(3)中種子-4
中種子町の市街地にあった銀行に車を停めた(他に車がなかったのでご容赦願いたい)。手近に見つかった店に入って、遅い昼食を食べた。悪くなかったという他には特筆することもない。そこから、近くの商店街のようなところを歩いた。言い切らないのは、あまりにも静かだったからだ。車や人も、あまり通らなかった。しかしたぶんそういう場所なのだろうとは思った。
そこで、ある店に入った。どうやらそれはおもちゃ屋だったらしい。子供向けの玩具やプラモデルが陳列されていて、ケースの中にはテレビゲームも並んでいた。そんな店に入る僕は、いったいどんな客だと思われたのやら。
こういうものをこんな風に売る店がまだこの島にはあるんだなあ、とか思いながらケースを眺めていたら、唖然とすることになった。そこには、三世代か四世代くらい前、つまり二十年かそれ以上前に発売されたに違いないゲームソフトの箱が、経年によって色あせてはいたけれど明らかに新品の状態で置かれていた。
タイムスリップでもしてしまったのかと思った。よく見れば店のあちこちに、あまりにも年季の入った、ほこりをかぶったような箱が置かれていた。いつの時代に活躍していたヒーローなのかと思うような玩具、古くさい絵、日に焼けたプラモデルの箱……往時の流行の切れ端が、そこら中に転がっていた。
この場所では時間が流れるのではなく、まるで沈殿し、積み重なっているかのようだった。時間の流れに取り残されたというか、川底の石のようにその流れを身に受けながらも泰然としているような、そんな場所。
そこで生きるというのはいったいどんなことなのか、想像もできなかった。時間の流れ方というか、時間そのものの次元としてのあり方が、僕が生きてきた環境とは、全然違うように思えた。西之表でも同じようなことを感じたけれど、ここではさらにそれが際立って見えた。
中種子で印象に残ったものをもう一つ。町を歩いていて、『大型貨物輸送のおしらせ』と書かれた白い立て看板が、いくつも目に入った。約一週間後の深夜に、『上記の輸送の為、下記の通り大型トレーラーが通行します』とのことだった。その下には簡略化された地図が描かれ、島の西端にある港から東端までがその経路になると示されていた。何を運ぶのかは書かれていなかったけれど、あえて書かなくても地元の人には分かっているだろうし、僕にも簡単に想像がついた。
真夜中(生活道路を通るので、普通真夜中に運ばれる)に、島の端から端まで、大きな荷物を時速四キロ(五キロではないそうだ)で運ぶのだろう。叡智の結晶を、人工物の極致を。南種子の巨大な引き戸つきの箱のような建物まで、そんな風にゆっくりと。信号機や標識はよけられ、多くの人が見守る中を。大部分はアルミ合金製の筒に違いない。そしてそれを一つに組み上げ、彼方へと打ち上げる。
そんなものが目の前を通っていくのが、この町では何ヶ月かごとに起きる日常の出来事なのだ。いったいそれはどんな感覚を与えるものなのだろう。ただ『すごい』とつぶやいて、感嘆するしかないのだろうか? 僕の場合は、きっとそうだろう。もしも目の前にしたら、ただその大きさに、日常の中に現れた存在感に、人々の思いに。
とてつもない複雑さ、精巧さを持った『大型貨物』。巨人の肩の上に立って、ようやくそこにまで手が届く。知恵の、技術の、何よりも時間の結晶。
文明がたどってきた歴史の終端に僕は立っているわけだけれど、確かにこういうところに来てしまうと、流れ去る時間というイメージは何か的を外しているような気がするし、時間の存在を信じないという態度にも一理ある。そこでは空間的距離も時間的隔たりも問題ではなく、全てが連続していて、認識の糸によって編まれた一つの有機的な織物の中に、紡がれてきた物語があるに違いなかった。
僕はその中にいた。その上に立っていた。夕焼けの色に染まり始め、朝よりもずっと雲の多くなった空の下で。生まれてから、いやその前からずっと、遥か昔から紡がれてきた僕に連なる糸が、ここではぷっつりと切れて、生きてきた、その上を歩いてきたものとは全く別の織物の上にいた。そんな気がした。
本当の意味で、僕はこの瞬間、孤独であるように思った。別世界に来たとかようだとかそんな程度のことではなく、僕は初めて、あらゆる現実の中にあるつながりの糸から断たれ、全く異なる物語の中に編み込まれているように思えた。