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◆日曜日◆ 食ってくれる犬がいなかったんだよ

 日曜日も大学の食堂はやっているが、夏休みなのでメニューが限られていた。日替わりのAランチと麺類のみ。唐揚げ定食を食べようと思っていたんだが、仕方がない。


 おれは、醤油ラーメンを頼んで、ずるずると啜った。これといって特筆するような味ではないが、まずいということもない、至って普通の醤油ラーメン。


 必ず会えるという確信はなかったが、ほかにどこに向かえばいいかもわからなかった。大学以外で蔵良に会ったこともない。


「例えば、よ」

 おれのラーメンが三分の二ほど減ったところで、歌うようなアルトが言った。


「本当は唐揚げ定食が食べたいのに、ラーメンを食べている人間がいたら、その人間にはラーメンを選んだ理由があるはずじゃない」

「夏休みだから売っていないとか、そういう理由だな」

 斜め向かいの席に、蔵良は座る。置かれたのは日替わりAランチだった。


「そうね」

 選ばなかったはずの選択肢も、他人のところにあると美味しそうに見える。生姜焼きが急に存在感を増しておれに訴えてくる始末。


「ねえ、サトウ。あなたはどうして、莉衣ちゃんを選ばなかったの?」

「んぐっ」

 啜っていたラーメンが喉に詰まって死ぬかと思った。そういうセンシティブな問いをラーメン食べている時に聞かないでくれ。


 慌てて、水で流し込んで蔵良を睨む。蔵良は、まるで何もなかったかのように、流れるような所作で生姜焼きを食べていた。


 ちらりとおれを見た青い瞳と見つめ合った。ああ、そうだ。こんな色だった。

 梅雨が終わる頃、莉衣を連れて水族館に行った。沢山の魚が泳ぐ水槽は、こんな風にきれいな、吸い込まれそうな青だった。

 選ぶも選ばないもない。

 おれはそもそも、その土俵にすら立とうとしなかった。





「わーーお魚いっぱいだね」

 目の前いっぱいに広がる水槽にはしゃぎながら、莉衣が言う。落とされた照明と広い大水槽を泳ぐ魚達。悠然と尾びれを動かすジンベエザメを見ていると、こいつには悩みなんてないように見えてくる。おれは日々単位に悩みながら生きているのに。


「そりゃあ、水族館だからな」

「ねえねえ、隆兄。帰りにお寿司食べようよ」

「お前は魚見て魚食べる主義だったのか」

 そういえば、さっきはイワシの群れの展示もあったが、そういうことなのか。


 さっきからにこにこ楽しそうに見ているのは「おいしそう」と思っているのか。イワシは統率されているかのように銀の鱗を輝かせながら一斉に泳ぐ。その姿がきれいだった。


「あと、おれの予算だと回る寿司になるぞ」

「いいな、回るお寿司。くり寿司のびっくりポンしたい」

 呑気にそんなことを話しながら、大水槽を眺めていたら思いの外時間が経っていた。スマホを見たら十時まであと五分というところ。


「おい、莉衣。ペンギンに餌やるんだろ?」

 確か餌やりタイムとやらは十時からだったはずだ。ここからペンギン島まで歩くことを考えたら、そろそろ移動し始めないといけない。


「あ、そうだった! 忘れてた!!」






「ペンギンさんに餌をあげる時は必ず頭からあげてください。しっぽからあげるとペンギンさんの喉にしっぽがつっかえちゃいますからね」


 真剣な顔で飼育員のお姉さんの説明を聞き、莉衣はペンギン餌やりタイムに挑んだ。説明の通りにペンギンの嘴に魚の頭を向けると、ぱくっと一口でペンギンは魚を丸のみにした。恐るべし、噛んだりしないんだな。


「あー可愛かったー。隆兄もやればよかったのに」

 無事餌やりタイムを終えた莉衣が満足気に伸びをする。


 確かにペンギンは可愛いが、鯵やらワカサギやらを丸のみにする様を見ていたらなんだか獰猛に見えてきた。嘴で突かれたと思うとぞっとする。


「おれは……まあいいよ。莉衣が楽しかったんなら」

「うん、すごい楽しかった。来てよかった」

 そのまま、水族館のお土産ショップに寄った。何回も来ているから今更そんなに目新しいものはないと思う。


 莉衣は大体毎回チンアナゴの抱き枕を買うか買わないかを悩んで、買わない。置く場所がないという。


 けれど、この日莉衣が見ていたのは、抱き枕ではなかった。

 今にも海に飛び込もうとするようなポーズの、ペンギンのキーホルダー。


「ファーストペンギン、か」


 手書きのポップに説明書きがしてあった。ファーストペンギンとは、集団行動するペンギンの群れの中で、一番に餌を求めて海に飛び込むペンギンのこと。あなたに勇気をくれるラッキーアイテム☆、だそうだ。

 莉衣はそれを、手にとっては眺め、またラックに戻し、また手に取っては眺めている。

「何色が欲しい?」

 よく見ると、ペンギンの羽根、フリッパーというらしいが、についているバンドの色の種類が何種類かあった。黄色だと金運で、水色だと仕事運らしい。なんだ、単位が取れるやつはないのか。


「ピンク……かな」

「はいはい」

 おれは、ピンク色のバンドがついたペンギンのキーホルダーをレジへと持って行った。


「え、隆兄、買ってくれるの?!」

「その代わり、くり寿司でおれに大トロを奢ってくれな。ほれ」


 会計を済ませて、莉衣に渡してやる。莉衣はビニール袋から出すと、背負っていたリュックサックに嬉しそうにそれを付けた。


「わーい! じゃあこのままくり寿司だー!!」

 莉衣が歩く度に、ペンギンがゆらゆらと揺れた。まるで本当に海に飛び込もうとするみたいに。


 水族館を出て、くり寿司を目指して歩いていると、莉衣が突然立ち止まった。急に止まるから、おれは莉衣を置いていきそうになった。


「おい、莉衣」

 莉衣は、俯いてきょろきょろして何度か口ごもって、そして意を決したように、おれを見た。


「……隆兄、あのね、わたし、その……」


 ああ、これはよくない。

 非常によくない。

 突き付けられたら、おれは答えないといけなくなってしまう。


 可愛くて、大切な、妹みたいな莉衣。

 この距離感が壊れてしまったら、おれは一体どんな風にこの子に接すればいい。


「どした? くり寿司の気分じゃなくなったか?」

 だから、おれは気づかないふりをした。

 その先に続く言葉を、予想できたから。


「別に、大トロじゃなくてもいいぞ。ほら、こないだ新しくできたファミレスでもいい」

「えっと、その、そうだね!」

 莉衣は一瞬、割れる寸前の水風船みたいな顔をして、そしてまたいつもの笑顔に戻った。


「でも、やっぱりくり寿司にしよう。わたし炙りトロサーモンとサーモンアボカド食べたい」

「鮭ばっかり食べるんだな。お前の前世は熊なんじゃないか」

「鮭じゃないよ、サーモンだもん。全然違うよ!」

「おれには違いがよく分からんのだが」


 そのあと、約束通りおれはくり寿司で莉衣に大トロを奢ってもらって、何もなかったかのように家路についた。


 莉衣ももう何も言わなかった。いつも通りの、莉衣だった。

 そう、おれは何もなかったことにした。

 それだけだ。



 ■ ■ ■



 日替わりAランチをきれいに食べ終えて、両手を合わせて小さな声で「ごちそうさまでした」と蔵良は言った。


「恋する乙女にとってね、好きな人って世界の全てなのよ」

 そして、まるで小さな子供に言い聞かせるように、蔵良は続ける。おれには分からない複雑怪奇なオトメゴコロなるものを、こいつは語ってくれるつもりらしい。


「あなたにはその覚悟がなかったんでしょう?」

 あの子の世界の全てになる、その覚悟が。


 ぐさり。


 心に何かが刺さる音が聞こえるのなら、きっとそんな音が聞こえたに違いない。


「もう少しオブラートに包むとか婉曲表現とか、お前にはそういう配慮はないのか?」

 世界の全てだというのなら、こんなに小さな世界もないだろう。おれは莉衣に憧れてもらえるほど、立派な人間でも大人でもない。


 たまらずおれは天井を仰いだ。もうずっと、この食堂に蛍光灯が何本あるかを端から端まで数えていたかった。


「ないわね。アタシは可愛くて純情な女の子にしか優しくしない主義なの」

 蔵良は容赦なくピシャリと、おれのささやかかつ健全な要求を跳ねのけた。


「それとも何? サトウは女の子なんかに興味がなかったのかしら? 好きなタイプはガチムチ兄貴? 筋肉萌え? ああそれとも潤んだ目のショタ系がお好み? それならいいのよ。もう少しは手加減してあげても――」


 一瞬おれの脳裏に眩いばかりの三角筋がよぎった。莉朱と見たあの博物館のディスコボロス。

 ――帰れ、どこか知らんが貴様は国に還れ。ああ、そっかギリシャか。


「おれは女が好きだ。女子高生が大好きだ」

「素直でよろしい。いい子ね、サトウ」

 もしかしたらおれは何か大切なものを失ってしまったのかもしれないが、気にしない方向で行こう。


「話を続けてくれ」

「だったらどうしてちゃんとあの子と向きあわなかったの? サトウ」

 蔵良は全てを知っているようだった。おれが、莉衣にした全てを。魔女はやっぱり千里眼なのかもしれない。


「簡単なことなのよ。あなたが『妹みたいにしか思えない』って思っていたから、あの子は妹以外になろうとした。それだけのことなのよ」


 ドジでおとなしい莉乃。

 元気で活発な莉緒。

 はんなり不器用な莉恵。

 論理的だけどちょっとずれた莉紗。

 寡黙で過激な莉朱。


 それが全部、おれのせいで生まれた。


「……何ていうかさ、こいつの前だけはヒーローでいたいっていうかさ、かっこよくありたいっていうのあるだろ。おれの場合、莉衣はそれだったんだよ」


 小さい頃からずっとおれの後ろをついてきた莉衣。

 憧れとか、好意とかそういう感情があいつに宿っていることは随分前から気が付いていた。

 その瞳で見上げられる度に、おれはどうしていいか分らなくなった。


「でも、付き合うってそういうことじゃないだろ?」

 付き合ったら、弱いところもだめなところも見せることになる。蔵良の言う通りだ。おれには何の覚悟もなかった。だから、おれはいつか莉衣に告白されるのがずっと怖かった。そんないつかが、この間やってきた。


 あの時、おれは逃げた。目の前の莉衣から。あいつの気持ちから。おれは何一つ、本気で向き合う気がなかった。


「そんなの、あなたのつまんないちっぽけなプライドでしょうよ。さっさと犬にでも食わせればいいのに。まったく小さい男ね」

 そう、おれは何よりも、自分のプライドとやらが大事だったんだ。


「食ってくれる犬がいなかったんだよ」


 笑え。笑ってくれ。できれば、罵ってほしい。

 でも、蔵良はそれ以上、おれに何も言ってはくれなかった。毒舌のくせに、本当に野郎には優しくないらしい。代わりに魔女はまたメモを渡してくれた。


「この子が最後の子よ。どうなるもこうなるも、全部あなた次第だわ」


 莉紗も言っていた。我々は全員で七人だと。

 おれは、最後の一人に会わなければならない。


「おう、分かった」


 おれが原因だとしたら、おれがケリをつけないといけない。逃げた分を、目を逸らした分の落とし前を、おれは払いに行かないといけないのだ。

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