8 あっけない結婚初日①
よく晴れた晩春の日。
私は馬車一台で十分事足りる量の荷物と共に、ミュラー男爵邸を出発した。
幼少期からシーズンオフの時期に家族で過ごしていたこの屋敷とは、お別れ。私は王都にある、バルトの屋敷へ行く。
郊外の屋敷でお暮らしになっているバルトのご両親のもとには、既にご挨拶に伺っている。
バルトがそのまま年を取ったかのような見目の父親は「君がディートリンデさんか。よろしく」とにこやかに言ってくれて、たおやかな感じの母親には、「バルトをお願いね」と言われた。
子どもの頃のことを、バルトはご両親には言っていないそうだ。そっちの方が好都合だろうと、私たちは「大人になってから知り合い、バルトの方から惚れ込んでプロポーズを受けた」という設定にしていた。
バルトのご両親には、男爵領の田舎から伯爵領に移動する私の母のことをお願いしている。
「ディートリンデさんの母君なら」と伯爵夫妻は、私の母を快く受け入れてくれた。そうして男爵領にいる頃よりもずっと良質な環境を整えて、母がゆっくり過ごせるように手配してくださった。
本当に、お二人には感謝してもし足りないくらいだ。
だから私も金貨百枚の件は伏せておき、これからバルトの将来の邪魔にならないように暮らしていく決意を固めた。
そうして私は、バルトが一人で暮らす屋敷に到着した。
彼は去年昇格した際に、この屋敷を与えられたそうだ。
賑やかな王都の端にあるこの屋敷は、一人で暮らすにはちょっと広くて大家族で暮らすには狭い、夫婦で暮らすのにうってつけの家だった。
昼のうちに結婚宣誓書は提出しているので、私はもうバルトの妻――ディートリンデ・リューガーになっている。
二十二年間共に歩んだミュラーの名を捨てるのは、両親との思い出という点では寂しいけれど、叔父たちとお別れできると思うとせいせいする、なんともいえない気持ちになった。
「お待ちしておりました。旦那様、奥様」
馬車を降りてバルトの腕に掴まって玄関に向かうと、そこでは屋敷に仕える使用人たちが勢揃いしていた。
先頭にいる三十代前半くらいの男性を筆頭に、男性が三人、女性が五人並んでいる。彼らは屋敷住まいで他にも通いの使用人がいるはずだから、この規模の屋敷の使用人としては十分すぎるくらいだろう。
「わたくしは、リューガー伯爵家にお仕えするヘルベルトと申します。旦那様がご幼少のみぎりからお世話し申し上げており、旦那様がこちらのお屋敷を賜った際、執事として異動することになりました」
「ヘルベルトね、よろしく」
私が挨拶を返すと、ヘルベルトたちは揃ってお辞儀をした。
「旦那様が奥様を娶られると聞き、我々も期待半分不安半分でしたが……かように麗しい女人を奥方と仰げて、光栄でございます」
ヘルベルトは笑顔で言うけれど……ものすごく、背中が痒くなる。
今日の私は奥様生活初日なので気合いを入れて化粧もしているし、結婚前にバルトから贈られた豪華なドレスも着ている。
でも、十代後半の瑞々しい令嬢たちと並べられるはずもないし、そもそも見栄えのする容姿でないことは自分が一番よく分かっている。
それでもここで謙遜するとヘルベルトたちを困らせるだけなので、笑顔を心がけた。
「お褒めの言葉、ありがとう」
「皆、ディートリンデは疲れているから、すぐに夕食と風呂、寝室の準備をしてくれ」
「かしこまりました」
バルトの指示を受けて、皆はすぐに散っていった。
ヘルベルトだけはその場に残り、馬車に積まれた私の荷物を部屋に運んでくれる。
「……リンデ、こっちに」
小振りながらも品があって清潔な感じのする屋敷の内装に見とれていると、バルトに声を掛けられた。
彼に続いて廊下を歩き、小さめの応接間に入った。
男爵邸の応接間は、父が生きていた頃は質素な感じだったけれど叔父のものになってからは私にはちょっと理解ができない趣味の内装になっていた。
一方この応接間はどことなく父が存命の頃の実家の内装を思わせる雰囲気で、ほんの少しだけ切ない気持ちになった。
バルトは私と向かい合って座り、真面目な顔で切り出した。
「それじゃあ、これから夫婦として生活する上での注意事項を確認しよう」
……甘さもときめきもない話題だけど、契約結婚しているからには真摯な態度で取り組まないと。
私は姿勢を正し、頷いた。
「ええ、よろしく。……ちなみにヘルベルトたちは、私が金貨百枚で買われたことや契約結婚であることを知っている?」
「さすがに皆に伏せていると不都合が生じるから、この屋敷で暮らす使用人には教えている。金貨については……女性陣からは最初非難を食らったが、リンデを確実に手に入れるためだと説明すると納得してもらえた」
……それはよかったけれど、その言い方だったらちょっと勘違いされそうで不安だ。
ともあれ、ヘルベルトたちには事情が伝わっているのなら、私も動きやすい。
「私たちは、屋敷の外では仲睦まじい夫婦のふりをする。両者とも相手にとって不都合が生じるような振る舞いはせず、お互いの恋愛や仕事の自由は妨げない、ということでいいわね?」
結婚前に二人で決めたことを復唱すると、バルトは頷いた。
「ああ。……といっても俺は日中騎士団で仕事をしているし、いざとなったらここには帰らずにあちらにある自室で寝ることもある。前にも言ったが、君に俺の妻らしい振る舞いを頼むのは社交の場だけだ。屋敷のことは基本的にヘルベルトたちがしてくれるから、君は気を張らずにゆっくり過ごせばいい」
「……そのことだけど。私、自由にしてもいいと言われても手持ちぶさたになってしまうのよ」
今後揉める前にと、私はバルトに申し出た。
私はこれまで、いずれクリストフを支える男爵夫人になる日のために勉強して、事務関連の能力も磨いてきた。
計算や手紙書き、帳簿の確認はもちろん、ひたすら切って貼って折って……みたいな地道な繰り返し作業も案外好きだし、いざとなったら馬に乗ってどこかに出掛けることもできる。
だから自由にしてもいいというのはありがたい反面、暇で暇でどうしようもなくなるのが目に見えていた。




