黄泉比良坂に行ってきた話
有給を取り、島根の親戚に会いに出掛けていた、その帰り道での話だ。
元々、観光も予定していたため、ゆっくりと昼ご飯を食べた後、車で出雲大社まで向かうことにした。
島根県内の移動だが、親戚宅からは意外に距離があり、到着した時には、既に18時を超えていた。
けれど夏の時期だと、まだ十分に明るい。
しかし、出雲大社は東京ドームをいくつか並べられる程度には広い。
時間をかけ見て回った事もあり、本殿に参る頃には、かなり日が落ちてしまっていた。
出雲大社は普通の神社とは違い礼拝の作法が異なる。普通の神社では二礼二拍手一礼が一般的だが、ここでは二礼四拍手一礼らしい。
有給前に会社で聞いた話だ。
特別に信心深い訳でもないが、この場にあっては従うのが道理だろう。
平日であるためか、人はまばらにしかいない。とはいえ、本気で柏手を打つのも気恥ずかしく、遠慮がちにしてしまった。しかし一応、形は整えられたはずだ。
勿論、賽銭も忘れてはいない。残念ながら持ち合わせに五円玉はなく、二十円でお茶を濁す事になった。
ちなみに十円だと「とおえん(遠縁)」となり、オススメできないのだとか。
などとお金のことばかりに気を取られ、全くお願い事をしていなかったことに気が付く。
神様に挨拶しただけという、実に敬虔な信徒になってしまった。
せっかくなので社務所でお守りを買い、鞄に仕舞い込んだ。
また、数年ぶりのおみくじも引いてみた。
おみくじについては、碌でもない結果だった事だけは記録しておく。
その後、ホテルへ向かう道中、夕暮れの海岸という、独り身にとっての死地に足を踏み入れ、メンタル強化を行い、その日の観光を終えた。
翌日、前日のセルフ精神疲労の影響もあり、観光は切り上げることにした。後は会社の同僚から依頼のあったお土産を買い、そのまま帰宅するだけだった。
そう予定し車を運転していると、右手に「黄泉比良坂」の大きな案内看板の文字が目に入った。
全く予定はしていなかったのだが、わざわざ島根まできて神様への挨拶だけ、というのも味気ない気がしていた。
別に、アレを訪ねてしまっても構わないだろう。
案内通りに車を走らせると、段々、不安になるくらいの細道に入っていく。
道自体は間違ってはいないのだろうが、そもそも車で入って良い場所なのだろうか。
切り返しなど到底できない道幅だ。これで突き当たりになってしまったらと考えると、予定変更を後悔しそうになった。
そうやって恐る恐る進んでいくと、ありがたいことに、狭い駐車スペースが見つかった。
黄泉比良坂の案内看板もあり、目的地にたどり着いた事が分かった。
車から降り、ため池沿いの小道を歩いてすぐ、黄泉比良坂の鳥居、その奥に黄泉への道を塞ぐ岩が見える。
鳥居をくぐった瞬間、寒気がした、ような気がした。その場の雰囲気に気圧されたのであって、恐怖とは別の感覚だ。
出雲大社と違い、参るというより、ただの見学だ。
見学とはいえ、周辺を覆う鬱蒼とした木々、それ以上に見るものもなく、短い道を引き返した。
しかし、車に戻ろうとして、別の案内看板が立っていることに気がついた。
目立つ場所にあるから、来るときは見落としていたのだろう。
古びた縦看板の文字は少し掠れていたが、読むことに差し支えはなかった。
この先に塞の神(邪なモノの侵入を防ぐ神様)がおり、また、ここから先が伊賦夜坂という小道への入り口だという。
後で調べたのだが、伊賦夜坂=黄泉比良坂であり、要するに、この先こそが本当の黄泉比良坂。
先程見たのは、分かりやすいイミテーションということらしい。
踏み入れてみると、今まで距離を感じていたセミの音を肌で感じた。山の端ではなく、中に入り込んでしまったのだ。
先程までの夏の空気は一変し、冷たく乾いてきた。入り組んだ登り坂であるのに、体は汗ばむ程度で済んでいる。
そのまま少し歩いていくと塞の神の存在に気がついた。
道祖神のように分かりやすいものではなく、小石がいくつも積み上げられているだけだ。塞の神というより、賽の河原を想像してしまう光景だ。
そして、その場所では丁度、道が三叉に別れている。
神話的に考えるならば、黄泉と現世高天原が分かれる場所で、塞の神が邪な何かを塞き止めている場所だ。
進む二手のうち、まずは登り道を選択する事にした。事前に調べていたわけではないので、その先に何が有るのかは分からなかったのだけれど。
結局、数分後に進入禁止の看板に出くわし、引き返す事になった。
地味な山登りのせいだろう。暑くはなかったのに、背中に汗が伝った。皮膚の表面をなぞる水の感覚に、一瞬ひやりとする。
そうやって気と体温を落としたまま、麓に向かい歩き続けていた。
そして、ある一瞬だった。
突然、耳に煩かったセミの音が途切れた。
代わりに、静寂が耳に当たる。
それは本当に一瞬の話だった。時間や場所の関係で、セミの音が途切れる事は十分にあり得る。
多くの人が経験する、不自然だけれど、ありふれた一瞬。
ただ、この場所でそれが起こるのは、あまりにもタイミングが悪い。
セミは先程とは調子を変えて、再び鳴き始めている。セミの種類が変わったのだろうか。高く、悲鳴のような鳴き声が聞こえる。
意識するまでもなく、足早に歩を進める。少しでもいいから、この場所から離れたかった。
けれど無意識に、足が止まる。
今、どれだけ歩いた?
まだ、分かれ道に着かないのだろうか。
いや、十分に歩いた。
どう考えてもおかしい。
中途半端に回した頭が、また別の違和感に気が付く。
道中にこんな景色はなかった。
階段の大きさが違う、高さが違う。土が掘り返された跡、やけに真っ直ぐと続く道。
ここはどこだ。
気がつくと、全身から汗が流れ落ちていた。風が、ざらりと通り過ぎ、体温を奪っていく。耳鳴りがしてきた。
やばい。
絶対にやばい。
何かがおかしい。
何もかもおかしい。
逃げたい。
だけど、どこに。
このまま、降りてしまっていいのだろうか。
降りたら、どうなる。
引き返そう。
違う。
引き返しても、振り返ってもいいのか。
僅かに残っていた冷静さが、頭にそうよぎらせた。
黄泉からの道中で、振り返る事は禁忌だ。
二度と帰って来られない。そう聞いたことがある。
だとしたら、もう、進むことも、戻ることも選べない。
耳鳴りが酷くなる。
目眩がしてくる。
立っていられない。
体から血の気が失われそうになったその瞬間だった。
震えとともに、何かの音が近づいてくる。
段々はっきりと聞こえてくる。
水の流れる、波の音だ。
こんなところで聞こえきてはいけない。
段々と増していくその音に、心臓が締め付けられる。
一体、これは何なんだ。
いや、分かりたくないが、もう正体は分かっている。
これは着信音だ。
確か、20年くらい前に一瞬だけ流行った自然音をテーマにしたアレだ。
安堵しかけるが、着信画面を見て、再び戦慄する。
画面に映っているのは、絶対に表示されてはいけない文字だ。
今日、この日にかかって来るはずがない番号。
出ることを躊躇ってしまうが、着信音は響き続ける。
このまま放っておくと、恐ろしいことになるのではないか。
そんな予感から、電話に出ざるをえなかった。
―――こっちに来るときは、お土産、忘れないでくださいね。
聞き覚えのある声だった。
こっち、とは何処の事だ。
どうして、その番号からかかってくるんだ。
そう問いかけると、取り返しがつかなくなるような気がした。
だから、突き放すように応える。
くだらん事でかけてこないでください、今、道に迷って大変なんです。
そう言って電話を切る。
会社の同僚だった。
今日は休日のはずだ。どうして、会社の番号からかかって来るのだ。本来、あり得てはいけないその出来事に、心が冷え切る。
休日出勤、そんな単語が頭をよぎるが、無理矢理に振り払う。
まさか、島根に来てまで呼び出しを食らう。そんなことがあってたまるか。
理不尽を防ぐため、スマホの電源を落とす。
旅先で充電が切れる。旅行あるあるだ。仕方がないことなのだ。そういうことにしよう。
しかし、そんな現実の恐ろしさを味わってしまえば、この状況は取るに足らない。というか何なら、黄泉旅行くらいさせてくれ。
とりあえず下まで降りてみようかと、そのまま更に数分、歩き続けた。
すると、アスファルトの道路が見える。
どうやら、黄泉とかいう救いのある場所ではなく、現世にある別の場所に出てきてしまったらしい。
この先、黄泉比良坂、という案内看板の矢印がこちらを向いている。
そのまま伊賦夜坂から抜け出してしまっても良かったのだけれど、車がなければ帰れない。
元の駐車場に戻るため、伊賦夜坂を引き返す。
数分歩くと、再び塞の神へと辿り着く事ができた。
どういう事かと考えるまでもなかった。
先程の三叉路というのが「人」の字型をしていたため、帰り道で見落としていただけだったのだ。
行きは一画目の終端から、二画目に折り返して進んでいた。
帰り道では、真っ直ぐ前だけ見ていたため、緩やかな合流地点の分岐に気が付けなかった。
周りを見回していれば良かったのだけど、スマホを見ながら歩いていたのだ。
それにしても、こういう場所にまで電波が届いてしまうと、風情その他、色々と失われてしまう気がする。
利便性は良いにせよ、少なくとも会社からの着信を弾く程度の配慮はお願いしたい。
そうして、無事に駐車場までたどり着いた後、お土産屋へ立ち寄り、自宅へと帰り着いた。会社へは行かなかった。
ちなみに、目眩や耳鳴りというのは、熱中症の前兆症状らしい。
いくら涼しいからといって、水も持たずに山歩きは危険なのだ。
あと、旅行先ではスマホの電源切っておいた方がいい。
そんな教訓にて、今回の旅行記を終える。
でも、実際に体験してみると割と怖かったです。