばれるものだ。半年前までの自分を天晴に思えてきた。いや、天晴だった。
「芦葉くん」
「なんですか?」
「勉強はどうだい?」
「去年の今より、順位は三ケタ落ちましたよ。ひとつ前と比べると、十位くらい落ちました」
急転直下だ。勉強していないから、仕方がない。
「勉強しないと、大学受験がつらいよ」
「上を目指さなければ、なんとでもなりますよ」
この世には小学生の算数レベルで合格できる大学があると僕は聞いたことがある。そんな大学を出たって、就職が散々であろうが。
「一理ある。でも、それでいいのかい?」
「いい……んじゃないですか?」
まぁ、就職は厳しそうだけど、たぶん何とかなるだろう。世知辛い世の中になっているけど、選ばなければ、いけるはずだ。
「疑問形で聞かれても困るよ」
「がんばってください」
「何故僕に……?」
露骨な話題転換を図りたかった。将来を考えたくはない。今を全力で行きたいのだ。駄目人間的思考であった。
「いや、先輩は今年大学受験だから大変そうだなって。どのくらい勉強しているんですか?」
「うーん、一時間くらいかな」
「少ないですね」
「結構辛辣だね」
「それで学年トップとか僻まれますよ?」
僕が僻む。そして、嫉む。
「仕方ないことだね」
「そうですね」
「で、なんで僕の勉強時間を聞いたんだい?」
「様式美ってやつですよ」
「君はよくわからないところに凝るね。というか、そんな様式美があるなんて初めて知ったよ。何処情報だい?」
「これは、昔から言われてますよ」
真っ赤な嘘だが。
「うそつきは泥棒の始まりだよ?」
「それは昔から言われてますね」
空は、まだ青い。さすが夏だとほめたくなる。空が青くても朱くても、僕がやることはあまり変わらないのだが。でも、どちらかというと青い空のほうが吸い込まれる気がする。朱い空は、すべてを拒絶している。朱い空で落ちるより、青い空で届きたい。
「先輩」
先輩は黙々と読書をしている。いや、黙々と、というのは僕と話している時点で適切ではないが。
だが、人を寄せ付けないような雰囲気を纏っているのだ。フェンスの鉄カスがセーラ服に付着しても気にしない姿、それこそが孤高の読書人の象徴のような気がした。風で何も短くしていないスカートがはためいても、気にも留めていない。
「やっていることが分かっているなら、邪魔しないでくれるかな?」
僕の言葉は邪魔らしい。やはり、辛辣である。
「謹んで辞退します」
それでも僕は寄っていくわけだが。
「ひどい人間だ」
「決別、しました?」
こんな時にする話ではないのは重々承知だ。これ以上ひどい人間だと思われたくなかったという理由もある。いや、自分がひどい人間だという話題で会話を展開させるのはいろいろときついものだ。
「口調でわからないかい?」
「先輩の口調は特徴的ですからね」
「“僕”の口調は変わっているといわれるからね」
「その口ぶりだと、認めてないですね」
僕っ娘で理屈屋。そんな人間たくさんはいない。半年前からの先輩と、彼女だ。
「一般的な口調と言うつもりはないよ」
「特段変わっているとも言いたくないんですね」
「ご明察」
吹奏楽が、また聞こえる。天に届くような音だ。うまいわけではないけれど。僕は、何か天に届くものがあるだろうか。まだ、無い。
「先輩」
「なんだい?」
「帰ります。さようなら」
僕はそこらへんに放り出してあった教科書入りエナメルバッグをとった。意外と重く、少しだけ身体をとられた。
「さようなら。続きかい?」
「はい。まだ、できていませんから」
屋上と校舎の境にある錆びた扉を僕は開け、屋上を後にした。




