LLTH/DL//O//AD/2037/03/20/11/56//CA-01/BC/1185/05/22/05/07//EY
依頼を無視できるような雰囲気ではなかった。僕は彼女に見えない銃口で後頭部をつつかれていたのだ。
あれは彼女によって張り巡らされた罠だった。あの羅列を見た瞬間から無関係ではいられなかったのだ。
「それで、先生からの急な呼び出しは何だったの? また検診があったの?」
「ああ、そんなところだよ、玲華。朝早い時間からお昼までかかるなんてな。ええと、今何時……?」
玲華。僕と話す少女。僕の幼馴染だ。いや。正確に言うと、幼馴染らしい。
理由は言うまでもない。僕は記憶喪失だからだ。彼女との馴れ初めの瞬間、幼馴染としての日々が欠如している。
今更根掘り葉掘り彼女からその当時の事を聞くつもりはないが、その昔、僕らはとても仲が良かったらしい。何でも一緒に勉強を教えあったり、家族ぐるみで東京周辺に遊びに行ったり、彼女の出身地の夏祭りに参加したり、そんな事をしていたらしい。
一応、僕の父もその事実を認めていたので、そういう事なんだと理解している。そういう訳で、僕は記憶を失う前の僕、その延長線上の僕を演じている。慣れない内は躓くこともあったが、今では彼女は僕の良き語り手で、惜しみない表現を使うのならば、大親友だ。
「もう十二時近くだよ。正確には十一時五十六分。ほら、ね」
「え、ええと……相変わらず読みにくい時計だ。今時、携帯でわざわざアナログ時計だなんて」
「むー、古いものは良いものなんだよ。最近の若者には分かってもらえないなあ」
そういうお前は何歳なんだよ、という反論を飲み込む。玲華は筋金入りの懐古の守護者なのだ。
僕の眼前にルリカゼ社の次世代携帯型端末PHC、そのディスプレイが空中映写される。しかし、その次世代デバイスが表示してくれたのは古めかしいローマ数字、の浮かぶアナログ時計。
結局、彼女の映写した時刻が読めなかった僕も首元に取り付けられたPHCのスイッチに触れ、ディスプレイを映写させて時刻を確認する。始めからこうしていれば良かったのだが、しかし、これは止むを得ない作業だった。
「ああ、ごめんね。って、あれ、本当にもうこんな時間なのか……正午になるぞ」
「大久保先生も大変だね。公式的には市役所のお仕事もしているのに」
大久保というのは僕に見えない銃口を突き付けた冷酷なあの女だ。
僕の主治医で港元市の市長に君臨している女。僕の記憶が正しければ、大久保という主治医は僕の特異体質を長いところ気にかけ、年に十回以上もの検査を行ってくれた真面目で優しい科学者だったはずだ。
港元の市長としても有能なはずだ。市長の座をかけた選挙でも彼女は他の候補者に圧倒的な差で勝利している。市政の運営も順風満帆であるように思う。彼女の統治する港元市を見ればそんな事は明らかだ。面積的には小規模な一市でがあるが、今や東京以上に繁栄している世界規模の大都市だ。
しかし。
だが。
先生は僕の特異体質を利用し、過酷な任務を押し付けた。いや、押し付けというのは実に生温い言い方だ。脅迫とさえ言えよう。これを知ったら知らん顔できない、彼女は確かにそう言っていた。あれは明らかに脅迫だった。
今思えば、駅の中のカフェで彼女は僕ではないどこか、恐らくそこには誰かがいて、そいつと何かしらのやり取りをしていた気がする。僕が目で見て、はっきりと分かるように彼女は僕以外の誰かとコンタクトを取っていた。
わざとらしく。見せつけるように。僕の記憶に刻み込むように。
これは彼女が茶封筒の忌まわしい中身を僕の脳裏に焼き付けてきた方法と全く同じだ。僕の恐怖心と好奇心を煽り、そこに付け込む。忘却を許さず、記憶を強いる。またしても、全く同じ方法で僕は彼女の罠にハメられた。
彼女の真面目な一面は冷酷な一面でもあったのだ。表裏一体という言葉もある。僕をこうやって使うために、今まで僕の身体を調べ尽くしていたのだろう。
不思議なことに憤激は湧き上がらない。怒りよりも悲しさの波が押し寄せる。憎しみよりも虚しさの風が吹き荒れる。酷く失望して、目尻が熱くなる。落涙しまいと努めるので精一杯だ。
「確かに、随分と長い検診だったね。お疲れ様だよ、衛紀くん」
「ありがとう、玲華。一応はいつも通りの定期検査だったんだけどな、検査の待ち時間がいつもより遅くて。でも、先生が言うにはまた近いうちに急な呼び出しがあるかもしれん……。面倒の極みだよ」
「毎回検診があるのは大変かもね。私も衛紀くんと連絡取りにくくなっちゃうし。だけど、ちゃんと丁寧に検診してくれる大久保先生にはお礼を言った方がいいよ。本当に良い先生だね」
「そうだなあ。今度何かお茶菓子でも買ってあげたい。とは思ったが、金持ち相手へのお土産って一体何を選んだら良いんだかさっぱり分からないな」
検診なんて受けてない。近いうちに検診があるとも聞いていない。近いうちにあるのは僕の任務だ。
ましてや彼女は良い先生ですらないらしい。患者である僕を、その患部でもある体質を利用しようとしている。
僕の主治医で、港元市の市長をも務める大久保は例の調査を極秘のものであると釘を刺した。彼女がわざわざあんな似合わない私服を着て、カフェにやってきたのは本当に目立ちたくなかったからだと思われる。最初にお友達を連れて来ていないかと尋ねられたのにも合点がいく。
彼女の話した事件が極秘である事も頷く他ない。事の真偽は勿論不明だが、よしんばそれが事実であるのならば、集落が一つ壊滅しただけでも大事件だというのに、複数の集落が壊滅しているというのだ。集落の住人は全員死亡。正体不明の擦り傷を負わされて、たったそれだけの傷で抹殺されている。
しかも、しかもだ。住人の全員が、たった一人の漏れもなくその擦り傷で命を落としているというのだ。加えてその必殺の擦り傷を負わせたモノの正体さえ不明なのだ。襲撃者は単独なのか、複数なのか、殺人の方法も動機も、魔術が絡んでいるかも不明。そもそもの前提として、具体的な襲撃者が存在するのかさえ明らかになっていない。ウイルスや薬物、特殊な動物、住人の計画的な自殺である可能性さえもある。
何も分かっていない事、それだけが唯一分かる事件。
そんな危険で極秘の調査には誰も巻き込めない。先生はこれを知ったら知らん顔できないと僕を脅迫したのだ。
「私なら先生が、ほら、いつも買い込んでいるワインに合いそうな食べ物で、少し高価なものとかにするかな。先生が日常で愛好している物を知っているよ、それを考えて選んだよ、っていう気持ちが大事なんじゃないかな。どうかな、衛紀くん」
「答えになっていないぞ、玲華。そりゃあ大土地所有者のご令嬢の玲華様は『少し高価なもの』を選んで、買う事ができるかもしれないけど、こちとらバイト禁止の大貧民ですよ。だいたい、金持ちの先生は僕の買えるような高価なものなんて……」
「私はそんなお嬢様じゃないって……。だからね、衛紀くん。大事なのは衛紀くんが先生の好きなものを知っていて、それを考えて選んだという事実なんだよ。要は贈り物っていうのはそういう気持ちが大事なんだよ。分かったかな?」
気持ちが大事、そういう彼女は出来の悪い生徒を宥めるように僕に言い聞かせる。
大久保の気持ちを思う価値がある必要性なんかは言うまでもなく、玲華の良心に触れる事すら烏滸がましい。
去来する虚しさを本格的に心の隅に追いやり、僕は無理矢理にでも大久保への猛々しい怒りを見出そうとする。これで賢しい玲華が僕の身に起こった真実を知ったらどうなるか、と思う。これを知ったら知らん顔できない、大久保の言葉も思い出す。そうする事で、心を安定に保つ。支点が一方の皿に近寄りすぎてはいるが、天秤は釣り合うような。そんな不均衡な安定を生み出す。
「分かりましたよ、玲華お嬢様。考えておきますよ。そうだな、玲華を学寮まで送ってから、久しぶりにルリカゼ屋でぶらぶら何か探してみるか。あのデパートなら良さそうなも物が揃っているだろう」
「あ、ズルいよ、衛紀くん。私も衛紀くんと買い物に行きたいよ。今夜のお夕食もだし、お洋服も見たいし……」
「まったく、僕はすぐ帰っちゃうぞ。不出来な僕の春休みの宿題が家で一人帰りを待っているんだ」
「むー……分かりましたよ。お馬鹿な衛紀くんにはお勉強はちゃんとして欲しいし。あ、でもでも、分からなければいつでも質問を玲華センセーは待っていますからね。連絡してよね」
「ありがとう、玲華センセー。でも、暫くは自分一人で解いてみるよ。いつまでも聞いてばかりでは自分の為にはならないからね。じゃあ、また今度な」
頼りになる幼馴染だ。彼女を大久保の罠に、僕のせいで引き込むような事があってはならない。
意を決して立ち上がる。白いシーツが虚しく揺れる先にあるドアへ向かう。
彼女が何かを言いかけたが、僕は彼女に背を向け手を振る。そして放つ。
「ああ、それと玲華。今朝のニュース、箱根の火山ガスの件だよ。日帰り旅行が出来ないのは本当に残念だったよ」
青空が眩しければこのシーンも幾らか絵になったはずなのだが、生憎の曇天であった。いや、今は曇天こそがふさわしい時か。
そう、ここは港元市の病院の屋上だ。港元市立魔的体質専門病院という病院で、魔的な性質を帯びている身体を持つ者がやってくる市立病院だ。僕の不死の体質もここで普段診察してもらっている。
僕は検診があったという嘘に真実らしさを埋め込むように、今、大久保が市政の片手間で院長を務める病院の屋上で玲華と軽食を取っていた。ここにいれば普段の検診が終わった後であると彼女に言い訳ができる。大久保自身も検診があったと恐らく彼女に証言してくれるはずだ。先生も秘密を漏らしたくないだろう。
初めから、玲華には嘘を吐いていた。罪悪感がない訳でもない。
だが、これは彼女を守るためだ。溜息と共に、どこへともなく独り言を呟く。
「……僕は、嘘吐きだな」
ああ。彼女を守る為の嘘、だなんて言うのも嘘だ。
首元のPHCから、彼女のPHCの待機画面を眼前に表示する。何て事ない、ただのハッキングだ。
大久保は今回の件で国家の陰謀を否定しなかった。寧ろ、いずれ分かるとさえ誤魔化した程だ。
それならば話は簡単だ。この市の擁する日本政治中枢、そこへの繋がりを持つ玲華から疑うべきだ。
彼女だって逆の立場ならそう思うだろう。現日本国首相の娘、梶沢玲華も。