1ー10 脱出への序曲
薄暗い部屋の隅で、ギルバートは古びた木製の椅子に深く腰掛け、空になった酒瓶を眺めていた。 窓の外には、王国の華やかな夜景が広がっている。 しかし、その輝きは、彼の心に届かない。 むしろ、彼の内面を照らすのは、闇だった。
ギルバートは、元々は剣士を目指していた。 鍛え抜かれた肉体、鋭い眼光、そして、正義感。 子供の頃は、英雄になることを夢見ていた。 剣を手に、悪と戦い、人々を救う。 それは、彼にとって、揺るぎない信念だった。
しかし、現実は、彼の夢を打ち砕いた。 貧しさと、家族を養わなければならないという現実。 彼は、剣を捨てるしかなかった。 そして、この汚れた仕事に手を染めることになった。
臓器売買… それは、決して誇れる仕事ではない。 毎日、人間の体の一部を切り刻み、闇市場に送り出す。 その行為に、彼は深い罪悪感を感じている。 しかし、それを止めることはできない。 彼の家族は、彼を頼りに生きている。 彼は、家族を養うために、この闇の仕事に身をやつしているのだ。
今、彼の手に握られているのは、手術用のメスではなく、酒瓶だ。 その冷たい感触は、まるで、彼の冷え切った心を映し出しているかのようだ。 彼は、酒を呷りながら、かつての夢を思い出す。 剣士として、人々を救う夢を。
「… あの時、違う道を選んでいれば…」
ギルバートは、呟いた。 しかし、過去は変えられない。 彼は、現実を受け入れなければならない。 彼は、この闇の中で、それでもなお、わずかな希望を胸に抱きながら生きている。
それは、いつか、この汚れた仕事から解放され、家族と共に、穏やかな生活を送りたいという、ささやかな希望だった。 彼は、酒瓶を置き、窓の外の夜景を眺めた。 静かに、祈りを捧げた。 彼の家族の幸せを祈りながら。 そして、いつか、自分の罪を償える日を祈りながら。
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ギルバートが去った薄暗い部屋の机の上で、瑠華は毛布をかけられ、眠れない夜を過ごしていた。毛布は少し温もりを感じる。手足はまだ動かず、体は制御不能だ。 どうして放置されるのだろうか。冷たい湿った感触が、彼女の体を覆う。 絶望的な状況の中で、瑠華は、ただひたすら、過去の記憶に囚われていた。
瑠華は、この暗闇の中で、ただひたすら、静かにその音を聞く。光は、まだ、非常に弱く、頼りない。 瑠華は、この暗闇の中で、ひたすら、静かに耳を澄ませていた。
スフィアからの信号は、段々と、私の心を温かく包み込むような、優しい光だ。 それは、私にとって、希望の星。 私は、この暗闇から、必ず抜け出す。そう信じて。
薄暗い部屋の中で、私は静かに耳を澄ませていた。 脳内には、トントンという音が、絶え間なく響き渡る。 それは、スフィアからのデジタル信号。 そして、瑠華は理解した。
『瑠華の脊髄神経を修復しています』と。
盗まれた太腿には違和感があるが、確かに、足の指先が、わずかに動くようになった。 ほんの少しだけだが、動かせるようになった。 それは、瑠華にとって、大きな希望の光だった。
スフィアからのメッセージは、さらに続く。『ココロを修復しています』。
その言葉に、瑠華は、涙がこぼれそうになった。 スフィアは、彼女の心を癒そうとしてくれているのだ。
この部屋は、冷たく湿った空気が漂う。肌は常に冷たさで震える、不快な場所だ。 それでも、瑠華は、少しずつ部屋に慣れてきた。 そして、瑠華は考える。 「最悪」とは、一体何なのだろうか? 小学校の時のいじめ? 高架道路での事故? それとも、今のこの状況?
瑠華の鏡像、それは、量子の世界。まるで、不幸の反対側から私の心を拾い上げているかのようだ。さらに光が見えてきた。
「瑠華、大丈夫だ。 そして、君は強くなれる」
スフィアの声が、瑠華の心に直接響き渡る。 それは、優しく、力強い声だった。 あなたには抜け出る力があると私を励ましてくれている。
(わたしは、決して見捨てられない)
瑠華は、この暗いの中で、一人ではない。彼女は、スフィアの言葉に支えられ、強くなっている。 トトト音が連続して繋がり映像として判別できるようになったようだ。
(そう、明るい星が見える。私は、この部屋から、必ず出ていく)
その時、瑠華の脳裏に、また1つの言葉が、ふっと横切った。
(「鏡像異性体」。 最悪の私……この傷だらけの、無力な私……それは、最高の私の写し鏡なのかもしれない)
不幸な現実は幸せへの道標。彼女の目が、静かに大きく開かれた。