四都物語異聞:白狐の影
「四都物語異聞:白狐の影」
深まる闇の先にこそ、見えぬ光は静かに息づく。それは凍てつく心に失われた温もりを与える。
1
帝都、青龍京の右京。その中でも特に日陰に隠れた路地裏の奥深くに、ひっそりと暮らす老婆がいた。名はお里。齢七十に手が届こうかという、背の曲がった老女である。
『白蓮』の店が佇む場所から幾重にも奥まった、朽ちかけた土壁と煤けた木戸ばかりの一角は、日中の喧騒すら届かぬ静寂に包まれ、しかし、深い悲哀が澱む場所であった。
お里の心は、五年前に愛しい一人息子を亡くして以来、まるで枯れ果てた古井戸のように光を失っていた。
息子は、右京の貧しき暮らしの中、母を支えてくれた唯一の光。夏の疫病は、その若く逞しい命をあっという間に奪い去った。
お里にとっては生き甲斐ともいえる存在の喪失であった。息子の死後、彼女はただ生かされているだけの骸となった。温かな笑顔はなく、優しく語ることもない。ただ毎日、陽の当たらぬ部屋で息子の形見を抱きしめるだけであった。
近隣の者たちは、時折、気を遣って声を掛けるものの、その深い哀しみを埋めることはできず、時間ばかりが虚しく過ぎていくばかりだった。
その日もまた、お里は息子の着物を抱き、小さく震える肩で夜を過ごしていた。
障子の向こうには、月も星も見えず、漆黒の闇が広がっている。右京の夜には、時に遠くで妖が跋扈する気配もするが、お里の心を動かすものとはなり得なかった。
ただ、息子の遺した匂いだけが、唯一の現実として彼女を現世に繋ぎ止めていた。
夜更けの凍えるような寒さに、お里は身を縮めた。
するとその時、ひっそりと開いていた木戸の隙間から、白い影がするりと差し込んだ。
お里は、はっと顔を上げた。そこにいたのは、一匹の狐。だが、その狐はただの獣ではなかった。その真白な毛並みは月光を吸い込んだように淡く輝き、その瞳は夜闇の中でも澄んだ琥珀色に煌めいていたのだ。
お里は、息を呑んだ。その狐の佇まいが、どこか亡き息子に似ているように感じたのだ。
息子は、幼い頃から人懐っこく、どこか愛らしい顔立ちをしていた。あの狐の瞳は、まるで息子の真っ直ぐな眼差しを映しているかのようではないか。まさか、そんなはずはない。幻か。哀しみが深すぎて、ついに幻覚を見るようになったのか。
狐は、お里の視線に動じることなく、静かに部屋の隅へと歩み寄った。そして、そこにちょこんと座り込み、琥珀色の瞳でじっとお里を見つめた。その眼差しには、何の悪意もなく、ただ、静かな、深い慈愛が宿っているように感じられた。
お里は、恐怖よりも先に、得体の知れぬ温かさを感じていた。凍てついた心の奥深くに、かすかな火が灯されたかのような感覚であった。
狐は、一時間ほどそこに佇み、やがて夜の闇の中へと静かに消え去った。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。残されたのは、部屋に微かに漂う、清らかな、しかしどこか懐かしき香りの気配だけであった。
それは、お里がこれまで嗅いだことのない、されど心を深く落ち着かせる、不思議なものだった。
その日から、白い狐は幾日かに一度、お里の前に姿を現すようになった。
いつも同じ夜更け、同じ木戸の隙間から、音もなく現れては、ただ静かに寄り添い、そして夜闇に消えゆく。言葉は一切交わされぬ。しかし、その存在は、お里の枯れ果てた心に微かな潤いをもたらし始めていた。
狐の瞳は、変わらず亡くした息子に似ていて、その度に、お里の胸には温かい何かが込み上げてくる。それは、悲しみとは異なる、慈しみにも似た感情であった。
2
お里は、白い狐のために、毎日木戸の傍らに水を置くようになった。
最初はただの慣いであったが、いつしかそれは、狐への感謝と、ささやかな喜びへと変わっていった。水はいつも、翌朝には少しだけ減っていた。狐が飲んだ証拠だと、お里は密かに喜んだ。
近隣の民たちは、お里の変化に気づき始めた。以前は沈み切っていた顔に、時折、微かな笑みが浮かぶようになったのだ。口数は相変わらず少なかったが、その眼差しには絶望の色は薄れ、以前の様に穏やかな優しい光が宿っていた。
「お里さん、近頃は少し顔色がよくなりましたね」
近所の八百屋の女が、そう声をかけると、お里は小さく頷き、そして、どこか遠くを見るような目で、こう呟いた。
「ええ……ええ。お陰様で、ずいぶんと、心が……」
それ以上は何も語らなかったが、彼女の心に、確かに何かが芽生え始めていることは、周りの者にも伝わった。
白い狐は、時には小枝をくわえてきたり、時には珍しき夜露に濡れた草花を木戸の前に置いていくこともあった。
お里はそれらを大切に、息子の形見の傍らに置いた。特に、夜露に濡れた草花からは、あの清らかな香りが微かに漂い、お里の心を安らかにした。それは、まるで亡き息子が、遠き場所から送ってくれているような、不思議な感覚であった。
香りの気配が、お里と狐の間の見えざる言葉となり、絆を深めていった。
季節が移ろい、秋の虫の音が響く夜。白い狐は、いつもより長くお里の部屋に留まった。その瞳は、いつもと変わらず澄んでいたが、どこか深い情感を宿しているように見えた。
お里は、その夜、初めて狐にそっと手を伸ばした。震える指先が、白く柔らかな毛並みに触れる。ひやりとした感触だが、すぐにじんわりと温もりが伝わってきた。狐は、逃げることなく、その手を自然に受け入れた。
「……お前なのかい……」
お里はかすれた声で呟いた。それは、五年ぶりの息子への呼びかけであった。
涙が止めどなく溢れ落ちる。狐はその涙を拭うように、そっとお里の手に頬を寄せた。言葉は交わされなかったが、その触れ合いは、何よりも雄弁だった。
そこにいるは、決して息子ではない。しかし、息子の面影を宿し、息子の代わりにお里の心に寄り添ってくれる、かけがえのない存在だった。
3
ある夜、白い狐は、いつもと違う様子で現れた。その瞳には、いつもの慈愛に加え、微かな愁が宿っているように見えた。
狐は、お里のそばに座り込むと、珍しく鼻を鳴らし、しきりに木戸の外を気にするそぶりを見せた。
お里は、その異変に気づいた。狐が、何かを伝えようとしている。言葉は交わせなくとも、長らく寄り添ってきた絆が、そう感じさせた。
「……何か、あるのかい?」
お里が問いかけると、狐はゆっくりと立ち上がり、木戸の方へ促すように顔を向けた。そして、微かに尾を振り、一度だけ振り返って、じっとお里を見つめた。その瞳に、何かを「託す」ような、強い光を見た気がした。
お里は、木戸を開けた。
外は、いつもと変わらぬ右京の暗き路地。だが、その先にかすかに白い光が揺れているのが見えた。
気がつくと、狐は何かを咥えていた。それは息子の形見ともいえる着物だった。大切に仕舞っておいた、大切なものだった。
不思議に思いながらも、お里は着物を受け取った。
それに満足したのか、狐は光の方へ、ゆっくりと歩き始めた。お里は、迷いなくその後を追った。
路地を抜けると、そこは小さな荒れ地だった。
普段は誰も近寄らぬ、寂しい場所。その中央に、小さな祠が建っている。朽ちた木でできた、見るからにみすぼらしい古びた祠。普段は誰も気に留めない祠だった。
その祠の前に、先ほどの白い光が、まるで生命の灯のように揺らめいていた。
狐は、祠の前で立ち止まり、祠を見上げた。その瞳には、深い悲しみが宿っていた。
お里は、祠に近づいた。すると、その光が、まるで小さな魂の塊であるかのように、微かに鼓動しているのが感じられた。
「これは……」
お里はその光から、かすかな、けれど確かな「別れ」の気配を感じ取った。そして、狐の瞳から、その光への深い「未練」を読み取った。この狐は、この光を守っていたのだ。この光こそが、狐にとって大切な何かなのだと。
狐は、再びお里を見つめた。その瞳は、今度は「頼む」と語りかけているように見えた。この光を、どうか安らかに、どこかへ導いてほしいと。
お里は、直感で理解した。
この光は、この祠に宿る、穢れてしまった魂。そして、この白い狐は、その穢れを浄化しようと、ずっと寄り添い続けていたのであろう。自らが妖であるが故に、完全に浄化することができぬままで。
お里は、迷わなかった。自らの子が安らかであることを願い続けた彼女ゆえに、この魂の安寧を願う狐の気持ちが痛いほどに分かったのだ。
彼女は、静かに祠の前に座り込んだ。そして、その手に持っていた息子の形見の着物を、そっと祠の前に広げた。
「安らかに……安らかに、お眠りなさい」
お里は枯れた声で、心を込めて語りかけた。そして、幼い頃に息子に歌って聞かせた子守唄を、小さく口ずさんだ。その歌声は、右京の夜の闇に、静かに、されど確かに響き渡った。
白い狐は、お里の隣に寄り添い、共に祠を見つめていた。
お里が歌い続ける間、祠より放たれていた白い光は、次第に穏やかになり、やがて、まるで朝露が蒸発するように、静かに確実に薄れていった。その光が完全に消え去る頃、あたりには、これまで感じたことのない、清らかな、深い安堵するような香りが漂っていた。
それは、苦しみから解放された魂の、静かな喜びの香りであった。
光が消えた後、狐は、一度だけ、お里の顔を見上げた。
その瞳には、今までにない深い感謝が宿っていた。そして、静かに、来た道を戻っていく。
お里は、その背を見送った。
いつものように、音もなく、夜闇に溶け込んでゆく白い影。しかし、いつもとは違う白い影。
狐の姿が完全に消えた後も、お里の心には、満たされたような、深い安らぎが残っていた。枯れていた古井戸に、新たな水が満ちたかのように。
それからというもの、お里の部屋には、あの清らかな香りが、いつまでも微かに漂っていた。それは、桜の精が残した香りのように、不思議な力で心を癒やすものだった。
もしかしたら、この香りこそが、あの夜、白い狐が置いていった「清らかな香り」の源であったのかもしれない。
4
その夜を境に、白い狐がお里の前に姿を現すことはなくなった。
お里は寂しさを感じなかったわけではない。でも、その寂しさの奥には、確かな充実感が満ちていた。狐が教えてくれた「魂の安寧」は、お里自身の心を解き放ち、息子の死という重き軛から、静かに立ち直る力を与えていた。
お里は、祠を綺麗に清め、小さな花を手向けるようになった。そして、祠を見守るようになった。路地の奥の古い祠は、いつしか、お里にとって「静かなるものを見守る」場所となっていた。
お里の暮らしは穏やかになった。
朝は早くから木戸を開け、路地の掃除をし、日がな一日、庭で育てた小さな草花を手入れする。その指先は、以前よりも温かく、何かの生命力を宿しているかのようだった。
近隣の者たちは、お里の穏やかな変化を喜んだ。彼女の顔には、五年ぶりに、心からの笑みが浮かぶようになったのだ。
「お里さんのお家は、いつもいい香りがするね」
ある日、通りすがりの子供が、お里の家の前で立ち止まって、そう言った。
お里は、目を細めて微笑んだ。その香りとは、おそらく、あの夜、祠より解き放たれた魂が残していった、清らかな香りの名残り。白い狐が置いていった香りの気配が、今もこの路地の奥に息づいているのかもしれない。
白い狐の姿をもう見ることはない。しかし、彼女の心には、言葉を交わさずとも、互いの存在が静かに支えとなった、あの儚い絆が深くに刻まれていた。
その絆は右京の片隅で、密かに息づいている。