9. 怪しいヒロイン
ヒロインは私に近付きながら、
「本当に申し訳ございませんでした~、全然、前を見ていなくてぇ……」
「……」
(……全然、申し訳なさそうに聞こえるのは……私の気のせい?)
私はここで改めてヒロイン、リリーナの顔を見る。
そこで、気付く。
ヒロインは手にグラスを持っていた。
(しまった!)
これはよくある“悪役令嬢がヒロインに飲み物をかけてドレスを汚す”イベント!
───あーら、ごめんなさい。手元が滑ってしまったわ。ごめんなさいね? 決してわざとでは無いのよ!
(昔、口にしたセリフはこんな感じだったっけ……)
悪役令嬢からヒロインへのこの類の嫌がらせを仕掛ける場合、悪役令嬢はこんな事を口にしながらヒロインに飲み物を浴びせるのが定番中の定番だけど──……
……私は知っている。
今の私みたいに、悪役令嬢の方が飲み物を持っていなくても同様のイベントが発生する事を。
(きっと、この場合はヒロインが……)
「……」
(え?)
ヒロインが小さな声で何事かを呟いた。
───あ、駄目! 間に合わないっ!
思った通り、ヒロインのグラスを持っている方の手が動く。
そして────
パシャッ
パリーンッ
「きゃっ! 申し訳ございません! 手が滑ってしまいましたわぁ!」
「……!」
ヒロインの持っていたグラスは床に落ちて割れてしまい、中に入っていた飲み物は全部私が被っていた。
(冷た……)
「あぁ、ごめんなさい……わざとじゃなかったんですよぉ……」
「……」
「あの……?」
わざとじゃない……ですって? 今のが?
──私が想像したのは逆だった。飲み物を被るのはヒロインの方だと思っていた。
だって、過去の悪役令嬢人生の中で、やさぐれて悪役令嬢のお役目を放棄し始めた頃、今回と似たような事があったから。
その時は、私は一切何もしていないのに何故かヒロインの方が飲み物を被ってしまい、ちょうど目の前にいた私が犯人扱いされるという、これまたよくある冤罪事件となった。
(反射的に思いっきり「私じゃない!」などと、否定してしまったから、嘘つきだとますます非難されたっけ……)
でも、今回は違う。なぜか私の方が飲み物を被っている。
(どういう事? これではヒロインの方が悪者になってしまうじゃないの……)
呆然としている私に向かってヒロインが、再び声を上げる。
ヒロインの声がとても特徴的で目立つせいか、この時にはもう既に私達は会場内の注目を集めていた。
「……っ! ひ、酷いですわ」
「!?」
「わ、わざとではありません……申し訳ございませんと謝罪したのに、そんなにも冷たい目で睨むなんてぇ……!」
「な……」
あまりにもベタな罪のきせ方に私は絶句した。
(待って? そもそも何故、ヒロインがそんな嫌がらせをする悪役令嬢みたいな事をしてくる必要があるの!?)
これまでの私が出会って来たヒロイン達は、皆、可愛くて真っ直ぐ。純粋で天真爛漫な性格で、こんな意味の分からないことをするような事は無かったのに!
(だからこそ、婚約者の王子達が心惹かれるのも当然だと思っていたわ)
「酷いですわぁーー!」
目の前でえーんと泣き出すヒロイン。
そんな彼女を私はただ、呆然と見つめ続ける事しか出来なかった。
(どうしてよ。泣きたいのは私の方よ……)
だって、このドレスは殿下が私の為にって、デザインから関わってくれて……
嬉しそうな顔で「似合うね」と言ってくれて……
「……」
こうしている間にも、飲み物をかけられたドレスの部分がどんどん色を変えていく。
せめてかけられたのが水だったなら……と思ったけれど色が染みているので違うらしい。
(どうにかしなくちゃ、と思うのに足が竦んで動けない)
目の前でえーんと泣いているヒロインも、ヒロインの言動を信じて私に冷たい目を向けてくる人達なんかもどうでもいい。
初めて優しくしてもらえた“私”の為のドレスが駄目になっていく事だけがひたすら悲しかった。
「……っ」
(泣いている場合じゃない……とにかく……)
私がしっかりしないと。だって、この場に私の味方なんていないんだから。
殿下だってきっとこの場面を見たら……
いつかの人生のどこかの王子みたいに、
『わざとじゃないと謝っている令嬢にそんな冷たい態度をとるなんて……見損なったよ』
くらいの事は言って来るかもしれない───……
「────キャサリン!」
「!!」
そう思った時、まさに、その殿下が戻って来た。
肩を震わせた私はおそるおそる振り返る。
『こっちまで声が聞こえていたよ、キャサリン。君はいったい何をしているんだ!』
みたいなの事でも言われるのかしら?
そんなの聞きたくな───……
「キャサリン、大丈夫!?」
「……」
「ごめん、また僕が君のそばを離れていたから……」
「……」
「怪我は無い? どこか痛い所は?」
(……あれ?)
私の元に駆け寄ってきた殿下は、私を非難するどころか、ひたすら私の心配を始めた。
泣いているヒロインには目もくれない。
「……」
(…………殿下、あ、あなたのヒロインは……あちらですよ?)
そう言いたいのに声が出ない。
彼が慰めるべきなのは私ではなくて、ヒロインのはずなのに。どうして、そんなに必死に私の心配をしているの?
呆然としている私に向かって殿下は言う。
「キャサリンが、目に涙を浮かべるなんて余程の事があった時に違いない」
「……え?」
「キャサリンは昔から滅多な事では泣かない! 影でこっそりなら泣くけれど人前では絶対に泣かない」
「……殿下……?」
(ど、どうして……)
「……私が彼女に何もしていないと信じてくれるのですか?」
「? 何を言っている? 当たり前だろう? キャサリンはそんな事をする人じゃない」
「……!」
殿下はキッパリとそう言い切った。私を見つめるその瞳に嘘は感じない。
殿下は、本当に私の事を信じてくれていて、私の味方なのだと言ってくれている。
(…………ずるい)
今度は別の意味で泣きそうになってしまった。
一方、泣いていたはずのヒロインは、私たちのやり取りを唖然とした表情を浮かべて見ていて、よくよく見ればその目には涙なんてどこにも無かった。