乾パン
息を、吐く。
幸いにも、ヒューマノイドは見かけなかった。
倒れこむ。
灰色のコンクリートは僕を歓迎していないようで、激痛を背中に与えやがった。屋上は晴れ晴れとしていて、先ほど見た光景は嘘のようであった。だが、あれはまぎれもない現実であり、妹だったものがあそこでやっていたことは、僕の道徳観から逸脱しすぎていた。
「大丈夫かい?」
大丈夫じゃなさそうな先輩が、グラウンドを見つめていた。
「いや、全然」
話はそれるが、全然を肯定文で使った人の功績はすごいと思う。もちろん、今の文章は否定だが。
「ああ、僕もまったくもって大丈夫じゃないよ」
先輩はフェンスに凭れた。僕は朦朧となる意識を何とか押しとどめて、先輩のほうを向く。
ふわりと、風が凪ぐ。
「風、強いですね」
先ほどの話題ばかり繰り返していたら、血を吐きそうだ。
「……そうだね」
先輩もその意図は察したようであった。
僕は、空を向いたまんま大きく息を吸う。そして、吐く。深呼吸をしていないと押しつぶされそうになる。
「飛んでいきそうです」
軽いジョークだ。
「不謹慎だね」
「全くです」
まぁ、簡単に返されるわけだ。
「にしても、どうするんだい?」
「どうしましょうか」
「いやいや、僕はここでのんびりと一か月くらい生活するつもりだけど」
先輩は、しっかりと居住空間を築いていた。それに対して、僕は行き当たりばったりの生活を繰り返すのみである。
「まぁ、とりあえず家に帰ります」
「ロボットは大丈夫なのかい?」
「先ほども言いましたけど、僕はロボットを従えられますから」
「そうかい」
やっぱり、信じていないようだった。
「まぁ、行きますね」
「ん。行ってらっしゃい」
僕は立ち上がった。ふらりとした。腹が鳴った。
「乾パンもらっていいですか?」
「もちろん」
僕は手近にあった袋を一つ手に取った。最近の乾パンは缶の中ではなく、袋に入っていることを初めて知った。
それを半ば強引にこじ開けて、一つだけ乾パンをとる。
乾パンは固まっていて、見るからにおいしそうではない。
一つだけ、口に放り込んだ。
バリバリ、バリバリ。
吐きそうである。
自分がモノを食べているという感触自体が、先ほどの事態を嫌でも想起させてしまう。本当に、吐きそうである。
「扉の向こうで食べてきてもらってもいいかい?」
先輩も同様なようだ。顔が先ほどしゃべっていた時よりも幾分か青ざめている。
僕は乾パンを一つだけ口に放り込んで、固まった小麦粉が付いた右手を、鉄がさび付いた扉に伸ばした。
ガチャリと大きな音を立てて扉を閉めると、夕焼けの橙色が錆びた鉄に遮られ、途端に薄暗くなった。僕は左手に持っている袋を黒く汚れている壁に凭れさせた。吐いた息はすんなりと空気に充満する。赤茶けた酸化鉄が学ランにつくのも気にしないで、僕も扉に凭れた。
屋上への階段は鉄になっていて、何故屋上への階段だけがほかの違うのかが不思議でならない。
乾パンを一つ、手に取った。
せわしなく階段を上り下りする音が、ひっきりなしに聞こえてくるが、屋上へ登ってくる人は誰もいない。自分だけの空間で、乾パンと一緒に。
天井にある、点いていない電燈は、この場所の不気味さを一層際立たせている。揺らりと白い影が見えれば、わぁと飛び上がる自身がある。
一つ、乾パンをかじる。
同時、視界が混乱。
クルリと世界は回ったように揺蕩って、身体すべては重力が氾濫したかのように四方八方突き出て引っ込めてな感覚に酔った。
血液は全身の出たがってる外に。
踏みとどまり、飲み込む。
混乱が収まると、ただただ小麦粉の味気なさが口の中に広がって、水分がないことに今頃気づいた。
でも、渇いたのどよりも、少量の食物を口に含んだことにより、声を大にして自分を主張する空いた腹よりは
軽かった。すると、何ともいい匂いが階段下から漂ってくるわけじゃないか。
そういえば、もう夕刻である。
この匂いはトン汁であろう。なら、学校という避難民が大勢集まるところで炊き出しをしていてもなんらおかしくはない。というか、当然であろう。
が、今のぼくは態々階段を下りたり、礼儀正しく十番を舞っている余裕はない。わがままでせっかちな僕のおなかは悠長に待ってくれそうもないのだ。譲り合いの精神を発揮するのは今じゃないと、僕の本能が訴えているのである。
僕は、いくつかの乾パンを口に運んだ。まだ、吐き気は襲ってくる。だが、先ほどより幾分もましである。そして、この吐き気にも慣れてしまった。
僕は腹を空かせたライオンも真っ青な勢いで、乾パンをむさぼりはじめる。
バクバクと、ガリガリと。
僕と乾パンだけの閉鎖的な空間に、単調な音が反響している。
僕は少しずつ満ちていく腹に、満足し始めた。




