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作者: Ryuu

 桜島の頂きは雪に覆われていた。

 初雪が報道されたのは4日前だ。クリスマス明けの初冠は、例年より10日ほど遅い。

 去年につづいて暖冬だと言われていたのに、12月に入ったとたん、寒波が訪れた。あわてて柚子ゆづこは去年一度も着なかったダウンコートを――主人のと、愛犬りおんの散歩用ジャンパーも一緒に――押入れから引っ張り出した。

 アパートから見上げる桜島は、山頂から4合目あたりまでが白雪に覆われ、蒼みがかった雲が揺れている。

 火山灰が降り注ぐときも黒っぽい雲のように見えるけれど、今日の雲はそれとは違う。錦江湾きんこうわんから上った寒気が空に張り出して、雲海のように広がったのだろう。

 桜島は、鹿児島の真ん中に位置している。内陸部は別として、県内の至るところから眺めることができるとはいえ、きれいな形の桜島が見える場所は、それほど多くはない。

 築20年の古アパートを新生活の出発に決めたのは、この眺望が決め手だった。

「いくら安月給でも、もうちっと出せる。新婚なんやし、小洒落たところに住みたいやろ」

 夫は気遣ってくれたけれど、柚子は「ここがよか」と主張した。

 柚子は33歳。大学時代を除けば、生まれてから今日までずっと、桜島を望む部屋で暮らしてきた。

 ひいひいじいちゃんが西郷さんと同じ郷中ごじゅうだったというのが自慢の父は、柚子が里帰りするたび、「わげぇから見ゆっ桜島がいっばんきれいやっど」と得意気に言う。

 郷中というのは薩摩藩政時代の組織で、町内会のようなものだ。町内会の中に子ども会があるように、郷中にも子どもたちを指導する組織があった。

 薩摩武士の子どもたちは、一日の大半を郷中のグループで過ごしながら、からだを鍛え、勉強や武芸に励む。年長の少年は年下の者を指導し、行動に責任を持たなければならない。年少者は年長者を敬わなければならない――という躾が重要視されていて、子ども会というよりボーイスカウトに近いといえる。

 ボーイスカウトのように、年齢別に分かれてもいた。6歳から10歳までが小稚児こちご、15歳までが長稚児おせちご、25歳までを二才にせ、妻帯者を長老おせんしという4つのグループだ。

 グループごとにかしらと呼ばれるリーダーがいて、西郷隆盛は二十歳前後で下加治屋町郷中の二才頭にせこに選ばれ、幼い曽祖父たちを指導してくれたらしい。この体験が、柚子の実家の誉れとして、令和に至るまでも代々、伝えられているわけだ。

 郷中教育でいちばん肝心な教えは、「負けるな」「嘘をつくな」「弱い者をいじめるな」の3つ。これに加えて「言い訳をするな」と、物心つく前から、柚子は祖父に聞かされて育った。

 柚子の実家は加治木町かじきちょうにある。子どもの足でも5分とかからない距離に、祖父母は父の長兄と一緒に住んでいて、じいちゃんばあちゃん子だった柚子はしょっちゅう、入りびたっていた。伯父一家の3人の従兄弟たちと一緒に、祖父が柚子にも「言い訳をするな」と諭し育てたのは、これら薩摩の教えが性別や職業にかかわらず、人として生きていくために、いちばん大切なことだからだろう。

 柚子は毎朝、起きると真っ先に窓をあけて、太陽と桜島に手を合わせる。

 泊まりにいくたび、祖父母がそうしていた。真似しているうちに習慣になった。

 広島の大学に進学して、学生寮に入ったとき、窓をあけると海しか見えず、ひどく頼りなく思ったものだ。家族や友だちと離れた寂しさよりも、毎日、眺める景色の中に桜島がないことが、これほど心細いとは想像もしていなかった。

 とはいえ、広島での生活は何もかもが新鮮で刺激的だった。家族は「柚子は広島で遊んどお」と思っていたようだし、実際そうだったけれど、卒業したら桜島が見えるところに帰ろうとだけは決めていた。

鹿児島かごんまで生まれた者は、桜島が見える家に住まんと駄目だめになる」

 遠い昔、祖母がつぶやいていた意味が、鹿児島を離れてみて、ようやくわかった。

 大学を卒業してから6年間、柚子は建設会社で設計事務をしていた。会社の窓からも、桜島をきれいに望むことができた。

 面接で志望動機を聞かれたとき、柚子は前もって準備した、もっともらしい文言をあれこれと述べた挙句、「ですが、いちばんは桜島がこげなにきれいに見える御社で仕事をしたいからです」と言い放ったらしい。「らしい」というのは、柚子自身は緊張していて、まったく記憶にないからだ。

「こうして桜島に見守られてれば、私んよな若輩者でも一円、百円ん利益を生むことができると思います。私は御社に入り、御社が推奨すっ木造建築を通して、鹿児島かごんまん心、日本の心を伝えていきたいんですっ」

 口から唾を飛ばす勢いで、柚子は言ったそうだ。

「そうまで言われて、採用しねわけにはいかんやろ」と、飲み会のたびにネタにされ、社長も専務も楽しそうに笑っていた。

 いい会社だった。体調をくずして退職願を出したときも、いつでも戻ってこいと言ってくれた。まんざら社交辞令でもないらしく、いまでも時折り、先輩や同僚が近況伺いの電話をくれる。

 それもこれも、桜島が見守ってくれているからだと柚子は信じている。

 内陸に近い出水市出身の夫には、そんな感慨は通じない。「桜島がきれいに見えっから」と言うと、「そいが、こんアパートに住みたい理由か」と呆れていた。

 それでも、優しい夫は柚子の意見を優先してくれ、このアパートに住んで6年になる。


 結婚した年の冬、鹿児島市内では12月の積雪量を88年ぶりに更新した。今年は、あの冬より寒いような気がする。

 白い冠雪に蒼い雲。幻想的な雰囲気に目を細めながら、柚子は物干し竿にかけたタオルの両端をぴしりと揃えた。朝のニュースによれば、今日の桜島上空の風向きは北で、風速は7メートル。これなら、ベランダに干せる。

 鹿児島では、どのテレビ局でも、お天気マークや最高気温、降水確率とともに、桜島の風向きを天気図に表示する。

 西向きの風が吹くと火山灰は市街地に降り、東だと大隅半島に流れる。大量に降ると傘を差さないと歩けないほどで、洗濯物をベランダに干すなんて、とんでもない。

 先月からずっと、部屋干しが続いていた。せめてもの抵抗に「おひさまの香り」という柔軟剤を使っているけれど、正月に使うタオルや着替えは、本物の陽の光に当てたい。今日は降灰こうばいもなさそうだし、夕方まではこのまま干していても大丈夫だろう。

 降灰といえば、大学に入学したばかりのとき、何の授業だったか、教授が窓の外を見て「美しいこうばいやねえ」と言った。

 どこにも灰など降っていないのに変な先生だ、そもそも、降灰がきれいなわけないだろうと、柚子は教室の隅で失笑した。

 学食で早速、話題にすると、誰も同意してくれないどころか、「はあ?」と怪訝な顔で問い返された。「こうばい」と聞いて、まっさきに「降灰」と思うのは鹿児島県人だけらしい。

 地元の子はもちろん、山口から来ている子も、四国出身の子も、中庭の梅の話だとわかっていたらしい。鹿児島以外の土地に住む人にとって「こうばい」は「紅梅」なのだと、このとき初めて、柚子は知った。

「鹿児島って、ほんまに桜島の灰が空から降ってくるん?」と聞かれるたびに、ただの好奇心だとわかっていても、ばかにされたような気がした。

 友人たちは「灰」という言葉から、煙草や線香の灰のような、さらさらしたものを想像していたようだが、実際はそうではない。

 火山灰は火山ガラスだ。ガラスだから当然、尖っている。洗濯物につくとチクチクするし、眼に入るとチカチカする。鼻に入るとムズムズするし、口の中だとジャリジャリするのだ。

 タオルを干した柚子は、ふと首を伸ばして、左側のベランダを覗いた。ちらりと見える物干し竿には何もかけられていない。

 隣には同年代の夫婦が住んでいるのだけれど、秋に赤ちゃんが生まれて、洗濯機を洗濯乾燥機に買い換えたそうだ。ベランダに洗濯物を干す必要はなくなり、ベランダごしに、ああだこうだとどうでもいい、けれど、それなりに楽しい世間話をすることもなくなった。

 柚子も欲しいけれど、共働きだったときならともかく、今の柚子は専業主婦だ。不景気で、夫の会社は年々ボーナスが少なくなり、この冬はとうとう、寸志も出なかった。夫婦ふたりと小型犬1匹の暮らしでは、なかなか、乾燥機までは手が出ない。

 乾燥機どころではないのは、夫との関係も似たようなものだった。

 3年前に愛犬みおんを死なせて以来、夫婦仲はぎくしゃくしている。

 事故で死んだと周囲には話しているが、本当は夫の過失だった。


 3年前の夏。

 朝からどんよりと雲がかかり、桜島も鳴りをひそめて、8月とは思えないほど、ひんやりした日だった。

 みおんを連れて休日出勤した夫は、みおんを車の中において、客先に向かった。

 部品の交換や配達で休日出勤するとき、夫はそれまでにも何度か、みおん連れで出かけていた。車内で待たせておくのは5分程度だし、日陰にしか駐車しないので、そのときもまったく心配していなかった。

 もちろん、窓は締め切ってはいない。すべて、1センチほど開けていた。

 2件目までは何事もなかった。みおんは、柚子が買ってやったスイカのオモチャをくわえて、助手席で遊んでいたらしい。

 だが、3件目でトラブルが起こった。客先で対応している1時間の間に、急に太陽が現れ、いきなりの真夏日となった。夫が不安を抱えて車に戻ったとき、みおんは熱中症でぐったりしていた。息をひきとったのは数時間後だ。

 夫が悪いわけではない。それはわかっている。

 当時は柚子も働いていて、みおんは日中、アパートで留守番させていた。そのぶん、週末は朝から晩まで遊んでやっていたのだけれど、あの日にかぎって、ふたりとも休日出勤になってしまった。

 その週は残業が続いて、みおんには寂しい思いをさせていた。やっと週末になったというのに、また留守番させるのか――と肩を落とした柚子に、「俺が連れてこうか」と夫が声をかけてくれたのだ。

「そうしてくるっと助かる」

 夫は優しい人だった。口数は多くないけれど、いつも柚子の気持ちを先回りして気遣ってくれた。

 いちばん辛いのは、ぐったりしたみおんを発見し、ペットボトルの冷水をかけながら、血相を変えて、かかりつけの病院に連れていった夫だ。家族にも友人にもそう言われたし、柚子だとて承知している。

 それでも、柚子は夫を許すことができなかった。

 どうして、あのとき「俺が連れてこうか」と言ったのだ――と思ってしまう。

 もちろん、どうしてあのとき、自分は夫にみおんを預けたのだろう、とも思う。「そうしてくるっと助かる」と言ったのは柚子だ。

 休日出勤などせず、会社から仕事を持ち帰っていればよかった。パソコンがあれば、家でもできる内容だった。どうしてあのとき、上司に、そう願い出なかったのだろう。夫だけでなく、自分のことも許せない。

 みおんは、初めての子を流産した柚子を慰めようと、実家の母が貰ってきたミニチュアダックスだった。

 実家の近所に母親どおしも親しい、聖子という幼なじみが住んでいて、みおんはそこで生まれた。3匹生まれて、姉妹はブラック茶色タンがまじったブラックタンなのに、みおんだけがチョコレートタンという、全体がチョコレート色だった。

 静養のために里帰りしながら、ろくに食事もとらず、チョコレートばかり食べていた柚子にぴったりだと母が言い、柚子より2歳下で、教師としてバリバリと働いていた聖子も「こん子は柚ちゃんと縁がある」と譲ってくれた。

 初めて抱いたみおんは、両手のひらにのるほど小さかった。

 温かいぬいぐるみといった感じで、生きているのが夢のようだった。流れてしまった我が子も、これくらいの大きさだったのだろうかと想像したりした。

 みおんと出逢ってから、柚子はチョコレートを口にしなくなった。

 チョコレートは犬にとって強い毒性がある。誤食すると命にかかわると知って、食べるのをやめたと母や夫は思っているようだが、そうではない。まったく、食べたいと思わなくなったのだ。

 憑かれたようにチョコレートを口にしていたのは、みおんと出逢うためだったのかもしれない。柚子がチョコレートばかり食べていたから、チョコレート色のみおんを見て、母も聖子も縁を感じてくれたのだから。

 悲嘆のあまり、寝たり起きたりだった柚子は、聖子の家に仔犬が生まれたことは知っていても、見に行く気力も体力もなかった。

 もちろん、飼うなんて、夢にも思っていなかった。母から渡されたときも、最初に出たのは「無理」という言葉だった。

 子どもも産めない自分が犬とはいえ、こんな小さな赤ちゃんを育てるなんてできない。できるわけがないと思った。

「大丈夫」

 何を根拠にかは知らないが、母が言い続けてくれなかったら、みおんと暮らすことはなかったろう。

 意外にも、歓迎したのは夫だった。

 みおんという名も夫がつけた。「美しい音」と書いて「みおん」。「美しい人生を奏でてほしい」という願いから「かなで」という候補もあったのだが、「みおん」のほうが呼びやすいと柚子が言うと、夫も賛成した。

 みおんを迎えたことがきっかけで、柚子は実家からアパートに戻った。

 実家だと、家事は母に甘えて、パジャマ姿のまま、終日ぼんやりと過ごすことも多かったけれど、夫とふたり暮らしのアパートではそうもいかない。

 夫は仕事があるし、誰も家事はしてくれない。なにより、誰かが世話をしないと、小さなみおんは生きられない。

 みおんがいてくれたおかげで、柚子は毎朝、決まった時間に起き――正確には、みおんに起こされた――みおんと一緒に食事をとり、着替えて、朝と夕方、アパートから公園まで散歩をするようになった。

 流産して以来、他人と接することが怖くなっていたのに、「むぜかじゃっね」とみおんの愛らしさに声をかけてくれる人たちとは、挨拶を交わすこともできるようになった。

 もう一度、子どもが授かるかどうかはわからないけれど、もし授からなくても、みおんと夫とで、ずっと楽しく生きていけると思っていた。

 そんなみおんを、夫は過失とはいえ、死なせてしまったのだ。

 みおんはまだ2歳だった。

 たった700日ほどしか、一緒に過ごしてやれなかった。

 夫のせいだと柚子はなじった。夫は悪くない、夫も辛いのだと理屈ではわかっていても、感情を抑えることはできなかった。

 夫があのとき、みおんを連れていったから。夫がみおんを車に乗せたから。夫がみおんを車中に置いていったから。

 だから、みおんは死んでしまった。死ななくてもいい命を、終わらせてしまった。

 柚子は思いつくかぎりの汚い言葉を夫にぶつけた。夫が言い返さないのをいいことに、毎晩、泣きながら夫を責めた。夫は柚子に責められ、ののしられるためだけに、アパートに帰ってくるようなものだった。

 あの頃、夫を責める以外の時間を、どうやって過ごしていたのだろう。

 毎日、何を食べ、何をして生きていたのか。食事もとり、洗濯もし、風呂にも入っていたのだろうけれど、まったく思い出せない。夫も、あのころのことは話してくれない。

 気が遠くなるほどに1日が長かったことだけ、ぼんやりと覚えている。

 朝、起きると、みおんのいない1日がまた始まる――と、ひどく鬱屈した気分になり、夜、布団に入ると、みおんのいない1日がようやく終わった――と、安堵の息をついた。

 寝ているときだけは、みおんが死んだという現実を忘れられるから。

 毎日、起きるたびに泣いていたような気がするのに、どれだけ流しても涙は枯れず、枯れたのは声だった。毎日、夫を責め立てていたら、ガラガラになった。夫への気持ちまで枯れてしまったような気がした。

 夫をなじり、責めることに疲れ果てた柚子には、離婚という選択肢もあった。正直にいえば、そうなるだろうと覚悟していた。

 みおんを死なせてしまった夫とは、もう一緒には暮らせない。夫の顔を見るたびに、みおんのことを思い出す。そして「この人がみおんを死なせた」と思ってしまう。

 そんなふうに自分をなじるばかりの妻と、夫もこの先、人生をともにすることなど、できないだろう。

 だから、みおんの死から6回目の月命日に、夫が小さなブラックタンを抱えて帰ってきたとき、この人はとうとう狂ってしまったのだと思った。

 夫は小さなブラックタンを撫ぜながら、「こん子は、みおん」と言ったのだ。

 柚子は最初、夫はみおんの死を受け入れられないあまり、みおんが死んだという事実を忘れてしまったのではないかと思い、そこまで、夫を追い詰めてしまったのだと愕然とした。

 だが、そうではないと知ったとき、夫への怒りがふつふつと湧いた。

 みおんが死んで、たった半年しか経っていないのに、新しい犬を迎える神経が信じられない。しかも、みおんと同じ名をつけるなんて、どうかしている。

 柚子にとってみおんは、あの夏、2歳で眠りについたみおんだけだ。

「呼ぶたびに、みおんのことを思い出せっから」と夫は言ったが、同じ名前で呼ばずとも、みおんのことを思い出さない日などない。

 いったい、この人は何を言っているのだろう。柚子は、目の前にいる夫が見知らぬ他人に思えた。

 けれど、そうは思っても、夫の手の中で震えている仔犬を前に言い合う気力はなく、夫が仕事に出かけたあと、生後2ヶ月の命を置いて、アパートを出ていく勇気もなかった。

 こうして、仔犬との暮らしが始まったものの、柚子は2代目みおんを可愛がることができなかった。

 夫が仔犬を抱き、頭や背を撫ぜるのを見ていると、胸の奥に鬱々とした気持ちが沸き起こってならなかった。

 かけがえのないみおんを亡くしたのに、なぜこの人は笑っていられるのだろう。なぜ楽しそうに、新しい仔犬に話しかけることができるのだろう。

 あの頃の柚子は、みおん以外の犬を可愛がることに罪悪感を覚えていた。それだけではない。笑ったり、楽しんだりすることにも罪悪感を持っていた。

 みおんを死なせてしまったくせに笑うなんて。みおんを死なせてしまったくせに楽しむなんて。みおんを死なせてしまったくせに美味しいものを食べるなんて。

 夫に対しても、自分自身に対しても、一事が万事、そんなふうに思ってしまう。

 みおんを死なせてしまった自分が、母親づらして、新しい仔犬を育てていけるのだろうか。仔犬の愛らしさに目を細める資格が自分にあるのか。

 そんな思いにとらわれ、仔犬の世話をすることに後ろめたさを感じていた。

 それでも、ふわふわした仔犬に触れていると、ささくれだった心が不思議なくらいに鎮まった。

 おしっこシートの上で排泄をするトレーニングや、噛まない、吠えない躾をしたり、ワクチンや予防接種、トリミングに連れていき、お散歩デビューをさせるうちに、だんだんと情が移る。

 ただ、どうしても「みおん」と呼ぶことはできなかった。

 冬が終わり、春が過ぎて、もうじき、みおんの一周忌という頃、柚子は仔犬に新しい名前をつけたいと切り出した。

 みおんと、この子は別だ。みおんの2代目だとか身代わりではなく、別の犬として、ちゃんと可愛がってやりたいと。

 夫は何か言いたげだったけれど、結局は柚子の提案を受け入れた。

 2代目みおんは、りおんと改名した。

 既に半年近く、夫に「みおん」と呼ばれて、自分の名前は「みおん」と認識している。「みおん」と呼べば、「うぉん」と返事もする。だから、響きが似ているほうが混乱しない――というのが夫の言い分で、それには柚子も反対できなかった。

 一周忌は、霊園の合同慰霊祭に参列した。みおんが眠るペット霊園にはドッグランが併設されていて、慰霊祭には、りおんも連れていくことができた。

 

 洗濯物を干し終えた柚子は、みたび桜島を眺めた。昨日よりも白く見えるのは、雪が増えたからだろう。このぶんだと、今日も散歩には連れていかれないかもしれない。

 そうとも知らず、りおんは南に面したリビングで、コタツ布団から鼻だけ出して、すやすやと寝ている。

 りおんを見ていると、「ネコはコタツで丸くなる」という童謡の歌詞は「イヌ」の間違いではないかと思わずにはいられない。りおんはコタツが大好きだ。

 みおんの死を悼むあまり、柚子はりおんが仔犬から成犬に成長する大切な時期に、しっかりと向きあってやれなかった。

 みおんが死んだのは2歳。りおんも2歳になった。家族として暮らした年数は同じなのに、デジカメやスマホで撮った枚数は圧倒的にりおんのほうが少ない。

 アルバムは1冊しかないし、乳歯は1本も残っていない。

 みおんのときは、抜けた歯を丁寧に洗って、大切な宝石を扱うようにジュエリーボックスに収めたというのに、りおんのときは、気がつけば永久歯に生え変わっていた。

 そんなダメ飼い主でも、りおんは柚子を慕ってくれる。トイレの中までついてくるし、柚子が風呂に入ると、洗面所でずっと待っている。

「りおんを貰ってきたのは父さんやのに、りおんは母さんのほうがよかとや。まるで、母さんのストーカーやね」と、夫は苦笑する。

 そんな冗談を言えるほど、夫婦仲が回復したというわけではない。

 夫がどう思っているかは知らないけれど、傷つけあうことに疲れ果てた柚子は、表面だけでも穏やかに過ごせればいいと思っている。

 作り笑いでも、ののしり合うよりはマシだ。そう思って、こわばった笑顔を夫に見せるようにもなった。りおんのためにも、夫婦は仲良くしていたほうがいい。

 大きな声を出すと、りおんが固まってしまうことに気づいたのは、いつ頃だったか。

 喧嘩をしているわけではない、何かの拍子に夫婦のどちらかが大きな声を出すと、いつのまにか、りおんはいなくなる。

 ベッドの下やタンスの陰で、うずくまって動かない。目をあわせようとしないし、しっぽもだらりと下を向いている。

 仔犬の頃、りおんは毎日、柚子が夫に怒鳴りちらすのを聞いていた。怒鳴り声や、険悪な空気が満ちた部屋で、何が起こったのかわかるはずもない小さなりおんは、見ざる言わざる聞かざるとなって、嵐が過ぎるのを待っていたのではないだろうか。

 感情をなくしてしまったようなりおんを見て、柚子は、幼いりおんに、なんてかわいそうな仕打ちをしてしまったのかと、今さらのように激しく後悔した。

 それ以来、りおんの前では笑っていようと決めた。夫とも、「りおんの親」として、うまくやっていこうと努力している。


 そんな仔犬時代を過ごしたからか、りおんには不思議な力がある。動物には直感が備わっているというけれど、何かを感じる力はかなり強い。

 たとえば、柚子が食事の支度をしているときなど、ふと振り返ると、りおんが小首をかしげながら、リビングのタンスの上に飾っている、みおんの写真をじっと見つめている。

 何もない、部屋の宙に向かって楽しそうにしっぽを振っていることもあるし、ご褒美を欲しがるときのように、「お手」をしていることもある。

 りおんには、みおんの姿が見えているのではないかと思えてならない。

 柚子や夫に見えないだけで、みおんはりおんを通して「ここにいるよ」と、魂の存在を柚子に伝えてくれているのかもしれない。

 そんなみおんの思い出がつまったこのアパートも、大家の代替わりによって、春には取り壊されることになった。

 新しい大家は転勤族で、40年以上も鹿児島を離れている。来年3月に定年退職した後は帰郷するそうだが、老朽化したアパートを取り壊して賃貸駐車場にするらしい。

 それを機に、柚子たちは、夫の両親と同居することになっていた。

 新しい家に、みおんもついてきてくれるだろうか。


 夕方から再び雪になった。

 昨日、夫は中学校のクラス会に出席するため、一足先に出水市いずみしの実家へ帰った。鹿児島市内からは車で1時間半。今日の午後、柚子とりおんを迎えに来る予定だったのが、動けそうにないと電話があった。

 雪はそれほど積もっていないけれど、風が相当に強い。強風波浪警報が発令され、JRも運転を見合わせていると聞いて、車を運転するのは危険だと柚子も止めた。

 雪道に慣れた北国の人ならともかく、ここは鹿児島だ。明日、晴れたら迎えに来てもらうことにして、今日はりおんとふたりで過ごしたほうがいい。

 とはいえ、年末年始は夫の実家で過ごす予定でいたので、冷蔵庫には、ろくな食材が入っていない。なるべく、庫内を空にしておこうと、余っていた野菜と練り物、卵を2個も使って、昼に鍋焼きうどんを作ってしまった。

 冷凍うどんはまだあるけれど、具材がない。乾燥わかめくらいだ。

 りおんの食事はドライフードだから問題ないとして、柚子の夕食はどうしよう。

 雪の中、歩いてスーパーに行くのも億劫だ。

 普段なら自転車で5~6分、歩いても10分少々の距離だけれど、慣れない雪道だと、倍以上かかりそうな気がする。それに、柚子は長靴を持っていない。

 散歩用のズックで雪道を歩くのは不安だし、その間、りおんを留守番させておくのもかわいそうだ。

 仕方ない。夕食は、わかめうどんですませよう。夜は、おかきでも食べながら、りおんを膝に抱いて、テレビでも見るとしようか。

 バスタブに湯を張り、洗濯物をたたんでいると、チャイムが鳴った。

 宅急便なら、たいていはチャイムを鳴らしたあと、「宅急便でーす」と声がするのに、チャイムしか聞こえない。

 いったい誰だろう。チェーンを開けると、白いダウンコートを着た聖子が真っ赤な紙袋を手に立っていた。柚子の幼なじみであり、みおんの母親の飼い主だ。

「あれぇ、聖子ちゃん、どうしたん」

「差し入れ。うぅ、さみっ。りおんちゃん、こんにちは」

 頬を真っ赤にした聖子は、挨拶も抜きでブーツを脱ぐと、りおんの頭を撫ぜた。

 りおんは嬉しさのあまり、おしっこを散らしながら、短いしっぽをブンブンと振る。同じミニチュアダックスの匂いがするからか、りおんは聖子が大好きなのだ。

「あらぁ、りおんちゃん。嬉しょんしてしもたね」

 聖子は笑いながら、りおんを抱き上げ、勝手知ったる廊下をずかずかと歩いていく。柚子は洗面所から雑巾を取ってきて拭いた。はしゃぎすぎて無意識でしてしまう粗相を、叱るわけにはいかない。

「聖子ちゃん、よぉ来やったね。うちん人は出水いずみから動けん言うてて、今日はりおんとふたりなんよ」

 リビングに戻ると、聖子はりおんを膝に抱いて、コタツに入っていた。

「せっかく来てくれたて、明日から出水いずみに行くつもりやったで、何もねとよ」

「じゃーん。柚ちゃん、こいが好っじゃったでねぇ」

 紙袋の中から聖子が取り出したのは、宮崎の銘菓「なんじゃこりゃ大福」だった。

「うわあ、さしかぶいに見た」

 老舗の名物で、名前もインパクトがあるけれど見た目もすごい。握りこぶしほどの大きさの大福の中に、たっぷりの自家製つぶあんと、まるごとのイチゴと栗、そして濃厚なクリームチーズが入っている。

「ごはん代わりになっどが?」

「十分じゃ。ありがとう、聖子ちゃん」

「りおんちゃんには、これ」

 紙袋の中には、りおんが好きな、ささみ巻きガムも入っていた。

 自分も貰えるとわかったのか、りおんは鼻をひくつかせながら、ぺろぺろと聖子の顔を舐めている。

「りおん、よかったねえ。今、お茶、入れるね」

「コーヒーのほうがええかな」

「なんじゃこりゃには、濃いめのお茶でねぇ?」

「まだ食べん。とりあえず、コーヒーを飲んでからにすっ」

「聖子ちゃん、ほんのこっコーヒー好っじゃいね」

 夫もコーヒー党なので、豆は冷蔵庫に常備している。浄水器は持っていないので普段は水道水で淹れるけれど、聖子には特別だ。

 柚子はキッチンの棚からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、豆とともにコーヒーメーカーにセットした。

 ぷうんと、香ばしい匂いが広がる。柚子はふだんは使わない、とっておきの有田焼のマグカップに琥珀色のコーヒーを注いだ。

「聖子ちゃん、こい、覚えちょっけ?」

「もちろん。柚ちゃん、まだ使つこてくれちょっとや」

 ペアのカップは、聖子から結婚祝いに贈られたものだ。

「うちでいちばん上等なカップじゃっで」

 聖子はブラックで、柚子は粉末のミルクを少しだけ入れて飲んだ。

 ささみ巻きガムを貰ったりおんは、聖子の膝から、ぴょんと飛び降りた。

 ガムをくわえて、リビングの隅に行き、両の前脚で上手にガムをつかんで噛み始める。誰も盗るわけがないのに、柚子と聖子にお尻を向けて、隠れて食べているつもりなのだ。

「聖子ちゃん、いったい、どうしたん? 何か、話があって来やったんでしょ」

「わかっ?」

「そりゃあ、わかっちょっど。結婚すっとや?」

「何もわかっちょらんね。そんな話で来たんと違う」

 聖子は柚子に、復職を勧めに来たのだった。

 夫の両親と同居すれば、りおんを留守番させなくてもすむ。舅も姑も犬好きで、りおんを可愛がってくれる。会社の人も再三、勧めてくれていることだし、もう一度、復職してはと言うのだ。

「私がこげんこつ言うのもなんやっど、辞めて3年も経つのに、元気になったら戻ってこい言うてくれる会社や上司なんて、なかなかおらんよ」

「ああ・・・うん」

「柚ちゃん自身んためにも、りおんちゃんと24時間一緒におっより、仕事したほうがええ思うよ」

「私も、いつまでも、このままではいかんと思うこともあるんじゃっど・・・」

 一日のほとんどをりおんと過ごし、家族以外と会ったり話したりすることもせず、アパートとスーパーと公園だけが行動範囲という、社会的にひきこもりのような生活を続けるのがいいとは、柚子も考えていない。

 経済的にも、柚子が復職したほうがいいに決まっている。

 まだ33歳だし、社会復帰しなければと思うものの、仕事に出ている間に、りおんに万一のことがあったら、と想像すると、復職するのは恐い。

「まあ、引越しすれば気分も変わっかもしれんで、そしたら、また考えてみっ」

 聖子は無理に話を続けようとはしなかった。

「うん。みおんママは元気?」

「もう、10歳じゃっでね。おばあちゃんよ」

 小型犬の10歳は、人間でいえば還暦に近い。人間の60歳は若いが、小型犬は7、8歳でシニアとよばれる。ミニチュアダックスの寿命は13歳から16歳くらいだ。

「ママがみおんを生んだんは、何歳んときじゃったかな」

「5歳になる、ちっと前よ」

 みおんが生きていたら、ちょうど5歳だ。

「みおんちゃんはね、姉妹ん中で、いちばん小さかったんに、いちばん先に立ち上がったんよ」

「知らんかったぁ。そげんやったとぉ」

 ふたりは懐かしい想い出話に花を咲かせた。


「なあ、聖子ちゃん。そろそろ、なんちゃってを食べるがぁ。聖子ちゃん?」

 トイレから戻ると、聖子はコタツにうつぶせていた。眠ってしまったようだ。りおんもガムを食べて満腹になったのか、聖子の隣ですやすやと寝ている。

「こげなところで寝たら、風邪引っど」

 声をかけても、びくともしない。柚子はフリースのブランケットを肩にかけてやり、知覧茶ちらんちゃを淹れた。

 ひとりで「なんじゃこりゃ大福」を味わっていると、再び、チャイムが鳴った。

 こんな雪の日に、珍しいことが続くものだ。口元についた白い粉を拭いながらチェーンを開けると、チョコレートブラウンのダッフルコートを着た女性が風呂敷包みを手に立っていた。

 年の頃は柚子と同じか、少し上くらいだろうか。大家の姪で、近くに住んでいるという。このアパートで過ごす最後の年末になるからと、入居者に、おせち料理を配ることになった。よかったら食べてくれと重箱らしい包みを差し出されて、柚子は戸惑った。

 大家から、そんな好意を受けるのは初めてだった。アパートを取り壊すことになったからと挨拶には来てくれたけれど、姪の存在は聞いていない。

 ただ、まあ、話の内容も妙ではないし、大家の名前で丁寧に挨拶もされた。押し付けがましくない言い方も好感が持てる。

 なにより、聖子が来てくれたのに何も食べ物がなかったこともあって、柚子はありがたく受け取ることにした。

 女性のコートの肩には雪がつもっている。柚子はリビングに取って返して、「なんじゃこりゃ大福」を3個、女性に渡した。

 大家夫妻と食べてもらうつもりで渡したのに、女性はその場で包みを開いた。「なんじゃこりゃ大福」は有名だから、女性はもちろん知っていて、でも食べるのは久しぶりだと微笑んだ。

 柚子はあわててキッチンに引き返し、来客用の湯呑みに知覧茶を淹れた。玄関先に戻ると、匂いにつられて起き出したのか、りおんが女性の足元にまとわりついている。

 人見知りするはずのりおんがしっぽをふりまくっているので、柚子は驚いた。


 女性を見送った後、柚子は目を覚ました聖子に、りおんを任せて風呂に入った。ドライヤーで髪を乾かしていると、リビングから、りおんの楽しそうな声が聞こえる。

 柚子がリビングに戻ると、コタツに入って、りおんと遊んでいたのは聖子ではなく、実家にいるはずの夫だった。

 雪と風が強いから、迎えは明日の朝になると言っていたのにどうしたのかと訊くと、そんな電話はしていないし、強風波浪警報など出ていない。風はそんなに激しくないと、きょとんとしている。

 驚いた柚子が聖子の携帯に電話すると、聖子は宮崎の実家で年越し蕎麦を食べていた。

 では、ついさっきまでの、あれはいったい何だったのか。

 何が何だかわからず、柚子はその場に座りこんだ。頭がくらくらして、立っていられない。

 夫の膝の中からピョンと飛び降りたりおんが、柚子の膝に前足をつく。「くーん」という心配そうな声を聞いたとたん、まぶしいほどの光に照らされたような気がした。


 柚子の家に現われたのは、みおんだったのではないだろうか。

 聖子にも、おせち料理を手に訪ねてきた女性にも、りおんはなついていた。聖子はともかく、初めて会う人には警戒して近寄らないりおんが、柚子がキッチンに引き返して知覧茶を淹れている間も、じゃれていた。

 考えてみれば、大家が突然、何の前ぶれもなく入居者を訪ねて、おせち料理を配るという事態が奇妙な話だ。

 大家の名前を出されたとはいえ、見知らぬ人間から食べ物を渡されて、抵抗なく受け取った自分の言動も信じられない。

 生きていれば、みおんは5歳。人間だと36歳で、柚子と同年配である。みおんと同じチョコレート色のコートを羽織っていたあの女性ひとは、天国で成長したみおんだったのではないだろうか。

 だとしたら、柚子に職場復帰を勧めた聖子は、性別もわからないまま流れてしまった、あの子だったのかもしれない。

 柚子のお腹に宿った子は女の子で、天国で優しいまなざしの女性に成長し、聖子の姿を借りて会いに来てくれたのではないだろうか。

 コタツの上には「なんじゃこりゃ大福」も、おせち料理の重箱もないけれど、大福を頬張った感触は夢とは思えないし、重箱の重さも両手に残っている。

 柚子はコタツ布団の端を、ぎゅっとつかんだ。柚子の機嫌をとりそこねたと思ったのか、夫は黙っている。りおんは心配そうに、柚子の膝に頭をもたせかけていた。


 もう一度会いたい。もう一度でいいから会いたい。そう願い続けていたみおんが会いに来てくれたと言ったら、夫は笑うだろうか。

 一度でいいから会いたかった。生まれてきてほしかった。その子が柚子を気遣う女性に成長し、復職を勧めてくれたのだと言えば、いつまでも死んだ子やみおんに執着しているからそんな夢を見たのだと、たしなめられるだろうか。

 ふと見ると、コタツの上に置かれていたのは、りおんのおやつのジャーキーが入った袋と、柚子の大好きな店のアップルパイだった。夫の実家とは逆方向にあるのに、遠回りして買ってきてくれたらしい。

 涙で、アップルパイがかすむ。りおんが、涙を拭き取るように柚子の顔を舐める。夫は「大丈夫や」と言いながら、おずおずと柚子の背中をさすりだした。


 お腹に宿った命が流れたとき、みおんを突然に喪ったとき、悪い夢ならどんなによかっただろうと思った。毎朝、目覚める度に、生きている自分を呪い、どうして夢ではないのだろうと運命を呪った。

 でも、あの子たちが会いに来てくれたことは、夢であってほしくない。

「大丈夫や。大丈夫」

 静かな声で、子守唄のようにゆっくりと言いながら、夫は柚子の背中をさすってる。

 あの日、命の炎が消えかけたみおんのからだをひたすらに撫ぜつづけた手で。

 見かねた医者が抱きかかえて止めるまで、みおんを死なせてしまったと号泣しながら自分の頬を打ち続けた手で。

 みおんが会いに来てくれたと話したら、夫は喜んでくれるのではないだろうか。

 娘に抱かれて、りおんが嬉しょんしたと知ったら、おねえちゃんたちに会えて良かったなと、りおんの頭を撫ぜてくれるような気がする。

 夫は、そういう人だ。柚子の話を笑い飛ばしたりしない。そんな当たり前のことを、どれくらいの間、忘れていたのだろう。


 みおんが天国で幸せで、先に逝ったおねえちゃんと一緒に楽しく過ごしながら、柚子たち家族を見守ってくれているのだとすれば――亡くなった犬たちが集うという虹の橋のふもとで、柚子たちがいつか訪れる日をのんびりと待ってくれているのだとすれば――、柚子はもう、夫のことも、柚子自身のことも、許していいんじゃないだろうか。


 みおんへの後悔の気持ちと、責め続けた夫への気持ちが、雪のように溶けていく。

 本当に、天国から娘とみおんが会いに来てくれたのか、それとも、不思議な力を持つりおんが見せてくれた幸せな幻だったのか。

 どちらでもいい。もう一度、みおんに会えたのだから。

 一度も抱いてやることができなかった娘と、初めて話せたのだから。

 ふたりとも、きれいな顔で笑っていた。

 だから、柚子はもう一度、生きていける。

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