星空ゼリー
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テーブルに置かれたティーセット。
お茶会で使われる大きな湯飲みが二つ。ということは、誰か来るのだろうか。
鉄瓶に茶筅、茶さじ。これらはしっかり和風だった。だが、銀製のケーキスタンドは洋風で。色とりどりの小さな菓子は、淡い色合いの小花を繊細にちりばめた温泉饅頭大のなにか、幾何学模様でつやつやし球体、きらきらと星が瞬く夜空色のゼリーもある。
色や造詣がとにかく独創的で、しかもゼリーの中で光が輝くなんて、もはや魔法にしか見えなかった。
星空のゼリーを覗き込んでいるところへ、部屋のドアを叩く者があった。
誰か来るのではないか、と思ってはいたが。先ほどの老婆とは違う強いノックに、ヒカルは思わず肩がはねた。
「はぃ、」
恐る恐る返事をするより早く、お前の返事など待っていないぞと言わんばかりに、ドアは勢い付けて開かれた。
「入るぞ」
現れたのは、威厳のある物言いの、青年だった。
生成りの着流しに、橘文様の刺しゅうが施されている黒い長羽織を悠然と着こなした、夕焼けのような瞳の青年だった。
――馴染めない
第一印象は本能的に悟った。
切れ長の目元で、唇は薄く、人を見下すように顎は上がり気味、よく言えば人の上に立つ才のある雰囲気で、見たままを言えば、冷徹そうな雰囲気だったからだ。
青年は椅子に腰かけると、小さな茶壺を手に取った。
「座れ」
ヒカルをじろりと見上げた。絵にかいたような御尊顔、いわゆる、かなりいい男、なのだが……視線だけで相手を退けたり、傷つけることができるであろう、そんな瞳だった。
そんな瞳に睨まれたのだ、ヒカルは黙って椅子に座った。
青年は黙っていたが、その瞳は、「よし。」と言っているように、ヒカルには見えた。
茶道具を扱う所作は洗練されていて優雅なものだった。その瞳も、ヒカルに向けたものと打って変わって、悪魔じみたものが取れ、今はただそれだけに集中している高貴な御方の図であった。
なんと目に優しいことか。
ヒカルは美しい構図を俯瞰して、いい心持になった。
茶さじですくった粉が紫色だという衝撃事実に心が関心を寄せないよう、青年が茶を点てる姿を、しばし、うっとり眺めた。
「遠慮せず飲め」
湯呑に添えられた指先が、とても綺麗だった。
スッと供された湯呑の中で、紫色の液体が小さく揺れた。その時、お茶の香りが鼻をくすぐった。
青年は自分で点てた茶を飲んで、小さく息をついた。その唇の端に、紫色の泡が付いている。
それがなんだか、可愛らしくて。冷徹そうないい男も、紫色のお茶も、害はなさそうだと、ヒカルは思った。
「……いただきます」
小さな泡がみっちり浮かぶお茶を、一口。
それは飲み頃の温度で、舌を包み込む。クリーミーでほんのり苦い、後味が少し独特な、お抹茶だった。
「ぃしぃ、」
思わず、言葉がこぼれた。こんなにおいしいお抹茶、飲んだことがなかった。
「食え」
青年は、ケーキスタンドの菓子を適当に取り分けてくれた。
「ありがとうございます」
取り分けてくれた中に、ずっと気になっていた星空ゼリーもあった。それだけで気をよくして、ヒカルの心の中で、青年はいい人に昇格した。
「俺はヒロ。お前は」
突然自己紹介をされ、星空ゼリーから視線を移した。もう、青年の口元に紫色の泡は付いていなかった。
「ヒカルです、それで――」
「ここはどこか。知りたいのだろう」
ヒカルの質問をそっくりそのまま言ってのけたヒロは、どこか挑発的な瞳をしていた。
「はぃ、」
どうしてわかったのだろう。もしかしたら、心を読むのだろうか。いやいや、エスパーじゃあるまいし。と思いつつ、素直にはいと答える。知りたくて仕方がない事案なのだから。
するとヒロは、椅子に背を預け、足を組み、斜に構えた。
「昨夜、見たか」
唐突に言われて、ヒカルは首を傾げた。
「何を?」
キョトンとしたヒカルに対し、ヒロはばつが悪そうに眉を寄せ。小さな声で言った。
「……獣だ」
「獣? 見てないな」
恐ろしげな動物には遭遇していないから。正直に答えると、ヒロの表情が少し和らいだ。
「そうか。見ていないのだな」
「うん。獣は見てない。もっふもふの狸なら見たけど」
途端、ヒロの表情が固まった。
顔面蒼白になってしまったから、ヒカルは驚いた。
「どうしたの、大丈夫?」
小さく口を開けて、呆然と。口から魂が抜けてしまいそうだ。
「あの、誰か呼んできます」
立ち上がろうとしたヒカルを、蚊の鳴くような声が呼び止めた。
「まて」
「でも、」
「座れ」
出会ったばかりの時の『座れ』は威厳たっぷりだったのに。今はどん底まで落ちて這いつくばっている人の『座れ』だ。
「……もふもふは忘れろ、よいな」
声を絞り出すヒロの様子が、痛々しい。威厳があって冷徹そうな印象が強いから、なおさらだ。
「覚えているくらい悪いことじゃないと思うけど……」
可愛い狸だった。寂しい晩に温もりを与えてくれた恩人だ。早々忘れられるものではない。
むしろ思い出に取っておきたいくらいだ。
「忘れたら、ここが何処か教えてやる」
なんだか必死なヒロに、ヒカルは口先だけでも折れることにした。ヒロの前で狸の話題を出さなかったらいいだけだろうと、安易に考えたのだ。
「忘れた。可愛い狸のこと。モフみ……安心した……あの狸……忘れるなんて」
しかし、言葉にすると、忘れられそうになくなってきた。
苦悶するヒカルを、ヒロはしばらく眺めていたが。やがて、ぽつりとつぶやいた。
「泣くほど忘れたくないのか」
いつの間にか、ヒカルの瞳から涙がほろほろと溢れていたのだ。
「た……狸は正義」
湿ったハンカチを握りしめるヒカルは、言った瞬間にまた、涙があふれてしまう。
「そんなに狸が好きか」
「好き」
即答され。ヒロの頬は赤く染まった。が、すぐに表情が引き締まった。
「なぜ狸が好きだと言える。あれは忌み嫌われる疫病神だというのに」
「もふもふしてる、耳が可愛い、あったかい、お茶目、とにかくかわいい、ころころしてて、とにかく癒される。そばにいてくれれば心強いし……あたしにとっては天使であり、幸運の神様でもある」
なぜか、両手で顔を覆って聞いていたヒロは、小さく息を吐くと、御尊顔を御開帳した。その顔は、どこか憑き物が取れたような、すっきりした表情だった。
「……わかった。そこまで言うのなら忘れなくていい。代わりに約束しろ。狸のことを口外しないと」
「口外したら?」
「命はない」
「命って……物騒だよ、どうして狸にこだわるの」
「よく聞け。狸はこの世に存在しない、架空の生き物だ。常世に災いをもたらす邪悪神の化身と言われ、忌み嫌われている。異世界ではどうか知らないが、その様子だと悪いものではないようだな」
「……狸から突然の異世界きた」
「俺から見ればお前は異世界人。ここはお前から見た異世界だ」
「嘘、ここ北海道だし」
「そう思うのは構わないが、異世界だ。来い」
連れられて、バルコニーへ出ると、ヒロは夜空を指した。
宵の空に、紫色の星と、緑色の鎌のような星が浮かんでいた。
「紫と緑、」
「紫は惑星ペンダル、緑はこの星の衛星ヒスコ。異世界の空には無いだろう」
ここが異世界だと知った。認めざるを得なかった。
北海道ではなかったのだ。胸の中の何かが木っ端みじんに砕け散り、気が遠くなりそうなヒカルの隣で、ヒロは満足げに星の名を教えた。
一通り説明を終えると、ヒロは口をつぐんだ。
静寂に、ヒカルの顔が夜空から戻ってくる途中、横顔にそっと、ヒロは唇を寄せた。
気配に気づいて固まったヒカルの耳元で、ヒロはささめく。
「昨晩の狸……あれは俺だ」
そよぐ夜風に消えてしまうような、小さくて気弱な声だった。
「朔の日に姿を変える」
そっと気配が離れて、ヒカルは後を追うようにヒロを見上げた。
「小屋で庇ってくれたこと、礼を言う」
気品と威厳と優しさの表情で見つめられ、はわはわしているヒカルを、ヒスコの淡い光が照らしていた。