◆土曜日◆ 施しを受ける気はない
街の大通りを一本奥に入る。そこの小さな、ヨーロッパの古いお洋服屋さんのような青い扉を抜けて、そのまま細い傾斜の急な階段を上る。すると、そこにクロノス時風がいる。
いつものように、にっこりと妖艶に『魔女』は笑う。
「はい、今日もいらっしゃい。莉衣ちゃん」
ここに通うのも、もう五日目だ。
来た時の記憶はしっかりとあるのに、帰る時の記憶は何故か曖昧だ。頭の中にもやがかかったように、うまく思い出せない。
部屋の中には色とりどりの服がハンガーにかかっていて、クロノス時風はいつもわたしにその中から、その日一番気になるものを選ぶように言う。
目についたのは、フリルの沢山ついたまるでドレスのような服だった。胸元には大きなリボンが結ばれている。
けれど、着たい服と似合う服は違うと思う。
こんな服が似合う子になりたかったな。わたしは繊細なレースを指でなぞりながらそう思った。わたしみたいな地味な顔が着たら服に負けてしまう。
「ああ、じゃあ今日はそれにしましょう」
「え、あ、その……」
断ろうと思ったのに、クロノス時風はハンガーからその服を外してしまった。そのまま一気に着替えさせられてしまう。
「まあ、すてき」
両手を顔の前で合わせて、うっとりと彼女が言う。
レースのスカートの裾をそっと摘まんでみる。おとぎ話の中から出てきたような金縁の鏡の中に、所在なげなわたしが映っていた。
「さあ、莉衣ちゃん。そこに座って」
鏡の前の椅子をそっとクロノス時風が示した。
言われるがままにそこに腰かけると、クロノス時風がわたしの髪にヘアブラシを通していく。なんの変哲もない、肩より少し伸ばした黒い髪。
左右に分けた髪を、耳より高い位置で結わえる。次はアイロンでふわりと毛先を巻いていく。顔の周りで、踊るように毛先が跳ねる。まるで魔法のようにツインテールができあがる。
「さあ、ここからがアタシの腕の見せ所ね。ちょっと目をつぶっていて頂戴」
クロノス時風の手には、妖精の羽根のような輝きをまとったコンパクトがある。恐る恐る目を閉じた。ふわふわとパウダーパフの感触を、頬に額に感じる。
ひやりとしたようなアイラインが引かれて。
まぶたをゆっくりとシャドウが流れていった。
最後はそっとリップグロスが置かれる。
呪文のように、魔女が言う。
「誰もあなたを縛ったりはしていないのよ。あなたはあなたの好きなように、あなたの好きな人を愛せばいいの。必要なのはたった、それだけ」
合図のように、指をパチンと鳴らす音がした。
「さあ、ハイドランジア。あなたがなりたいのは、一体どんなあなたかしら」
目を開けると、鏡の中に、わたしの知らないわたしがいた。
「わたしがなりたいのは――――」
■
今日も蔵良からはメールだけがやってくる。莉紗のおかげで大体の状況は掴めてきたが、あいつにも聞きたいことは山ほどあった。
メールの文面はもう慣れたもので、場所と時間と特徴だけが端的に書いてある。
『博物館 13時 ゴスロリ』
今度会ったらフリック入力の仕方を教えてやろう。そしてもう少しまともな文面が打てるように教育してやる。ついでにタロット占いのアプリでも入れといてやる。そう思って、おれはメールの画面を閉じた。
博物館なんて一人じゃ絶対に行かない。たまにはそういう場所に行ってみるのも悪くはないか。そう思って地下鉄に乗り込んだ。
できれば、今日はお手柔らかに頼みたかったが、そんなおれの望みを「彼女達」が聞き入れてくれるはずもなかった。
「佐藤隆一」
「やあ、初めまして」
石造りの重厚な博物館の前で、彫像よりも静謐な無表情を浮かべた彼女はおれを見るなりそう言った。
棒読みのような口調。出来れば、その、フルネームで呼ばないでくれると嬉しい。
漆黒のフリルの沢山ついたワンピース。胸元には黒の大きなリボン。そしてレースのリボンで髪をツインテールに結えていた。
左手に持った黒の日傘には刺繍で優雅に黒百合が織り込まれている。佐藤隆一二十一歳、本物のゴスロリ、なるものは初めて見ました、ええ。
「あのさ、できれば名前とか教えてくれると、」
「貴方と馴れ合うつもりはない」
彼女はそのまますたすたと厚底のブーツを鳴らして歩いて行ってしまった。揺れるツインテール。やれやれ、これじゃあ昨日より骨が折れそうだ。
「高校生一枚」
向かった先は博物館の入場ゲート。左手に持った学生証を見せて、彼女はチケットを買っていた。書いてある名前は『春島莉衣』。間違いなく莉衣のものだった。
何があったのかは未だに分からない。けれど、少なくても今はこの子に付いていくほかないのだ。『ギリシア展』なるものにはあんまり興味が湧かないけれど。
「すいません、大学生一枚」
そう言うと、彼女はまるで親の仇でもでも見るような目でおれを見た。そんな目で見られるとさすがにちょっと傷つく気もする。
「おれもその、ギリシャとかすごい好きなんだよな。えっとアマテラス神殿だっけ?」
「パルテノン神殿」
氷のような口調で訂正すると、彼女はすたすたと館内に入って行った。おれが、高校生の時にちっとも真面目に世界史を勉強しなかったことを後悔したのは言うまでもない。
彼女以外にも世の中にはギリシャに興味のある方が結構いるようで、平日にしては人の入りはそこそこよかった。彼女はゆっくりと彫刻やら絵画やら壺やらに見入っていた。中でも円盤投げ、ディスコボロスがお気に入りのようで、何十分も見上げていた。
他にすることもないので、おれもディスコボロスを眺めてみた。張り詰めた三角筋の輪郭。血潮のたぎる浮き出た血管。割れた腹筋はねじ曲げられて大きく歪んでいる。
こんな感じの、筋肉隆々のマッチョがそんなに好きなんだろうか。苦し紛れにおれも力こぶを作ってみたけれど、彼には遠く遠く及ばず、悲しくなってやめた。少し筋トレとか考えてみた方がいいかもしれない。
そうしているとどちらが彫刻なのか分からないほど、彼女は直立したままだった。真剣だった。黒い服のせいで余計に頬の白さが際立って、おれは一瞬息を呑んだ。声なんかとてもかけられなかった。
一通り見回ると彼女は満足したのか、パンフレットに博物館のスタンプを押して、出口へ向かった。振り返った彼女と目が合う。もはや完全にストーカーのおれ。
「どうして何も訊かない」
「君が話してくれるまでは何も訊かないつもりだけど?」
「貴方のそういう態度が気に入らない」
少し面喰った顔をして、彼女はそっぽを向いた。そしておれのショルダーバッグをむんずと掴んだかと思うと、出口に向かって大股で歩き出した。げほげほ、これじゃあ首が締まる。
「莉乃も莉緒も、どうして貴方なんかの肩を持つの」
ひとり言のように彼女が言う。初めて聞く、感情の乗った声だった。
「貴方がいなければ、莉恵はあんな思いをせずに済んだのに」
おそらくこの子は、彼女達の中の免疫のような役割なのだろう。変な虫が寄ってこないように、誰かが彼女達を傷つけないように。そして傷つけた時にはもれなく傷を返す。
そのための警戒心。そのための、この射抜くような視線。
「あたしは貴方を許せない」
博物館から出て少し。ショルダーバッグから手を離して、彼女はおれに向き直った。
フリルが、揺れた。
厚底の右足が地面を大きく踏み込む。
まず飛んできたのは、右の平手。
それを何とか、左手で受け止める。
「貴方がいなかったら、莉衣だって」
その名前に怯まなかったと言ったら嘘になる。けれど、今おれの目の前に居るのは彼女だった。
名前も教えてくれない、無表情な、ゴシックロリータの黒百合。
遅れてやってきたのは、グーの左手だった。
「……どう……して?」
小さな拳を包むように受け止めて、おれは笑った。ささやかな彼女の復讐は、正直ちっとも痛くなかった。
「左は外さないつもりだったんだろう?」
両手をおれに掴まれた彼女がこくんと頷く。
「春島莉衣は左利きじゃない」
「うん、莉衣は左利きじゃないな」
「だから、最初に右手を出せばその次は予測しない。体格差があっても、ノーガードで顔に上手く入ればやれると思った」
その「やれる」はどの「やれる」だったんだろう。「殺れる」だとちょっと怖い。いや、大分怖い。
多分彼女はきっと、ディスコボロスを見ながらずっとおれを殴るイメージをしていた。筋肉隆々のまま止まったあの彫像を見ながら、おれをどうやってボコボコにしてやろうか考えていたはずなのだ。その小さくか細い両手で。
「莉衣は左利きじゃないけど、君は左利きだろう?」
おれがそう言うと、彼女は驚いたようにはっと顔を上げた。さらりと後ろに、ツインテールが流れる。
「いつ気付いた、佐藤隆一」
だからフルネームで呼ぶなって。日本で一番ありふれた苗字なのを自覚させないでくれ。そう呼ばれることで、彼女との距離感を感じるのが辛かった。
「日傘も、博物館のスタンプも、君は左手で持ってた」
「それ……だけで?」
「それに右利きなら踏み込みは普通、左足だ。右足じゃない」
彼女の両手を解放した。
莉恵に負い目がないわけじゃない。莉衣のことを心配していないわけじゃない。莉緒の明るさを思い出さないわけじゃない。莉紗の寂しそうな声に心が揺れた。莉乃のことを可愛いと思ったのは本当だ。だけど。
「おれは君を見てるつもりだよ」
「……どうして、殴られてくれなかったの?」
彼女はおれの両肩を掴んで、言った。小さな声で、俯いて、決壊ぎりぎりの抵抗。
「君がおれを殴ったら多分、君の手の方が痛いよ」
苦笑しておれは言った。屈んで、彼女と目線を合わせる。身長差の分を、埋めるように。
「ごめんな」
ぽんぽん、と頭を撫でると、それを合図に彼女は泣き出した。肩を震わせて、ぎゅっとフリルの裾を握りしめて、彼女は泣いていた。嗚咽を堪えた静かな泣き方だった。涙が流れていなかったら泣いているのかも分からないぐらい、静かに。
「はい、これ」
ショルダーバッグの中から洗濯したばかりの真っ白なレースのハンカチを取り出す。
「施しを受ける気はない」
「これはおれのじゃない」
火曜日に莉乃から借りたものだ。思えば随分と遠くに来てしまった気がする。やっと返すことができた。
「莉乃のだよ」
そう言ってもう一回ハンカチを示すと、彼女はやっとそれを手に取ってくれた。
「莉紗が言いたかったことが少し分かった」
ハンカチで涙を拭うと、彼女は言った。
「でも莉恵が言ってたことも分かる。あたしは、あたしは、貴方がきらいだ」
「うん、それでいいよ」
「またすぐそういうことを言うところがきらい」
「悪かったよ」
まだ涙の跡の残る顔できっと睨まれた。他におれに何と答えればいいというのだ? あーあー、ちくしょう、やっぱりオトメゴコロって難しい。
「あたしは莉朱」
ゴシックロリータの彼女はふわりとフリルを揺らして、そっぽを向いてやっとおれに教えてくれた。
「謝るなら、あたしじゃなくて、莉衣に謝って」
「莉衣にはどうやったら会える?」
究極のところ問題はそれだった。莉衣を除いた六人全員に会えば、この奇妙な現象は終幕を迎えてくれるのだろうか。
「あたしにはわからない。魔女に聞いて」
そのまま、最敬礼。直角九十度の見事なお辞儀だった。
「結局あたしは何も、変えられなかった」
流れたさらさらの黒髪が莉朱の表情を覆い隠す。
「ちゃんと莉衣に向き合ってあげて」
それが、本来おれに頭なんか下げたくないだろう、莉朱の願いだった。
「おう、頼まれた」