超能力者
彼は目立たない生徒だった。むしろ凡庸過ぎるようにすら見えた。同級生にも下級生にも等しく軽んじられていた。嫌がらせも度々受けていたように思う。だが彼はいつも決して憤ること無く、ただわずかにその相貌を細めるのだった。
彼はよく本を読んでいた。今思い返しても、文庫本を持っていない彼を想像することは出来ない。本を読んでいる彼はどんな呼びかけにも、或いは教師の注意にですら答えることはなかった。強引に本を閉じられて初めて、文字をまだ追っているかのようなその目を上げるのだった。
その目。その目を私はこよなく愛した。絶望でも憎悪でも軽蔑でもない。ただ、その両眼は冷たく澄んでいた。
無関心。それは、完璧な無関心だった。私は毎日のように、彼の持つその本を閉じさせ、その動かない瞳孔を観察して楽しんだ。
彼が読む本は、チェーホフだったり、太宰だったり、はたまた素粒子物理学だったり、まちまちだった。
「面白い?」
時折尋ねたが、いつも白痴のような口調で
「読めば」
という気の無い答えが返ってくるばかりだった。語尾が上がる訳でもない。
自分で読めばいい、を省略したものだと私は受け取り、なるほど全うな答えだと妙なところで納得したのを覚えている。
あれは多分放課後の図書室だったろう。そこには私と彼しかいなかった。彼はゴーゴリを読んでいた。私はそれを閉じ、例によって彼は私の向うを見つめた。その死者のもののような両目。
私は急に怒りを覚えた。自分でも戸惑うほどの、それは激怒だった。
「死ね」
私は言った。周りの好奇の視線が集まるのを感じた。私は手近の数人を睨みつけた。避けるように彼らは本に目を戻す。
やはり、彼は無反応だった。
「死ーね」
私は繰り返す。
彼は急に笑い出した。可笑しくて可笑しくて堪らないような、爆発的な笑いだった。
狂人だ。胸の底が冷たくなる。顔に出さないのがやっとだった。
それが彼の人間性だとは、その当時はまだ知らなかった。彼は、少なくとも彼の一部は、狂人そのものだった。
私はその頃、学校帰りに父に会いに行っていた。母には無論内緒だったし、誰に知られるわけにもいかなかった。私は駅前の雑踏を何度も行き来し、スクランブル交差点を横切って、誰もが自分に無関心であることを確認するまでは、決して路地へは入らなかった。
だがそんなある日、私は陸橋の上の彼に気付いた。彼は柵に両肘をもたれ、じっと何処か人込みを見ていた。私は自らの迂闊さを呪った。寒気がするほどだった。
私は下から彼を睨んだ。そして全く自分を見ている様子がないことに、少しの安心を覚え、ようやく下唇を咬むのを止めた。
確認しないわけにはいかない。私は長い陸橋の階段を上った。想像以上に広い通路の中程で歩みを止め、彼の後ろに立った。彼は身動ぎもせず、じっと雑踏を見ていた。振り返りもしなかった。
「宇都宮」
私は彼の名を呼んだ。彼は無言で振り返った。気を付けて観察したが、少なくとも私を見るその目は、いつもと変わりなかった。夕方の光を浴びても決してその色を映すことはない。彼は黙したまま、その目をまた下へ投じた。
私は彼の視線の先を追ってみたが、やはり彼が何を見ているのかは分からなかった。
「面白い?」
彼は目をわずかに細め、正面から私を見据えた。私は思わず背筋を伸ばした。
「目、悪いのか」
彼は言った。
「いえ」
私は答えた。
「コンタクト」
「いえ」
まあ、いいか、とでも言うように彼は一つ浅い吐息を漏らす。私は生まれて初めて、見透かされる恐怖を感じていた。
「あそこのキャップの男」
彼は足早に歩く一人の男を指差す。次いで彼は三十メートル先にそれを動かした。
「チェックの服のあの男の財布を掏る。銅像の下にいるのは仲間」
彼はそのまま歩いていく。
「何処へ行くの?」
「帰る」
眼下ではキャップの男が、チェックの服の男に不自然に近付いていた。同時に銅像の下の男がそろそろと歩き出す。
程無くキャップの男は雑踏に紛れて見えなくなった。私はビルのこちら側が夜になるもで、何をするでも無くそこに呆けたように突っ立っていた。
回収されていない伏線があります。
これから、「私」のことも描かれるにつれ、「私」の目のことも描写される予定でした。
そもそも長編のつもりで書きはじめたものの、例によって挫折したパターンです。
こんな続きを書けよ!みたいなご感想を頂けるととても嬉しいですね。