殺意無き殺意
人の罪は他行為可能性と故意性だ。他にとれうる選択肢が無かったことと、当人に行為の意思が無かったことの二つが揃えばそれは罪とは言えない。
アンは無意識のうちに殺意を有していた。それは決して本人が自覚することのできない殺意だ。
セツナは調伏師であると同時に卓越した心理学者でもある。さきほどやってのけたのは心理テストのようなもので、とうてい他の人間には到達しえない知識を有するセツナにとって、人の無意識下の心理状態を推察することは簡単なことである。
セツナの頬をたらりと汗が伝った。
予想はしていたが、覚悟が足りていなかった。セツナはこの真実を当人に伝えられずにいる。
「セツナ。どうだったんですか?」
優しいクレーヌの声。だが問い詰めるように鋭い。セツナは逡巡する。殺意を持ったアンは決して真犯人では無いのだ。
「……いいや。分かんなかった」
「目」
すぐそばにクレーヌの目があった。目があっている。決して逃れられない。
「見て下さい」
「……いや」
頬を強靭に掴まれ、セツナは無理やりクレーヌと至近距離から見つめ合わされる。深淵のようなクレーヌの深い青がセツナの全てを見通そうとしている。
魔剣に隠し事は、できない。
「……ふうん」
「やめて、クレーヌ。やめろ」
突然頬を解放されたセツナは、咄嗟にクレーヌに掴みかかろうとした。それをクレーヌは軽やかに躱し、一言。
「アング。セツナを押さえておいて下さい」
「ああ」
「っ! アング、放せ!」
すかさずアングがセツナを羽交い絞めにする。セツナはがむしゃらにふりほどこうとするが、魔剣の腕力に勝てるはずが無かった。
その隙に、茫然としたままのアンの前にクレーヌが立っていた。
「アンさん、落ち着いて聞いて下さいね。今回の事件はアンさんが原因です」
「な……」
「そのことを理解するためには、あなたのお母さまについて……正しく理解しなければならない」
まず、とクレーヌは穏やかに語り始める。
「この世に理性を持った野良の魔剣などというものは存在できません。私達は皆殺戮の本能に突き動かされる存在です。調伏され、人の心を持つことによって初めて私やあなたのお母さまのように自由に考え、話すことができます。ですが魔剣ウェルナコールは調伏されていないと言う。これはおかしな話です」
「つまり、魔剣ウェルナコールは不完全な調伏状態にあるのです。半調伏と言うべきか。おそらくは、調伏時に何か失敗があったのでしょう。ウェルナコールも、また彼女の調伏師にも自覚が無いまま調伏が為されてしまった」
「そして、彼女の調伏師は、アンさん。あなたなのです」
アンの顔に動揺が走ったのが見て取れた。セツナはすでに口を塞がれていて、何も口を挟めない。
「調伏とは心の同調。心無き魔剣に調伏師が自らの心を分け合うことで成り立つ奇跡です。つまり、お互いの心理状態が直接作用します」
少し難しい話だったかもしれない、とクレーヌは内心自責した。だが分かってもらわなければならない。
「今朝の事件は、あなたの無意識下の殺意が半調伏関係にあるウェルナコールへと伝わり、結果蛮行に至らせたというわけです」
「わ、私はそんなこと……!」
「被害者の男性について、アンさんも仰っていたように、反対派の人間だと伺っています」
アンは今にも泣きだしそうに目を潤ませている。だがクレーヌは容赦せず、一方的に話し続ける。
「アンさんが自覚しているのかは知りませんが、あなたが彼に対して良い思いを抱いてこなかったのは事実でしょう。日々の中生じた小さな不満や、目障りだという思いが、アンさんの中に殺意無き殺意を生み出した。それの存在は、セツナが先ほど推し量った通りです」
自分が余計な知識を持っていなかったなら。セツナは悔しく思う。これは人を救うために教えられた技術だから。
「アング。もういいですよ」
アングが手を放した瞬間、セツナは素早く動いた。クレーヌの胸倉を掴んで壁に叩きつける。
「ふざけるなよ……!」
「ふざけているのはどちらでしょうか。私たちの疑いを晴らすには本当の犯人を呈示するのが一番効率的だと思いますが」
本当の犯人、という言葉にアンがびくりと肩を震わせた。セツナはさらに義憤の炎を募らせる。
「その子に意識的な殺意は無かった。目に見えず、心にも見えないものを存在すると定義できるはずが無い……!」
「あなたには見えたのでしょう? ならばそれは明確に存在する殺意です」
それに、とクレーヌは付け加える。こういう時の彼女は非情で、セツナの言葉は何も意味を為しえない。
「よしんばレイフォンから私たちを排除できたとして、反対派の人間はまだいます。次の犠牲者が出れば今度こそウェルナコールが疑われ殺されるだけです。それならば、早くに真実を伝えたほうがアンさんのためにもなる」
セツナは何も言えないまま、手に力を込めていた。
「あなたは甘すぎる。慈悲の心は勝手ですが、そんな心意気で大義が果たせられるとでも? ……ティファが泣いていますよ」
瞬間、クレーヌは張り詰める殺意を察知した。この至近距離なら、目を閉じても分かる。心で繋がっている唯一の主の憤怒が今にもクレーヌを刺し殺そうとしているのを感じ取る。あまりにも巨大なそれはクレーヌの中にも流れ込んできて、思わずセツナの首をちぎりとりたい欲求に駆られる。
「もういいです!」
張り詰める空気を割ったのはアンだった。
「私のことは、もういいですから……。すみません、セツナさん」
ひどく物悲しい顔をしていた。粛々と自分の罪を受け入れる、罪人の最期の表情だったのだ。年端もいかぬ少女が。セツナはふらりとクレーヌから離れた。
「私に、殺したいなんていう感情があって、それがお母さまを動かしたなんて……信じられません。だけど、お母さまが人を、それもいつも守っている街の人を殺すなんて、もっと信じられません。だから、私は、私の罪だけを信じます」
「え……?」
アンは涙を乱暴に拭い、決心したように強い瞳でセツナを見た。
「全部話します。お母さまもセツナさんたちも悪くなかった。私が罪を償うことで解決するなら……」
「だめだ! アンちゃんは何も悪くない!」
「じゃあ誰が悪いんですか!」
華奢な体のどこにそんなパワーがあるのか、アンの力強い声は家の中を一気に静寂へと持っていった。
「……誰かが責任を取らなくちゃいけないんです。人が、集まって生きている限り」
「でも……そんな」
セツナは絶望の中、ちらりとクレーヌたちを見た。無論、二人共何も言わず、ただじっとこちらの様子を傍観している。セツナたちが追われている状況である以上、二人にアンの自首を止める理由は無い。
「……」
「じゃあ、行ってきますね」
そう言うとアンは足早に家を出て行ってしまった。セツナはその場に座り込んだ。どうすればよかったのか。きっとどうしようもなかった。
「セツナ」
クレーヌの優しい声が聞こえる。セツナの顔を覗き込むようにして、頬に柔らかい手が添えられた。
「あなたが為すべき大義とは?」
「……すべての魔剣を、滅ぼすこと」
「そうです」
クレーヌは満足気な笑顔で頷いた。
「ウェルナコールはこれからセツナが殺すのですから、アンさんもあの世で再会できるほうが良いでしょう」
クレーヌは本当に、心の底からそれが彼らの幸福になると思っている。人の生き死を軽視し過ぎている。
魔剣は、悪魔だ。