第1章「赤い門と黒い瞳」
門が、血のように赤かった。
朝の光が差していても、その色だけは妙に沈んで見える。
目の前に広がるその学び舎は、ただの学校ではない。
ここは“魔物”と戦う術を学ぶ場所――紅蓮学園。
でも、いざその門を前にすると、足が止まった。
「……思ったより、重たい雰囲気」
誰に聞かせるでもなく、私はつぶやいた。
制服の胸元をぎゅっと握って、息を吸い込む。
ここに来たのは、自分の意思だった。
強くなりたかった。ちゃんと、人を守れるようになりたかった。
「緊張してるの?」
突然、後ろから声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、同じ制服を着た少女が立っていた。
黒髪のロング、細い輪郭、白い肌。どこか中性的で、目元が印象的だった。
眠たげなその瞳は、不思議と人を拒まない。
「え……あ、うん。少しだけ」
「ふふ、やっぱり」
「バレてた?」
「わかるよ。あたしも同じたから」
少女はそう言って、小さく手を差し出した。
「ミラ・ルイス。同じ一年。クラスも一緒だといいね」
「レイラ。えっと、レイラ・セルヴァ。よろしく」
手を握ると、思っていたよりも冷たくて、指先が細かった。
でも、すぐにその手の温度が伝わってくるのを感じた。
二人で並んで歩くうち、少しずつ緊張がほどけていく。
ミラは静かだけど、ちゃんと話を聞いてくれる。
私が一言しゃべるたびに、うなずいたり、小さく笑ったり。
無理に盛り上げようとしない優しさが、心地よかった。
講堂に入ると、すでに式の準備が始まっていた。
前方の壇上には、白髪の男性――ケンハン校長が立っていた。
写真では何度か見たことがある。魔物との戦歴を持ち、今も第一線で教鞭を執っているという。
「――君たちはこれから、“魔性”と呼ばれるものと向き合う」
開口一番、そう語られた声は、思っていたよりも静かだった。
「魔性。それは病だ。感染し、理性を蝕み、やがて人を魔物に変えてしまう。
この学園は、それを討つ術を教える場所だ。だが、それだけではない」
私は思わず顔を上げる。
「力を使うとはどういうことか。
“救う”という行為に、どれだけの責任があるのか」
ケンハン校長の言葉は、誰かを叱るでも、鼓舞するでもなかった。
ただ、問いかけるように、静かに届いてきた。
「君たちがこれから選ぶ行動のすべてに、“誰かの命”が関わる。
そのことを、忘れないでほしい」
私はそのとき、ふと隣を見る。
ミラは、ずっと目を伏せたままだった。
姿勢は正しいのに、どこか――苦しそうにも見えた。
「……なんか、思ってたのと違ったかも」
式が終わり、講堂を出るタイミングで私が言うと、ミラは小さく笑った。
「うん。でも、これがこの学園の“本音”なんだと思う」
「“魔性を倒せ”ってだけじゃないんだね」
「うん。ここは、“どう向き合うか”を教える場所だから」
その言葉は、なぜかしっかりと心に残った。
クラス分けが張り出された掲示板の前は、朝から混雑していた。
「C組……あった! あたし、C組!」
「奇遇ね。あたしも」
私の肩越しに声がして、振り返ると、やっぱりミラがいた。
表情はあいかわらず落ち着いていて、まるで最初から知っていたかのようだった。
「ほんとに一緒のクラスなんだね」
「うん、嬉しい」
「……レイラって、すぐ顔に出るタイプだね。顔が真っ赤」
「え、出てる? やだ、恥ずかしい……」
「ふふ、大丈夫。いいことだと思うよ」
教室に入ると、私たちの席は本当に隣同士だった。
窓際の後ろから2番目。日差しが差し込む、ちょっと居心地の良さそうな場所。
「この席、悪くないね」
「うん。外、よく見えるし」
ミラは鞄の中から、丁寧に一枚の折り紙を取り出した。
手の中でくるくると紙が動いて、あっという間に、白い鶴が姿を現す。
「器用だね」
「昔から折るのが好きで。
無駄だって言われることもあるけど……なんとなく、心が落ち着くんだよね」
彼女の手の動きは静かで、でもどこか切なさを含んでいるように見えた。
「それ、誰かにあげたりするの?」
「ううん、自分用。
形のない紙に、ちゃんと意味を持たせられるって、いいなって思うから」
「……なんか、深いね」
「そう?」
ミラは小さく笑った。
その笑顔には刺がなかったけど、なぜか少しだけ、遠くに感じた。
「ねえ、レイラ」
「ん?」
「魔性ってさ、全部“殺すしかない”って……思ってる?」
問いかけは、あまりにも自然だったのに、私の胸にずしんと重く響いた。
「え……えっと……」
「無理に答えなくてもいいよ。」
私の言葉を待たずに、ミラは鶴を折り終えて、机の上にそっと置いた。
「教科書には、“魔性に感染したら最終的に理性を失い、魔物になる”ってあるでしょ?
だから討伐対象だ、って」
「うん……そう教わってきた」
「でも、それだけで終わらせていいのかな、って思うこともある。」
ミラの目は、まっすぐだった。
どこか寂しげで、でも強くて、私の中にあった“常識”を静かに揺らした。
「レイラは、どう?」
「……正直に言っていい?」
「もちろん」
「わからない。
だって、まだ魔性の人に会ったこともないし、教科書でしか知らないし……
でも、なんか今、ミラの話聞いて……ちょっとだけ、違和感が出てきた」
「うん、それでいいと思う」
ミラはそれ以上言わなかった。
けれど、机の上に並んだ鶴が、何かを伝えようとしているように見えた。
静かで、でも強く。
そのとき、教室の扉が開いた。
空気が、一瞬止まる。
「……あの人……」
ざわっと、前の方で誰かが小さくささやいた。
ゆっくりと、教室に入ってきたのは、一人の男子生徒。
銀色の髪。鋭い目元。どこか無気力な雰囲気をまといながらも、背筋はぶれず、歩き方には揺るがない重みがあった。
「誰?」
「……三年の、シュレン・ユグドラス。主席。全科目トップ。
それに――実戦経験もある、すごい人だって」
彼がこちらに一瞥をくれた気がして、私は息をのんだ。
まるで心の奥を見透かされたような、そんな錯覚。
「わかる。好きになるでしょ?」
「え、え、なにっ?!」
「今、完全に見惚れてた。わかりやすいなぁ、レイラって」
顔が一気に熱くなるのが、自分でもわかった。
午後の戦技演習。
広い訓練場に並べられた模擬魔物体。実際に攻撃しても問題ないよう、魔物の形をした訓練用の対人標的だった。
教官のヴィン先生が、手を叩いて笑う。
「お前ら、よく聞け。今日は特別講師付きの模範演習だ。
三年主席、シュレン・ユグドラス先輩のお手並み、よく見とけ」
「マジで!? 本物!?」
「さっきの人だよね……」
私のまわりで、小さなどよめきが走る。
ただ一人、ミラだけは騒ぎに加わらず、静かにシュレンの姿を見ていた。
訓練場の中心。
シュレンは両手をポケットに突っ込んだまま、模擬魔性体と向き合う。
教官が合図の札を振り下ろす。
次の瞬間だった。
――音が、なかった。
空気が、切れたように感じた。
風が巻き、魔性体が一瞬で崩れ落ちた。
誰も、その動きを見ていない。
彼はただ、立ったまま、微かに体を戻しただけだった。
「……なに、今の……」
隣の生徒がつぶやく。
私は声すら出せず、ただ息を止めていた。
強い。
それはもう、どうしようもないほどに。
あまりに違いすぎて、驚きよりも“現実感”がなかった。
シュレンがこちらに目を向けた。
ほんの一瞬。
けれど、その目はまっすぐに私たちを貫いた気がした。
何も言わずに歩き去る彼の背を、教官が満足げに見送った。
「お前ら、あれが一流ってやつだ。わかったか?
迷いのない動きが、最終的には命を守る」
「……ほんとに、すごいね」
私はポツリと呟いた。
「うん、すごいよ。……でもね」
ミラが、静かに言った。
「“強い”からって、“正しい”とは限らない」
その言葉は、どこかに引っかかった。
まっすぐなようでいて、深く沈んでいるような声だった。
「……ミラは、シュレン先輩、嫌い?」
「嫌いじゃない。むしろ、尊敬してるよ。
でも、“疑いなく斬れる人”って、ちょっと怖いでしょ」
私は答えられなかった。
彼の姿を見て、たしかに憧れもあった。
でも、あれだけ何の迷いもなく“倒す”ことができる人って、どんな心をしてるんだろう――そんな怖さも、同時に感じていた。
夕方。授業がすべて終わり、校舎の外に出ると、空は橙色に染まっていた。
あの赤い門が、朝よりもさらに濃い色で沈んで見える。
「なんか、今日だけでいろいろあったな……」
独りごとのように呟くと、ミラが少しだけ横を向いた。
「レイラは、なんでこの学園に来たの?」
私は一瞬、返事に詰まった。
……強くなりたかった。
でもそれだけじゃない。
誰かを助けたかった。――でも、誰を?
「……わからない、かも。
でも、たぶん“信じたくなかった”んだと思う。
魔性にかかったら、もう終わりだって。
“殺すしかない”って、全部決まってる世界が、本当に正しいのかなって……」
ミラは何も言わなかった。
ただ、静かにうなずいた。
「……変だね、私」
「ううん。そういうの、大切だと思うよ」
沈む夕日が、校舎のガラスを赤く染める。
あの赤い門と、同じ色。
でも朝とは違って、それが少しだけ温かく見えた。
明日になったら、また新しい“正しさ”が私の前に現れるのかもしれない。
でも、今はまだ迷ってていい――そんな気がした。
ここが、私の物語の始まり。
そのことだけは、はっきりと感じていた。