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駅前の商店街。
漂う揚げ油の香りに、立ち止まる。
広場のからくり時計に自然と目が向いた。午後四時を指すところだ。精肉店のコロッケが揚がる時間だった。
鐘の音と共に、時計のカラクリが動き出した。
その音色は昼間の卒業式で見た、就職を勝ち抜いた猛者たちの、歓喜と希望に重なっていく。
考えないようにしていたのに。陽気なメロディーに誘われて、重たい気持ちがせりあがってくる。
夢も叶えられない、就職もできない残念な失格者――
自らに烙印を押してしまいそうになって、寸での所で踏みとどまった。
(あたしは、まだやれる)
肩を寄せ合う店先を俯瞰して、夢想にふける。
ここに店を構えるなら、商店街の組合に加入して、厨房を整えて宣伝をして、馴染みのお客さんが買い物に来て……
などと、浸っていた画面を突き破って現れたのは、銀行の融資担当者だ。
商店街の店舗だった背景が、銀行の融資相談コーナーに切り替わる。
担当者は、細身スーツに細いフレームのメガネ、つま先が無駄に長くてシュッとしている焦げ茶色の革靴を履いている。
夢想の彼らも現実の彼らと同様、首を縦に振らなかった。
夢も現実も辛い。あまりに辛くなって、空を見上げた。
夕刻の空に茜色の雲が浮かんでいる。
現実の逆境は不屈の精神を育ててくれた。比例するように起業の夢は膨らむばかり。さながら、親に結婚を認めてもらえない男女の仲のように。
だからへこたれず融資担当者に挑んだ。
だのに。どこの銀行も、担当も。いい返事は出てこなかった。今だから言うが、鼻で笑ったやつもいた。
「今どき流行ると思えない」「将来性がない」「新鮮味がない」「不景気なんだから単価を抑えないと到底売れない」「輸入物の冷凍食材を使え」……経費も毎回見直した。あらゆる方向から取扱商品のアピールをした。毎回持っていく商品の試食は見るだけで、彼らは箸を付けようとしなかった。
固すぎた信念が世間に負けてポキッと折れたのは、この頃だ。
一週間ほど腐っていたが、まず先立つものが無ければ起業は無理だと自分を奮い立たせ。意地でも受けなかった就職活動を始めてみたものの、所詮付け焼き刃だ、見事に惨敗を期した。
大学の同期は可哀想だとでも言いたげに接してきた。けれどヒカルは同情が嫌だった。
「企業の歯車になるつもりはないんだ。私には夢があるから」
そう言うと、もっと可哀想な顔をされた。
コロッケ行列に並んでいる間に日が暮れた。
暗い部屋にただいまを言って。カーテンを閉めようとしたヒカルは、レースのカーテン越しに鎌のような月を見つけた。
「久しぶりに見た、緑の月」
ベランダに出てまじまじと見上げる。
子供の頃は時々見かけたが、いつの頃からか見かけなくなっていた。
他の人にはいつも通りの黄みがかった月に見えている、不思議な月。
幼き日、はじめて見た緑色の月に驚いて祖母に泣きついた。温かい家庭が確かに存在していた当時を思い出した途端。祖母が教えてくれた歌が走馬灯のように甦った。
芋虫染める
緑月さ
芋虫食べて
欠けちゃろか
そら見ちゃ消えら
いちごさかえた とっぺんぐらりん
口ずさめば甦る祖母の声。
『緑の月のお歌だぁよ』
耳の奥でこだました、その時。胸の中心に衝撃が走った。
「っ……、」
酷いめまいがして、真っ逆さまに落ちていく感覚に目を瞑った――