◆日曜日◆ 男に媚びを売って何が悪いの?
と、柄にもなく意気込んだのも束の間。待ち合わせ場所に着いて、十分待っても今日の彼女は現れない。元の莉衣が律儀なせいか、今まで誰も遅刻した子はいなかった。おれが行くと「彼女達」はいつもどこかで待っていて、声を掛けてきたのだ。
そんなことを考えながらもう十分待った。それでも現れなかった。蔵良が指定した待ち合わせ場所はショッピングモールだった。よく見れば、おれのように時計を見ながら待っているやつが何人かいる。なるほど、女の子は化けるのやら身支度に時間がかかるから、待つのはおれらの方ばかりというわけか。何となく隣の眼鏡男子とも妙な連帯感を覚えた。ああでも貧乏ゆすりは感心しないぜ、ブラザー。
いい加減おれがくたびれ始めた頃、きっかり三十分遅刻してから、彼女は現れた。
「隆一」
まず目を引いたのが、真っ赤なキャミソールと黒のミニスカートのコントラスト。スカートから覗く脚が長くて綺麗だった。
次に頭のてっぺんで軽くまとめられたお団子。首元の後れ毛。八センチのピンヒールでかさ増しした彼女はおれを見ると小さく手を振った。
正直別人かと思った。莉衣にこんな格好が似合うとは夢にも思ってなかった。何も知らずに彼女と出会ったらどうだったのだろう。おれは彼女をどんな目で見ただろう。どんな風に思ったんだろう。
「遅刻、三十分」
「いいじゃない。待つのが隆一の仕事でしょう?」
訂正しよう。おれの職業は大学生だ。赤ちゃんの次に寝ると愚弄されようとも、夏休みはただのニートだと謗られようとも、学生であることに変りはない。
「失礼な。おれの仕事は大学生だ」
「何よ。さっき莉亜に見惚れてたくせに」
バレてたのか。
「そんな格好して、見るなという方が無茶だろ。おれは悪くない」
ライオンの檻に生肉を放れば、ライオンはそれに一も二もなく飛び付く。目の前にミニスカの女の子がいれば、見たくなる。そういうもの。
「男に媚びを売って何が悪いの?」
くるりと振りかえると、完璧な上目遣いで彼女は言った。咄嗟の言葉に、おれは何も言い返すことが出来なかった。
面喰ったおれに勝利宣言をするように、彼女は妖艶に微笑んだ。これが全部計算だとしたら恐ろしい。恐ろしすぎる。これが十八歳とかおれは信じたくない。
「いえいえ、何にも悪くありません。これからもどうぞお好きなだけ媚びてください」
今日の彼女は随分と挑戦的なようである。先が思いやられるちゃありゃしない。
「ええ、それならいいわ。莉亜は優しくされて、大事にされてちやほやされたいの。よろしくね、隆一」
やれやれ、とんだお姫様のお守りを仰せつかったものだ。
「じゃあ、まず何がしたいんだ。買い物か? 映画でも見るか?」
「……隆一。他にもっと言うことはないの?」
彼女――莉亜は不機嫌そうに整った眉をしかめた。どうやらおれの態度がお気に召さなかったらしい。
「じゃあ、何て言えば良いんだよ」
「この格好を見て、何か言うことはないの?」
「腹、壊すなよ」
そんなに短いスカートだとお腹冷えないか、お兄さんとっても心配です。
「ばっかじゃないの」
この回答も間違いだったらしい。残念、不正解。
「待ち合わせに女の子がやってきたら、まず『今日も可愛いね』って言うものよ」
大真面目に莉亜は言う。
「それはどこの世界のルールだ、一体」
あれか、今日『は』じゃなくて今日『も』なところがポイントなのか。そうなのか?
「今日モ可愛イネ」
「真面目にしてくれないと、莉亜帰る」
「おれは至って真面目だ――」
「じゃあね、隆一。さようなら」
容赦なく、莉亜はくるりと元来た方向を向いた。おいおい、本気かよ。
帰られては困るのだ。おれはどうにかして、莉衣を取り戻さなければならない。
「……その、よく似合ってる。可愛いよ」
捨て身の覚悟でおれがそう言うと、莉亜は「照れずに言えたら完璧よ」とおれに向き直った。これが照れずに言えるようになったらおれもイタリアへ移住することを真剣に考えるとしよう。
「まあいいわ、隆一。デートの基本は手を繋ぐことよ」
それが基本だというならば、小学校の教科書にも載せてほしい。大学の分厚いだけの専門書にだって、そんなことは載ってないし誰も教えてはくれないのだ。
「……かしこまりました。では、お手をどうぞ」
仕方なくそう言って、おれは右手を出した。「やればできるじゃない」と莉亜は満足そうに笑みを湛え、おれの手に左手を重ねる。
手を繋ぐのは二回目だ。けれど、その変に柔らかい感触にたじろがずにはいられなかった。一体おれは今までどうやって手を繋いでいたんだろう。
「今日一日、隆一は莉亜の下僕ね」
綺麗な薔薇には棘があるという。それにしても、今日の薔薇の棘は鋭い。美しさと比べても、お釣りがくるぐらいに。
莉亜はとりあえずすごかった。
手を引いて歩くのは当たり前。座る時には椅子を引く。
着せ替え人形のように服を試着してみては、おれに「どう思う?」と訊く。
一回目に、「可愛いよ」と答えたら「ばかじゃないの」と言われた。
二回目に、「似合ってる」と答えたら、「いい加減にして」。もう、わけが分からん。ついでに、彼女の買い物の荷物は全部、当然のようにおれが全部持った。色とりどりの服屋の紙袋。
しかしながらいつの間にかそうやって扱われるのが気持ちよく……なんてそんなことはまるでない。まるでないぞ、おれ。
「隆一ー。疲れた。アイス買ってきて」
「バニラとチョコとどっちがいい?」
「両方よ。当然じゃない」
かしこまりました、姫。と心の中でお辞儀をしておれはアイスを買いに向かった。何となく板についてきた気がする自分が恐ろしい。
アイスを渡すとおれは向かいの席に座った。ちびちび、と莉亜は機嫌良さそうにアイスを舐めている。
「一つ訊いていいか」
「気が向いたらね」
「……莉衣はどうしてるんだ? その君達の中で」
おれがそう尋ねると、莉亜の表情が一瞬にして変わった。
「分かってないわね、隆一」
「一度しか言わないからよく聞くのよ」
莉亜はさっとおれに背を向けると、怒っているのか少し早口になって言った。目線はやや斜め上。どんな顔をしているのかおれには分からない。
「女の子とデートしてる時に他の女の名前出すって最低よ、それ」
「じゃあでも君以外誰に聞けっていうんだ」
「そんなことは聞きたくないの。いい? これ以降莉衣の名前を出しても莉乃の名前を出しても他の誰の名前を呼んでも、莉亜、許さないから」
許さない、と言われたらしょうがない。おれはため息をついてそれ以上、莉衣について聞くのを諦めた。
莉亜はアイスを食べ終わるまで一言も、口を聞いてくれなかった。
その後も機嫌が悪そうに、莉亜はショッピングモールを歩いていた。身軽な莉亜は後ろ手を組んで、つんと澄まして歩く。おれが何か適当なことを言っても「そうね」としか答えてくれない。ピンヒールのコツコツとした足音がやけに甲高く響いた。
「ねぇ、莉衣に会いたい?」
あれだけ嫌だと言ったくせに、莉亜は今度は自分から莉衣の名前を出した。
「そりゃな」
「莉衣のこと好きなの?」
「君に教える義理はないよ」
「いいから答えて」
責めるように、追い立てるように莉亜は言う。
「莉恵が聞いた時は答えたでしょう? 莉朱には『君を見てる』って言って、莉緒には小トロロを取ってあげて、莉乃がこけそうになったら抱きとめて、莉紗には写真を撮らせたくせに、莉亜の質問には答えてくれないの? 隆一」
「……好きだよ」
答えると、莉亜はおもむろに振り返っておれとの距離を大股で詰めた。
「莉衣はね、こうやって隆一の隣を歩きたいって、ずっと思ってたのよ」
底意地の悪そうな笑顔で、莉亜は微笑んだ。そうしていてもなお、莉亜はちゃんと自分の魅せ方を知っていて、彼女は凄絶に綺麗だった。おれは目を逸らすことが出来ない。
「莉衣がいつからあなたのこと好きだったか知ってる?」
「知るわけないだろう、そんなもん」
「ね。莉衣のこと、なーんにも隆一は知らないのよ」
そう言って、おれに抱きついた。うるんだ瞳でおれを見上げる。ここまで来ても揺るがない、完璧な上目遣い。
「ねぇ、莉亜じゃだめなの?」
「どういうことか分りやすく言ってくれ」
香水なのかなんなのか、甘い匂いがした。まるで毒が回っていくように、頭の芯がくらくらする。
頭を抱えたいのに、両手は紙袋でふさがっている始末。仕方なく俯いたら、キャミソールの莉亜の胸元が目に入った。これが計算されたものだとしたら、何というか、おれはもうやってられない。しなやかな豹が獲物を狩るように、莉亜はじりじりと、おれににじりよる。その爪はもう、おれの喉元まですっと伸びているのだ。彼女は自分の武器がなんなのか、よく心得ている。
「このままずっと、莉亜のままで隆一と付き合ったらだめかって、訊いてるの」
このままずっと莉衣が莉亜のまま。
待ち合わせは三十分待ち。
いいように使われて、罵られて。
たけど、多分。
「莉亜のこと、きらいじゃないでしょう?」
ああ、そうだ。きらいじゃなかった。
こんな風に時間を過ごせば、この子のことも好きになれるかもなって思った。
莉亜の白い手がおれの頬に当てられる。その手はまるで氷のように冷たかった。触れられたそばから感覚がしびれていくようだ。
「莉亜だって隆一のこと好きだもの。莉衣なんかに渡さないわ」
莉亜はくすりと笑った。密着した体から感じる鼓動と体温。莉緒はもう片方の手もおれの頬に当てた。吸いこまれそうな黒い瞳が、おれに選択を迫る。
「莉亜だけを見て。莉亜だけを愛して」
「ああ、」
莉亜がまばたきをする度に、なんて長い睫毛なんだろうと思った。肌はまるで陶器のように滑らかで、これが全部おれのものになるのかと思うと。
頷くだけでいい。ただ一言「うん」と言って、あとは手を伸ばして彼女を抱きしめればいい。
――隆兄、あのね、わたし、その……。
抗いがたい誘惑を遮ったのは、か細い声だった。あの日おれが最後まで聞かなかった莉衣の言葉。
「莉衣」
熱に浮かれされたようにおれがその名を呼ぶと、莉亜は驚きのあまり大きな目を更に見開いた。そして、不服そうにおれから体を離した。
「やっぱりあの子がいいの?」
莉亜は泣きそうな目でおれを見た。恨むような、視線。「絶対に上手くいくと思ったのに」そう呟く姿は莉恵に似ている気がした。
こぼれる、そう思った途端に、雫が一滴こぼれ落ちた。思えばおれは彼女達を泣かせてばかりだった。
「……莉衣のどこがそんなに好きなの?」
どこが、なんだろうか。
同じ質問を美香子ちゃんにも訊かれた。蔵良には、それは三十点だと言われた。その意味が今なら分かる。
例えば、ほっとけないところと言えば、おれはきっと莉乃の名前を挙げるだろう。明るいところと答えれば、莉緒の名前を挙げるだろう。けれど、そのどれも正解には思えなかった。誰か一人を選べと言われてもおれには選べなかった。
――そういう時は『全部』って答えるべきよ。それで『そんなこと訊かせてごめんな』って抱き締めれば完璧だわ。
魔女の声が呪文を唱えるように頭の中で言う。
目を閉じて一つ息を吸った。蔵良の力を借りるのは嫌でしょうがなかったが、今はそのほかに方法がないようだった。
「全部」
おれがそう答えると、莉亜は一瞬息を呑んだ。
何が正解かは分からないけど、イタリア紳士のやり方も、少女漫画の鉄則も、おれには分からないけど。
「ほっとけないのも、明るいのも、不器用なのも、素直になれないのも、怒ってみせるのも、」
おれはこの六日間に会った彼女達を思い出していた。
知らないことは多分沢山ある。けれど、知っていることも沢山あるのだ。
ごめんなさいと泣いた莉乃。
小トロロを掲げて笑った莉緒。
うそつきと罵った莉恵。
観覧車を見上げた莉紗。
きらいとそっぽを向いた莉朱。
そして、今目の前に居る「私を愛して」と言った莉亜。
「全部莉衣だろ?」
流れた時間が恋なら、何が、どこが、好きかなんて言えない。ばらばらになったピースを、おれは元に戻す。
おれが望んだ、おしとやかで元気いっぱいでセクシーでちょっといじわるで恥じらいがある、余計なこと言わない女の子。
「だとしたら全部おれがもらう。一人残らず。他の誰にもやらん」
莉亜は一度俯いたと思うとまるで別人のような顔をした。
「……そ、それが本当に」莉乃のようにおどおどし、
「リュウの願い?」莉緒のように生意気に、
「もしそれが」莉紗のように達観して、
「うそやったら今度こそ」莉恵のように微笑み、
「貴方を許さない」莉朱のように無表情におれを見つめた。
「ああ、嘘じゃない」
おれが答えると、「彼女達」は満足そうに笑った。
「上手くやりなさいよ、隆一」
莉亜は、ヒールでも足りない分を少し背伸びしておれの頬に、キスをした「餞別よ」
「あなたのこと、好きだって言ったのは本当よ。莉衣になんか、渡してやらないって本気で思ってたんだから」
「ああ、知ってるよ」
「そう、それならいいわ」
それから予定調和のように、また妖艶に微笑む。そして莉亜は目を閉じた。
今度こそ、両手を伸ばした。きついくらい彼女を抱きしめた。たまには、一回ぐらいはやってやろうじゃないか。お約束ってやつを。
腕の中で、彼女の体が硬直しているのが分かる。だから呼んだ。
「好きだ。だから、帰ってこい、莉衣」
しばらくしてから彼女は、何も言わずに、おれの背中にただゆっくりと手を回した。




