44 黒幕②
バルタザールはため息をつき、エルナに背を向けた。
「きっと、それはないだろう」
「バルタザール様……!」
「ディートリンデは、おまえのことを恨むとか以前に、関心も持たないだろう。……事実結婚してから、ディートリンデからおまえの名を聞いたことはほとんどない。あるとしても、おまえからいかがわしい話を聞かされたとか、そういうときくらいだったな」
「えっ……」
「……他人を妬み恨むのは仕方ないことだろうが、その感情を理由に悪事をはたらいていいわけではない。そのことをよく、覚えておけ」
「な、何なの!? 待って、バルタザール様! 私、そんなつもりではなくて――」
部屋を出て、バタンとドアを閉める。
ちょうど廊下には、顔面蒼白な男爵と騎士団の姿があった。
どうやら遅れて来た彼らから、男爵も事情を聞いたようだ。彼は真っ青な顔で、バルタザールを見上げている。
「バ、バルタザール殿……どうか、どうか、ディタを育てた親である私に免じて、減刑を――!」
「……おまえの娘は取り返しの付かないほどのイカレポンチだが、そうなるように育てたのはおまえの責任だろう」
バルタザールはでっぷり太った男爵を一瞥し、彼らに背を向けた。
「……おまえたちを裁くのは、国の司法だ。まあ、いくら身内といえど強姦未遂をした以上、生易しい刑では済まないだろう。……いざとなれば俺の実家であるリューガー伯爵家、そしておまえの娘にそそのかされたフレーリヒ子爵家からも何らかの知らせがあるだろう」
「そんな……」
「それに俺はおまえに、個人的な恨みもある。……七年前、ディートリンデに会いに来た俺に嘘をついたこと、覚えているか?」
「は? 七年前? ……一体何のことを――」
本気で何も分かっていない様子の男爵に、ほんの少しだけ緊張していたバルタザールはどっと脱力した。
「……ああ、そうだろうな。おまえにとっては記憶の片隅にも残らない、些細なことだったのだろう。……まあいい。後のことは司法に任せるだけだ」
「ひいっ!? お、お助けを! どうか、ディタのことを想って――」
「ディートリンデを搾取し、いいように使ってきた貴様らが妻の名を呼ぶな」
バルタザールは吐き捨てるように言うと、歩きだした。背後で男爵が頽れ、騎士が「立て!」と言っているのが聞こえるが、振り返らない。
後のことは専門の騎士団と司法がやってくれるはずだ。
階段を下りながら、バルタザールはふと、この件についてはほぼ無関係だろうが自分にとっての因縁の相手がもう一人いることを思い出した。
まあ、その男はよその人間なので、今は別の場所にいるかもしれないが――
「お、お待ちくださいクリストフ様!」
「騎士団が、クリストフ様にも事情聴取するため屋敷から出さないようにとおっしゃっていますので……」
「やかましい! 僕は関係ない! あんなやつらと一緒に捕まってたまるか!」
いた。
一階に下りた先の廊下で、メイド二人と若い男が言い合いをしていた。メイドたちは通用口を封鎖しており、そこに男が突っかかっている。
彼の名は……そう、クリストフ・トイファーだったか。
ディートリンデの元婚約者でありながらエルナに首っ丈になって、あっさりとディートリンデを捨てた男。
「ごきげんよう。何かお困り事かな?」
ぽん、とクリストフの肩に手を置いて陽気に声を掛けると、彼は怪訝そうに振り返った。
バルタザールとクリストフはこれが初対面なので、彼は妙ににこやかな顔をしている目の前の男が何者なのか分からないようだ。
「な、なんだおまえは!? 今、この屋敷は大変なことになっていて、おまえに構っている場合じゃないんだ!」
「これは、失礼。俺はバルタザール・リューガーという」
「……へ?」
「おまえには礼を言わねばならない。ディートリンデを捨ててくれたおかげで、俺は初恋の人だった彼女と結婚できた。どうも」
「ど、どういたしまして?」
「では、俺は帰る。ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう?」
何も分かっていない様子のクリストフに向かって手を振り、バルタザールは彼らに背を向けて歩きだした。
残念ながら、今のバルタザールはクリストフを締め上げるだけの十分な理由を持っていない。
本当は一発か二発か三発くらいは腹に拳をぶち込みたかったが、下手すれば一般人への暴力罪でバルタザールが捕まってしまう。
よって今回は挨拶と礼だけに留めておいたが……クリストフがこの件に関して完全に逃げることはできないだろう。
バルタザールの推測だが、男爵はともかくエルナはクリストフを一緒に巻き込むのではないだろうか。
息を吐くように責任転嫁をする彼女のことだから、クリストフにも罪を着せるだろうし……案外、彼にも言い逃れできない余罪があるかもしれない。
何にしても、後はその道のプロに任せるだけだ。
まずは、屋敷に戻り……妻と一緒に眠りたかった。




