うどんそばを食べに行く
「ここか」
藤一郎はそれを見上げて独り言ちた。ネットで調べたら駅から歩いてニ十分くらいで着くって書いてあったのに、四十分くらいかかった。かかりすぎだろうか。まあでも初めて来た場所だしな。そう思う事にした。上を見上げた藤一郎の前に、高い高い、ガラス張りのビルがそびえたっていた。セリオンだった。秋田の、土崎港、道の駅あきた港にある、セリオンだった。ようやくついたんだな。そう思った。そう思った途端、彼の中にあった不安が解き放たれて、それで彼は一瞬泣きそうになった。でも、泣くまいと、決して泣くまいと、藤一郎は踏ん張った。踏ん張って泣きそうになるのを我慢した。藤一郎が立っている場所からは海も見えた。対岸に、何か、工業地帯の景色の一個みたいなのも見えた。雪が降っていた。ぼた雪。さすがに海沿いだからだろうか、それまで無かった風が吹いていた。その風の影響か、海は荒れていた。風もピューピューと吹いていた。藤一郎はその風に背中を押されるようにしてセリオンに向かって行った。
冬になると雪が降る。東北地方でも、場所によって雪の振り方は違う。年によっては雪が全く降らない場所もある。藤一郎の住んでいる場所は、それなりだった。勿論、年によってはすごく降る事もあった。いかれているんじゃないかと思う程降る時もあった。でも、普段はそれなりだった。内陸部とか、山に近い場所の方がやっぱり降雪量が多かったし、積雪量も多かった。藤一郎は山形県は酒田市、酒田駅の近くに住んでいた。年末年始もすっかり終わり、正月のあの浮かれたような空気感もとっくに過ぎてしまい、冬休みもあっという間に終わってしまい、学校も始まって、藤一郎は少しなんだか、ふわふわした様な気持ちだった。
「何か、何だろうな。忘れている様な気がする」
町の一角に除雪された雪の山が出来る。毎年そこ、その駐車場の一角に除雪された雪が集められるのだ。集めてどうするのか。どうもしない。あとはもう溶けるのを待つ。春になって溶けてなくなるのを待つ。だから春までそこには雪の山がある。山と言ってもそんなに高いものではない。昔はもっと高かったのになと藤一郎は思う。高かったし、天辺の辺りは険しかった。ナイフリッジみたいになっていた。でも、今はそうじゃない。ちょっとした小高い丘みたいになっている。多分、遊ぶ子供が居て、危ないから、なるべく低くして、なだらかにしたんだろう。藤一郎は地面の水を吸ってこきくなった雪の塊に足を乗せて、そんな事を思った。
空は曇っていた。今にも雪か、雨か、降りそうだった。寒かった。
「うーん」
そうして雪の塊に足を乗せて唸っている藤一郎の頭に、不意にある事が去来した。遠い過去に忘れ去れた神かその御霊が、藤一郎という存在を鳥居に見立てて、そこに降り立ったみたいに。
「あ、僕、年越しそば食べてない」
寒い屋外の、除雪された雪の集積場所の前で、ランドセルを背負ったまま藤一郎はその事を思い出したのだった。もうすっかり年も明けてしまった、一月の中旬、金曜日、明日から三連休というそのタイミングで、藤一郎はそれを思い出したのだった。
なんで食べなかったのか。去年の年末、大晦日に。
藤一郎はその時の事を思い出そうとした。前日、三十日。母親が、夕方頃に買い物に行ってそばを買ってきたのは覚えていた。
「そばと、うどん買ってきた」
そう言ったのは覚えていた。そばとうどん。どっちにしようか。藤一郎自身そう考えた事も思い出した。
しかし藤一郎は食べていなかった。
寝落ちしていたのだった。
思い出した。
大晦日、年が明けたら初詣に行こうと家族で言っていたのに、夕方から雨が降り出した。風も強くて家の中に居ても風がぴゅーぴゅー言っているのが聞こえたのだ。だから、父が、初詣は朝になってから、雨がやんだら、という御触れを出して、それで予定が変更になったのだった、そしてそれで、藤一郎の気持ちが途切れたのだった。途切れて、和室の所で横になって、そのまま意識を失ったのだった。座敷にもストーブが、石油ストーブがついていた。その日の夕方に藤一郎自身が石油を補充していた、ストーブ。愛着のある。それの赤い火を見ているうちに、意識が。
そして気がつくと朝になっていた。藤一郎の体には毛布だなんだがかけてあった。そんで起きて、両親と邂逅して、そしたらもう、御寺さん年始の挨拶に行くぞとかってなってて、あわただしく着替えて、仏花を持って御寺に行って、それが終わったら初詣に行って、そんでそれが終わったらお風呂に行って。年明けたらまず風呂に行くのだ。それが藤一郎の家の決まりなのだ。昼ご飯は、その風呂屋の近くのご飯屋さんで食べて。そうしてなんやかんや。
その結果、藤一郎は年越しそばを食べていないという事になっていた。なっていた。気がついたら。
「年明けてないじゃないか」
自分だけ。
藤一郎は思った。冬の。寒い。除雪されて集められた雪集まりの前で。そして、またふと、神様が降り立ったみたいに、天啓が、藤一郎は閃いたのだった。
セリオンに行こう。
そう、思い付いたのだった。
藤一郎がセリオンに行こうと思ったのには、理由がある。以前、NHKのドキュメント72時間っていう番組を両親が見ていた。藤一郎は別にそんなの興味なかったのだけど、でも、両親が揃って見ていたので、彼自身もそれを見た。なんとなく。見ていた。その日の72時間は、秋田のセリオンの前、うどんそばの自販機のやつだった。セリオンの前に、ちょっとした温室みたいな場所があった。そこにその自販機があるのだという。そばかうどんが選んで食べれるのだという。両親はそれを見ていた、藤一郎も、なんとなく見ていたが、その中にあるシーンが映った。
「うああ」
そのシーンを見た時、藤一郎の口から思わず声が出た。テレビ画面の中は、酷く吹雪いていた。そらまあ、そういう事もあるだろう。だって秋田だもん。藤一郎の住んでる山形県の酒田だってそういう事はある。吹雪く時はある。でも、その中である人、うどんそばの自販機の客が、そばかうどんかを啜っていた。温室みたいなその場所の中だったら、風も無いし、ベンチもある。座って食べれるのに。その人は、もしかしたら中は混んでいたのかもしれない。みんなベンチに座って食べていたのかもしれない。その辺はよく覚えていない。でも、それを見た時、思わず藤一郎は、
「うああ」
って言っていた。驚愕。驚嘆。雪の吹雪く中でそばかうどんを啜ってる。カップに入ったそばかうどんを啜っている。汁飲んでる。
そしてその驚愕、驚嘆はやがて、やがてじゃない。すぐにだ。すぐに藤一郎の中で、憧れに変わった。
「まるで、あさま山荘事件の警察みたいだ」
そう思った。
あさま山荘事件の警察がカップヌードルを食べてる映像。昔をプレイバックするみたいな番組で見た事があった。それに重なった。あれみたいじゃないか。いや、あれよりも酷いかもしれない。凄いかもしれない。だって、吹雪いているんだから。雪が吹雪いているんだから。
そうしてその記憶は藤一郎の中に残ったのだった。
セリオンにはうどんそばの自販機がある。NHKのドキュメント72時間でやってたうどんそばの自販機がある。
それがこの年明けに藤一郎は、学校の帰り、外で、不意に、明日から三連休という時に、自分が年越しそばを食べていないという事に思い当たった後に、まるでそれに連結する列車か何かの様に、盛岡駅で連結する東北新幹線はやぶさと秋田新幹線こまちみたいに。思い出されたのだった。
「年越しそば食べてない」
「セリオンにうどんそばの自販機がある」
そうやって思い出されたのだった。
そして、更にそれに連結して、
「セリオンに行こう」
そう思ったのだった。
ネットで調べた結果、セリオンに行って帰ってくるためには、朝に出発しなくてはいけない。という事が分かった。藤一郎はその日の夜にプランを立てた。晩御飯を両親と揃って食べて、お風呂に入って、おやすみなさいとなるまで、藤一郎は気が気では無かった。布団に入る前にネットで調べたことを紙にメモした。酒田駅から秋田駅までは、まず羽越本線で行かなくてはいけない。電車は一時間に一本しかない。乗り遅れることは許されない。明日、朝起きて、両親と朝ご飯を食べて、そんで遊びに行ってきますって言って、家を出る。そうなるとどうだろう。おおよそ朝の九時位になるのではないだろうか。九時、本当はもっと早く行きたい。でも、そうすると両親になんだかんだ尋ねられるのは間違いなく、正直に話しても、行かせてもらえないのは疑い様がなく。だから、藤一郎は黙っていく事に決めていた。夜ちゃんと帰ってこられたら大丈夫だろう。両親は探偵じゃないし、自分の事を常に監視しているわけでもないだろう。だから大丈夫。そう思う事にした。
九時、九時となると、九時四十四分発の電車。それしかない。藤一郎の家から酒田駅まで行くのに歩いてニ十分くらいかかる。九時に出よう。そう決めた。
電車賃は、酒田から秋田駅まで片道1980円であった。法外な値段だ。しかし、もう行くと決めたのだからと、お正月に行ったじいちゃんちでもらったお年玉を使う事にした。酒田駅から秋田駅までで往復4000円。秋田駅から、土崎駅までは200円らしい。往復400円。そばとうどんの自販機の値段も調べた。一杯350円。そばとうどんを食べたら700円。5000円と100円あれば、とりあえず行ってそばとうどんを食べて帰ってくることが可能だ。いざという時の為にあと5000円。一万円もっていけば、なんとかなるな。藤一郎はそう考えて納得した。しかし同時に、それはつまりじいちゃんからもらったお年玉の全部じゃないか。という事にも思いを巡らせた。それが分かった時、藤一郎は少しだけ、幾分か日和った。でも、なんとか気持ちを保った。
「いや、お小遣いだってあるし、貯金箱にだって幾らかお金貯めてたし」
そうやって気持ちを保った。行く前から負けてはいけない。そう思って、なんとか保った。そして改めてセリオンに行く決意をした。
翌日、土曜日の朝は良く晴れていた。藤一郎は朝起きてその空模様を見て、何か、背中を押されている様な気持ちになった。サイン、これから行う事が正しい行いであるかのような、そんな風な予感を受けていた。朝家を出る際も、何の不具合も不手際もなく、自然と家を出れた。朝ご飯の時に、母親からその日の予定を尋ねらた時には、さすがに、少し動揺した。動揺はしたものの。何か、探られているのではないか、もしくはもう自分の計画がバレてしまっているのではないか、自身の考えた企みが露見しているのではないかと、不安に駆られたが、
「遊びに行く。日和山公園の方に行ってこようと思っている」
と告げると、あらそう。という母親のいつもの受け答えが返って来た。特段、何とも思ってないような、そんな感じの返事。いつもの返答。父は時々そういう母の返答に対して、炭酸の抜けたビールみたいだな。と述べた。平素はそんな事思わなかった藤一郎も、この時ばかりは父と同じことを思った。同時に、父に対して、なるほどなあとそんな気持ちにもなった。土曜日だが、父は朝の八時ごろに仕事に出かけて行った。三連休だった為に、土曜日も仕事に出ることになったのだそうだ。藤一郎にしてみれば幸いな事であった。
なるべくいつもの格好でなければ違和感が出るだろうと思い、藤一郎が準備をして、行き方を書いたメモ用紙、財布、お金、携帯電話を確認し、それらを忘れずに、自身のナップサックに入れ、
「行ってきます」
と言って家を出る時、母親に、昼ご飯の事を尋ねられた。藤一郎はその時まで、すっかり昼ご飯の事を忘れていた。咄嗟に、今日はいらない。と言うと、母親が握ったおにぎりを一つ渡してきた。アルミホイルで包まれた大きなおにぎりだった。
「気を付けてね」
それから母親はそう言って、藤一郎が家を出るのを見ていた。
その後、藤一郎は予定通り酒田駅から電車に乗った。一時間に一本、ないし二時間に一本しかないような電車。それに乗って秋田駅に向かった。酒田から秋田までは二時間くらいかかるのである。そして更に秋田駅から乗り換えて、土崎駅まで行かなくてはいけないのである。天気は相変わらず良かった。今日は洗濯ものを外に干せるだろうな。きっと。藤一郎はそんな事を考えながら、流れゆく車窓を見るともなく眺めていた。電車はゆっくりゆっくりと秋田に向かって進んでいた。
電車が秋田駅に着く、もうそろそろ着く。という時に突然に天気が崩れ出した。車窓の風景に雪がちらつきだした。これ大丈夫かな、と藤一郎が不安になっていると瞬く間にそれが本降りになった。さっきまであんなに晴れていたのに、あっという間に用水路を流れる水みたいにどん曇り。そこから一個一個がケサランパサランに見える大きさの雪が降り出した。東北では、ぼた雪と言われる、服に着くと濡れそぼる様な、埃の様な降雪、雪が降り始めた。
「大丈夫かな」
雪の心配ではなく、藤一郎は電車が心配だった。遅延とか。運休とか。そういうのだ。帰りのとか。大丈夫かな。そういうのだ。しかし、そういう不安の中で藤一郎はそこで、電車がもうすぐ秋田と言う所で、不意に、電車の車窓の中に、その光景の中に見慣れない色味のものを見つけた。発見した。
「あれ、なんだ」
ピンク色の車体。あれ、あれなんだろう。
その電車に乗っている他の乗客も皆、それを眺めていた。窓から。反対側に座っていた乗客がわざわざ藤一郎の側に立って来て、乗客みんなでそれを眺めていた。そのピンク色の車体。見慣れない。ぼた雪の降る風景の中、
「いなほだ。いなほのハマナスだ」
誰かが言ったのが聞こえた。
「どうしてこんな所に居るんだ」
いなほのハマナス。ハマナスカラーのいなほ。いなほ自体は藤一郎も酒田駅に停まっているのを見た事がある。特急列車いなほ。東日本旅客鉄道、JR東日本が運行している。新潟駅から酒田駅、あるいは秋田駅間を走っている。普通の車体カラーのいなほは見た事がある。上がホイップクリームで、下がカスタードクリームみたいな色をした。通常のいなほはそういう車体カラーをしていた。それなのに、今、目の前をゆっくりと反対側に、藤一郎の住んでいる酒田側、新潟側に帰ろう、走り去ろうとしているそのいなほは、ピンク色、ハマナス色で、全身が、すっかりハマナス色で、雪景色にそれが、
「始めて見た」
藤一郎は思った。そしてそれが、すっかり通り過ぎてしまってから、
「写真撮ればよかった」
と思った。
でも、気持ちが持ち直した。そんな想いだった。とても貴重な邂逅をしたんだ。そんな想いだった。
相変わらずのぼた雪。一個一個が塊魂みたいなぼた雪。でも大丈夫、まだ風は吹いていない。藤一郎は自分をそうやって励ました。そうだ。ようやくここまで来たのだ。電車はほぼ定刻通りに運行していた。そしてそのまま秋田駅に無事に到着したのだった。
秋田駅から土崎駅に行く電車はすぐのはずだった。電車を降りて、急いで改札まで行って駅員さんに確認すると、ホームを教えてもらった。雪で濡れた階段で滑ったりしない様に注意しながら階段を下りて行きその電車に乗った。藤一郎が乗るとすぐに電車は走り出した。弘前行の奥羽本線。その二駅目が土崎駅だ。藤一郎もさすがにちょっと緊張した。だって黙って乗ってたら弘前まで行ってしまうのだ。そう思うと、少しブルった。
「弘前まで行ったら大変だ」
ドア付近で立ったまま、藤一郎は待った。土崎駅を今か今かと待った。電車は先ほどまで乗っていた羽越本線に負けず劣らず、ゆっくりだった。眠気を誘う速度だった。ヘッドロックみたいな。そんな速度。しかし藤一郎は立ったまま、銀の手すりを掴んで、その誘惑、麻薬の様な、意識飛びそうな電車に堪えた。そのうちに土崎駅が見えてきた。
土崎駅を出るとそこから、ちょっとした駅のロータリーからもうセリオンが見えるはずだったのだが、Googleマップでは見えたのだけど、土崎駅の所でオレンジ色の人型を降下させて。道順を確認するために調べ済みだった、土崎駅からまず大きな道路に向かって、七号線に向かって歩く。その道程の中で、Googleマップでは、セリオンが見えたのだけど、ちらちらと、Googleマップ上では、ちらちらと、見えたり見えなかったり、
「もてあそぶなあ」
藤一郎は思ったのだけど、でも、実際に行ってみると、土崎駅からは全く見えなかった。天気にもよるのかもしれない。少し小降りになったものの、相変わらず雪が降っている。そらはどん曇りで、雲がすぐ頭の上にあるような気がした。頭の上がすぐ雲、ガスってる雲。
しかし、とにかくもうここまで来たのだ。土崎まで。藤一郎は歩き出した。セリオンまで、でも気は抜かなかった。いつだったか父親が言った事があった。
「もう見えてるのに、なかなか着かないな」
何の時に言ったのか覚えていない。家族で車でどっか行った時だったかもしれない。その時に運転していた父がそう言った。
なるほどなあ。藤一郎はそれを聞いて、その時は何とも思わなかったけど、でも夜寝る時に、
「なるほどなあ」
そんな風に思った。
それから、Superflyの『愛をこめて花束を』にもそういう歌詞があるのを知って、まあちょっと違うんだけど。でもそれでより一層、藤一郎の記憶は堅固になった。あと古畑任三郎のノベライズ小説の最初の話、アリ先生のやつでも古畑さんが似たような事を言っていた。
「見えるものが最も見えない」
みたいな事。
だから、藤一郎は油断しない様に気を付けた。もうすぐ着く。セリオンに着く。うどんそばの自販機が見れる。うどんそばの自販機のうどんそばが食べれる。でも、そこで終わりじゃないから。帰りもあるから。気を付けな。気を付けような。そうして、決意を新たにして藤一郎はセリオンに向かった。
ようやく到着したセリオンの、その前の温室みたいなドームの中の、念願のうどんそばの自販機。その自販機はメンテナンス中だった。
「ああああああ」
藤一郎は思わず叫んだ。ああああああって。
「ああああああ」
って。
時期のせいか時間のせいか、あるいはテレビ、NHKでやったからなのか、それで人気が出て人が来るようになったからなのか、どうなのか知らない。何なのか知らない。定期的なメンテなのか、長いメンテなのか、全然わからない。でもとにかくメンテナンス中だった。
「ああああああ」
藤一郎は叫んだ。幸い、その自販機がメンテナンス中だからなのか、ドームの中には藤一郎の他、誰も居なかった。藤一郎の叫びは温室みたいなドームの中でこだました。
疲れた体を引きずってセリオンに入ると、うどんそばが売っていた。うどんそばの自販機のうどんそばが販売されていた。あとマスクも売っていた。パーカーも売っていた。うどんそばのパーカー。
「欲しい」
うどんそばは食べれなかったけど、このパーカー欲しい。胸元にうどんそばと書いた、自販機の絵がそのままプリントされているパーカー。欲しい。でも5000円。じいちゃんのお金全部じゃん。でも、ああ、どうだろうか。藤一郎は悩んだ。だってこんな服が突然出現したら、親どう思うだろうか。バレるかもしれない。かもしれないじゃない。バレる。絶対にバレる。
「ああ、でも」
せっかくここまで来たのに。欲しい。何か欲しい。最悪パーカーじゃなくても、何か。印。印が欲しい。ここまで来た印。仕方なく藤一郎はマスクを一枚だけ買った。洗えるマスク。ポリウレタン生地の。マスク。うどんそばとプリントされているマスク。
その後、藤一郎はセリオンタワーに上ることもせずに、販売されているうどんそばも買わずに、セリオンを出た。自販機であったかいスープを買って、温室みたいなドームに戻ってそこのベンチに座ってそれを飲んだ。朝、母親からもらったおにぎりを出して食べた。うどんそばの自販機、メンテ中の自販機を見つめながら、でかいおにぎりを食べた。ゆかりのおにぎりだった。おにぎりを食べてスープ缶を飲んだ。時計を確認するともう一時半だった。帰らなくては。そう思った。
「この屈辱は必ず晴らそう」
温室みたいなそのドームを出る時に、そう思った。藤一郎はそれを誓った。必ず。いつか必ず。絶対に。やってやる。絶対に。やってやるんだ。
藤一郎がようやく家に帰りついた時、時刻は18時になっていた。母は普通におかえりと言って藤一郎を迎えてくれた。藤一郎はその時、不意に泣きそうになった。泣きそうになったが堪えた。耐えた。お風呂に入ると言ってお風呂に入った。父はまだ仕事から帰ってきていなかった。母はくたびれた藤一郎に特に何も聞かなかった。
「冬は暗くなるのが早いんだから、遊ぶのは16時半まで」
そう言っただけだった。
藤一郎が風呂から出て、服を着替えて、ぼんやりとベッドに座っていると、玄関のドアが開いた音がした。父が返って来た気配がした。それから少しして母にご飯だと呼ばれた。
晩御飯の食卓で、父が、
「明日と明後日は休みだし、藤一郎どこか行きたいところあるか」
と言った。
その時、藤一郎はすごく悩んだ。もの凄く悩んだ。もの凄く。それはもう。悩んだ。
「セリオン」
と言うのは簡単だ。
電車で行くにしても、父の運転する車で行くにしても。車で七号線を北上するにしても。
「セリオンに行きたい。自販機のうどんそばが食べたい。パーカー欲しい。うどんそばのパーカー」
そう言って頼んでみるのは簡単だ。
でもなあ。
藤一郎は悩んだ。
とても悩んだ。
「イオンに行きたい」
これは僕のやるべき事なんじゃないか。いつか、もう一度、セリオンに行く。うどんそばを食べる。うどんそばのパーカーを買う。
これは僕のやるべき事なんじゃないか。
そう思ってすごく悩んだ。
次の日、父の運転する車に乗って酒田駅の近くを通った時、酒田駅に見慣れない電車が停まっていた。青い色。深い青い色の、
「珍しいな。瑠璃色のいなほが停まってる」
父が言った。
「あれ、いなほなの」
藤一郎が尋ねると、父がそうだと言った。
「あと他にハマナス色のいなほもあるんだよね」
母が言った。
それを聞いた瞬間、藤一郎は嬉しくなった。ハマナス色のいなほ。見た事あるんだよ。僕。昨日、ハマナス色のいなほ見たんだよ。
そう思った。