◆木曜日◆ 誰が一番可愛かったです?
蔵良に電話をかけたが、留守番メッセージの無機質な機械音声が『おかけになった電話はただいま電波の届かないところにいるか~』と言うだけだった。そのくせメールだけは律儀にやってくる。きっとあいつ自身が電波なのだ、そうに違いない。
『神社 17時 浴衣』
蔵良は喋る時は饒舌だが、メールは苦手らしく必要最低限の単語しか打ちこんでこない。もしかしたら魔女はまだ二十一世紀の文化に上手く適合できていないのかもしれない。最近スマートフォン買ったとか言ってたけどな。メッセージアプリを入れていない、化石のような暮らし方をしている。
にしてもこれはなんだ。まるで殺人予告か何かか、おい。おれはまだ犯罪者にはなりたくないぞ。
ただ、昨日一昨日と同じように、ここに行けばまた誰かに会えるような気はしていた。面影のある二人の女の子。そしておそらく、今日は三人目がやってくる。三人姉妹か、はたまた三つ子か。もしくは。
――莉乃、莉緒、と来て、次。
意図的か。はたまた天然か。それとも雑誌の影響か? 最近の『auau』には、飽きない女の演出にこういうことを勧めるのか? おれはもうついていけそうにないぞ?
でも、前向きに考えれば、浴衣の女の子とお祭りデートが出来るのだ。最後にお祭りに行ったのもいつだったのかもう思い出せないぐらいだ。ここは魔女の計略とやらに乗ってやろう、そう思った。
*
「こんばんは」
時間通りに神社の鳥居の前で待っていると、案の定、浴衣の女の子に声を掛けられた。
紺地に色とりどりの朝顔が描かれた浴衣。派手過ぎず、幼すぎずの絶妙のライン。髪は緑の玉かんざしでまとめてある。覗くうなじが綺麗だった。
目が合うと首を傾げて、少しはにかんだようににっこりと微笑んだ。
「莉恵と申します」
そう言って、今日の彼女はぺこりとお辞儀した。
「今日はうちがお相手します」
やわらかい関西のイントネーション。莉乃も莉緒も、決してこんな風には喋れなかった。下駄の足取りはあくまで楚々としていて、ウサギのように跳ねることもなければその辺で転びそうでもない。
「もう知ってはるんやろ?」
まるで何かの共犯者ででもあるように、莉恵はおれに微笑みかけた。
「まあ、大体は」
「じゃあ、うちのことも楽しませてくださいね」
そして、まるで当然だと言うように、おれの手を取った。するりと掌に滑り込んできた手は想像よりも細くて頼りなくて、一瞬おれは怯んだ。
「隆一さん、うち、リンゴ飴食べたい」
その隙を見逃さずに、莉恵はおれの手を引いて歩きだした。傍から見れば無邪気にお祭りを楽しむ女の子。でも一秒もおれにリードを許していない。完璧に彼女のペースだった。
ああ、莉緒の言った通りだ。この子は、莉恵は、多分相当手強い。オトメゴロロを解せぬおれが相手をするにはちょっと荷が重すぎるぐらいに。
「次はじゃあわたあめとか食べるか? それともたこ焼きとか?」
ただお祭りはすごい人混みで、すぐに手を繋いでいて良かったと思う羽目になった。一体これだけの人間がどこから湧いてくるんだろう。日頃はどこかに隠れてたりして、お祭りの時だけふわふわと現れるんだろうか。そんなことを思いたくなるような人いきれ。
「うちじゃあ、ラムネ飲みたい」
救いなのは、今一人ではないことぐらいだった。しがない男子学生がカップルに囲まれて一人。そんなのは想像するだけで泣けてくる。一緒に手を繋いで歩ける相手がいることは幸いだった。
「はいはい」
リンゴ飴を食べきった莉恵に、次はラムネを買ってやる。ついでに自分の分も買って一気にあおった。そして当然のようにむせた。かっこつけても様にならないのが悲しい。
――昨日はポンタだったんだけどな。
同じようにしゅわしゅわとラムネは喉を通りすぎていった。ビー玉のカラカラという音と一緒に。
「どした?」
「なんでもないです。大丈夫」
おれが飲み終わった横で、莉恵はラムネの瓶と悪戦苦闘していた。どうやら上手く開けられないらしい。
「ほれ、ちょっと貸して」
「ちゃんと、自分で開けれ――」
まだ自分で開けると言い張る莉恵の手から、ラムネの瓶を抜き取った。ビー玉をポンと押して、噴き出してきそうなところを後は掌で押さえる。要は圧力の問題。
「こうするとこぼれないで開けれてよろしい」
「あ、ありがとございます」
悔しいのか、莉恵は一気にラムネを傾けて、そしてやっぱりむせていた。その姿が何となく滑稽で、おれは笑った。「そんなに笑わんでもええやん」とむくれた莉恵の耳元が赤く染まっていた。今日初めてこの子のペースを崩せた瞬間だった。
カランコロンと下駄を鳴らす莉恵と、何をするともなしに夏祭りを歩いた。手を繋いでは、離して、またどちらともなく繋いで。
おれはその後焼きそばとイカ焼きを買い込んだが、莉恵はもう何も欲しいと言わなかった。金魚すくいにも水風船にも首を振るばかり。口数も少なくなって、おれと目が合うと笑うのだが、少し目を離すとどこか遠くを見ていた。おればっかりはしゃいで、何だか馬鹿みたいだった。
おれに手を引かれるばかりだった莉恵が、ふと足を止めた。
「……欲しい?」
立ち止まったのは射的の前で、もこもこしたぬいぐるみ達のボタンの瞳が、微動だにせずおれたちを見ていた。どうも最近の女の子は誰もかれもこういうのがお好きらしい。
「おれ割とこういうの好きでさ、」
「いいんです」
莉恵はまた俯いて首を振る。かんざしの飾りが音を立てて揺れた。
「ぬいぐるみは昨日、莉緒がもらったから。うちはいいんです」
そう言いながら、莉恵はちっとも「いい」わけがない顔をしていた。多分莉恵は三人の中で一番賢いしそつがないんだろう。その分、何というか面倒くさい。欲しくないものなら簡単に欲しいと言って見せるくせに、本当に欲しいものは欲しいと言えない。
「じゃあ、こうしよう」
おれは違う露店の一つから、目当てのものを見つけて指さした。夏の風物詩とも言うべきそれ。
「君にだけなにもないのは不公平だろ?」
出来るだけおどけて言ったつもりだったのに、莉恵は少し泣きそうになって。それでも何とかこらえて笑った。
「じゃあ、火点けるよ」
おれは買ったばかりの線香花火に、ライターで火を点けた。神社の境内の隅。喧騒から少し離れて石段に座り込んだ。ぱちぱちと線香花火が音を立てて燃える。まあるく切り取られていく、ぼやっとした夜の闇。
「なんでライターなんか持ってたんです? 煙草でも吸うんですか?」
「吸う時もあるし、吸わない時もある」
「銘柄、なんです?」
「ハッピージャンキー」
「ええな。うちも吸ってみよかな」
「おいこら」
「冗談ですやん。本気にせんといてください」
にこにこと笑いながら、莉恵も花火に火をつける。
「あのさ」
「なんです?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんでもどうぞ。隆一さんにやったら、なんでも答えてあげます」
「春島莉衣について、聞きたいんだけど」
やけに明るく話していた莉恵がその一言でぴたりと黙った。凄まじく空気を読んだ線香花火がぽとりと落ちる。いい加減にしてくれよ。仕方なくおれは次の花火に火を点ける。
「……いつ、気付きました?」
花火が莉恵の顔を赤く、黄色く、照らしていた。長いまつげの影が、頬に落ちる。
「最初に気づいたのは、リュックのペンギンのキーホルダー。ああ、眼鏡が伊達なのも気にはなったけど」
あの時外した莉乃の眼鏡には度が入っていなかった。
「決め手はなんやったの?」
尋問のように、莉恵が言う。観念して、おれは返した。
「……ラムネが、開けられなかったからかな」
随分前だが、同じようにあいつに開けてやったことがあった。
「なんや、うちのせいやったんや。莉乃と莉緒がヘマせんかったら絶対バレへんと思ってたのにな」
どこか分かっていたように莉恵は笑っていた。世の中には泣いている顔よりも辛そうに見える笑顔というものがある。莉恵のもその類の笑顔だった。
「莉衣は、その、どこ?」
どこというのは間違いかもしれない。だって彼女は“ここ”にいるのだから。
追い打ちを掛けるとは分かっていた。それでも、訊かずにはいられなかった。
「それは、今は、教えられません」
線香花火がまた落ちる。「あーあー。消えちゃった」と莉恵は立ち上がって、おれから顔を背けた。
「……だからこんなんやめよ言うたのに。うちらが虚しくなるだけやって」
独り言とも語りかけとも言えないような小ささの声が、お祭りの騒ぎに紛れて消えていく。
「こんなん?」
「なんでもないんです。花火、やっぱりきれいやわ」
消えてしまった花火を持って、莉恵は夜空を仰いだ。街中だから明るすぎて星なんか見えない。何もない真っ黒の空を覗きこむように。
そして意を決したように、おれに尋ねた。
「うちも一つ訊いてもいいです?」
「スリーサイズ以外なら、どうぞ」
たとえ訊かれても測ったことないから、ウエストぐらいしかわからないが。
すうっと、息を吸って、真っ直ぐにおれの方を見つめて、莉恵は言った。
「今日までで誰が一番可愛かったです?」
はぐらかししたり出来ないことは明らかだった。莉恵の顔はこの間の美香子ちゃんの顔に、よく似ていた。莉乃よりも、莉緒よりも。迷うべき味噌汁は今おれの前にはない。けれどどう答えれば正解なのかは分からなかった。
こんな時、蔵良ならなんて答えるのだろうと思った。少女漫画の世界のお約束はなんなのだろう。イタリア紳士はなんて答える? 現実世界の冴えない大学生にはついぞ解けない難題だ。
「……莉恵が、君が、一番可愛かったよ」
「うそつき」
おれが言い終わるのが早いか、条件反射のように莉恵はそう吐き捨てた。彼女の目は泣いたりしていなかった。あくまで冷静に莉恵は続けた。
「他の子が聞いたら何て言いました、隆一さん。莉乃が聞いても、莉緒が聞いても、うちが聞いても、同じように答えたんちゃう?」
突き付けられた質問におれは答えることが出来なかった。けれど同じように莉恵自身も追い詰められている気がした。莉恵はおれを追い込んで同じように自分を追い込んでいるように思えた。
「やさしいことはええことやけど、誰にでもやさしくするのはやさしさちゃうよ」
そう言って、最初と同じように莉恵はぺこりと頭を下げた。首を傾げて、にっこり微笑む。テープを巻き戻すように。流れた時間を、なかったことにするように。
「うち、嫌な子やね。ごめんなさい。今日は楽しかったです、ありがとう」
そのまま下駄を鳴らして莉恵は駆けて行ってしまった。
彼女は優しくすることをおれに許してくれなかった。撫でられることをよしとしなかった猫。最後の最後まで、涙を見せてはくれなかった。
莉緒が言いたかったのはきっと、そういうことだったのだ。
やり切れなくって残りの花火に火を点けたけれど、余計に虚しくなるだけだった。諦めて、ポケットを探って煙草を取り出す。おれをちっとも幸せにはしてくれないであろう、ハッピージャンキー。火を点けたら、白い煙がするすると、天に向かって伸びていった。
おれには、しぼんだ朝顔をもう一度咲かせることは出来なかった。
■ ■ ■
――可愛いかわいいハイドランジア。あなたの心を揺らすのはだあれ? あなたの心を乱すのはだあれ?
恋はいつが始まりでいつが終わりなんだろう。
開始のチャイムがなければ終わりのホイッスルもない。そうなるともう、ただ理由が消えてしまった感情にしがみついているだけの気もしてくる。賞味期限切れの片思い。だけど、わたしには恋の続け方もやめ方も分からなかった。
初恋といって間違いないと思う。物心ついた時にはもう、わたしは隆兄が好きだった。
三つ上というのは残酷だ。わたしが中学生の時には隆兄は高校生で、やっと高校生になれたと思ったら、隆兄はもう大学生。彼女になりたいなんて大それたことじゃない。せめて一緒の学校に通いたいというささやかな願い。そんなものも、神様は叶えてくれなかった。
たから神様に頼る代わりに彼女に頼った。友達の間で当たると評判の魔女、クロノス時風。なんでも由緒正しい魔術師の一族の末裔で、ひいおじいさんのそのまたひいおじいさんは、とある王国の王女様の呪いを解いたとかいう、ファンタジーみたいな噂まである。
怪しげなドアを一人で開けた自分の勇気をあっぱれ、と褒めてあげたい。
「いらっしゃい、あら、今日は随分と可愛いお客様ね」
目が離せなくなるほど、艶っぽくクロノス時風は笑った。これを大人の女の魅力って言うんだろうか。誘惑されちゃいそう。促されるがままに、彼女の向かいの椅子に座る。
「イケメンの彼氏の作り方、とかだったらすぐに教えちゃうわよ。まずはね、挽肉を三百グラム買ってくるでしょう? そしてそれに塩・コショウ・ナツメグを少々加えてよく捏ねる。つなぎには卵と、そうね、牛乳に浸したパン粉を加えましょう」
何を言っているのだ。この人は。ま、まさか――。
「そ、その、いくら彼氏が欲しいからって、人体練成はよくないと思いますっ」
意気揚々と続けるクロノス時風の言葉を、私は必死で遮った。「あらあら」と彼女は肩をすくめて笑う。
「別に彼氏を『造る』わけじゃないのよ。まったく、とんだおちゃめさんね、今日の依頼人は」
そう言って、軽くわたしの額を小突いた。
「そうやって作ったハンバーグを、意中のカレに食べさせればいいのよ。野郎はまず胃袋から掴みなさい。あいつらは本能で生きている単細胞なんだから」
なるほど、手料理ってわけですか。「もちろんちゃんと美味しくできれば、の話しだけどね」とウインクするクロノス時風。わたしは頭の中のメモ帳にめもめもと書き込んだ。『男を落とすにはまず、手料理』っと。
切れ長の目をもっと細めて、彼女はわたしを見る。吸いこまれそうな、海のような青い瞳。最初は半信半疑だったけれど、この目を見ていたら、この人が魔女と呼ばれるのも何となく分かる気がしてくる。
「それで、あなたは何が知りたいの? 可愛いかわいい、ハイドランジア」
ハイドランジアってなんのことなんだろう。クロノス時風の言葉は全部、呪文みたいだ。
「わたしは、わたしじゃない、わたしになりたいんです」
クロノス時風は言う。
「それはどういうことかしら? どうやってもあなたはあなたでしかないわ」
そうなのだ。何をしても、わたしはわたしでしかない。
「知ってます、だから、あなたに頼みに来たんです」
「でもそれは結構難しいわよ」
わたしが知りたいのは、「妹みたいな存在」から抜け出す方法。
わたしじゃないわたしに、なる方法。
告白もできなかった、弱いわたしから、変わりたかった。
「いいわ、手は尽くしましょう。あなたの名前を訊いてもいいかしら?」
「莉衣。春島莉衣です」