LLTH/DL//O//AD/2037/03/20/07/23//CA-01/BC/1185/05/22/05/07//EY
どうやら、僕は罠にかかってしまったらしい。僕の直感は捨てたものじゃない。
もっとも、その直感を活かしきれていればの話なのだが。
「そんな、何を言っているんですか。冗談は止めてくださいって……変死事件だなんて、洒落にならないですよ」
北港元市箱根町山岳集落住人変死事件。
茶封筒に入っていた書類に記されていた文字だ。何とも物騒な文字の羅列だ。
北港元市は神奈川県の南西部に位置し、相模湾や港元市に隣接する市だ。嘗ての小田原市を中心に東の二宮町、中井町、大井町、西の真鶴町や湯河原町、北の南足柄市、そして箱根町などの都市や小さな町々が合併して誕生した大きな市だ。僕が生まれる少し前に大合併は行われたそうだ。
大合併の末に誕生した北港元市は広大な面積を所有している。都市部と農村部、市街区と観光区、それから足柄山地や箱根火山、芦ノ湖や仙石原、相模湾などの大自然が融合している街だ。
だが、その一部は北港元市に隣接する大都市、港元市のベッドタウンとして機能するように新たに市街地が開発されたのだ。大合併自体がベッドタウン化の政策の一環とも言えるだろう。
ベッドタウンとして成長を始めた北港元市の旧市街区、嘗ての小田原市の区域に僕の家もある。そんなのどかな北港元市の市街区、そこからは少し離れてはいるが、それでも確かに市内の山奥で変死事件が発生したというのだ。
だけど、先生が言うような事態は発生していない。彼女の見方は少し大袈裟すぎるのだ。僕の知る事実とは食い違う点があまりに多い。
「馬鹿にしないでください、先生。今朝、ニュースで見ましたよ。住人数名の意識不明の話でしょう。住人の数名が箱根山の火山ガスで意識不明……ってニュースなら見ましたからね」
「ええ、そうね。火山ガスで住人が意識不明ね。私もここに来る途中の電車の中で見たわ。夜崎君の言うとおりよ」
「じゃあ、一体何の冗談ですか。そんな……変死事件だなんて」
さっきからしどろもどろとしてばかりだ。先生はさっきから狂言を飛ばしまくっている。一体全体、何が真実なのか判別できなくなってしまう。
僕は気が動転しながらも彼女を問いただす。本当に情けないが、店内音楽に掻き消される程の弱々しい声で。
「勿論、夜崎君の言うように、実際に火山ガスと思われる有害なガスがあの一帯で発生しているとは聞いているわよ。地元の小学校の体育館が緊急避難先になっているみたいね。私は北港元市の市長じゃないからそこまで知らないけど」
「いい加減にしてくださいよ。それは今朝、ニュースで見たばかりですよ。そんな事は百も承知だ。僕が聞きたいのはそれじゃなくて、事件の方です。嘘なんでしょう」
「火山ガスの発生とは別で山岳集落の変死事件はあったわよ。確かに、ね」
箱根にそびえ立つ箱根山は立派な活火山だ。数多の温泉を抱える地域の山なのだから当然である。
僕の生まれる数十年前に東北地方を中心に超大規模な地震が発生したらしい。その地震の余震というのが何度か続いた結果、関東地方の背中とも言える箱根山も何らかの影響を受けたらしい。当時も火山ガスの濃度が急速に上昇し、立ち入りが禁止にされた区域もあったそうだ。今回発生した事件もそれと同じだろう。
観光業で生きている箱根町としては、この花見のシーズンに火山ガス発生とは非常に痛手であろう。早速、火山ガスの濃度の高い地域、大涌谷などの標高の高い地域に立ち入り禁止が言い渡されたのだ。それが今朝、港元市行きの電車で見たニュースだ。
僕が火山ガスを吸った訳ではないが、間接的に言えば僕自身もその被害者である。僕は高校の春季休暇を利用して、花見と温泉を楽しむために幼馴染みと悪友の三人で日帰りの温泉旅行に行く予定があったのだ。でも、この一件で台無しだ。僕らが予約した宿は強羅にある。当然、立ち入り禁止区域内だ。
友人の二人は港元市の全寮制のエリート高校に通っているから、自由に遊べる機会はこの春季休暇くらいだったというのに。先ほどまで僕が苛立っていた原因の一つだ。
ただでさえ忌々しい火山ガスの発生。それを彼女はどういう訳か、住人の変死事件だと主張する。ニュースで発表されていた内容と大分毛色が違うようだ。彼女の見方が大袈裟だというのはこういう事である。
「真実はそうとは限らないのよ、夜崎君。だいたいね、箱根山の火山活動も、被害を受けた山岳集落の誕生も昨日今日の話じゃないでしょう。山奥の集落が火山ガスの濃度の高くなる区域に存在し続ける訳ないでしょう」
「じゃあ、どうしてあんなニュースが流れているんですか。救急車も救助ヘリも、設定された危険区域も、何より火山ガスで意識不明の住人たちも、みんなみんな嘘だと言うんですか?」
彼女は僕を笑い飛ばすように、そして、トーンの低い声で僕の考えをすげなく否定した。周囲に気を使っているのもあるのだろうが、真剣な声そのものだ。彼女の瞳は非常に冷たく、光がない。彼女は山岳集落の住人の変死事件説を篤く信仰しているようである。
だが、彼女が意味もなく冗談を言う人間ではないのは分かっている。ただの戯言とは考えにくい。何か裏があるのだろう。
それに彼女の言う話は実にもっともな話である。箱根山は古くから知られている活火山だ。そもそも火山としての始まりが紀元前とかいうレベルではない。数十万年前という話だ。そんな古からの活火山なのだから、急激に火山ガスが発生することはあっても、そのような危険区域に人々が住み続けるはずがない。寧ろ火山ガスの悪影響を最も受けるのはこの地域を詳しく知らない観光客らだ。地域の共同体が活火山としての箱根山を理解していないはずがない。僕よりも何千倍も詳しいはずだ。
だが、そうだと言うのならば、このニュースは一体なんだと言うのだ。誰かの悪ふざけではあるまい。本格的すぎる。既に警察やその他の関係者が危険区域を指定して、そこを厳重に封鎖している。朝のニュースで見た黄色と黒色のテープが風に揺られながらもピンと張っている映像を思い出す。
火山ガスの発生とそれによる住人の被害。危険区域への立ち入り禁止と本格的なメディア報道。もし一連の騒動が悪ふざけでないならば、その最も分かりやすい主犯が頭にちらつく。彼らならばそれを実行するだけの人材を持っているし、資金もあるし、知識もある。人々を操る権力だってある。警察が介入している時点で答えを自白しているも同然だ。
そうだ、この目の前の女にだってそれが出来る。彼女は権力者だ。
僕は息を吐き出すように彼女を問いただす。恐る恐る、丁寧に。
「お前らか? お前ら国家が何か隠そうとしているのか……?」
「さあて、どうかな。今、どうしても答えなくてはならない事なのかしら?」
彼女はとある市立病院の院長だが、本職は別にある。
院長などの仕事は片手間でしているに過ぎない。本職はここ、港元市の市長だ。
彼女は公の選挙で選出される一種の権力者なのだ。しかも、ただの市長ではない。彼女の君臨する港元市は五十万の住人を擁する大都市、政令指定都市だ。普通の市の長とは権能が桁違いだ。日本政府との繋がりがない訳がないだろう。
事実、現在の日本政府の長、内閣総理大臣の梶沢宗治の娘が港元市立の高校に在籍しているくらいだ。他にも日本を代表する財閥や大企業もその本拠地を置いている。今や日本が世界と競う魔術の中心地は港元市だ。
そうだ。現在、日本の中心地が港元市と言っても決して言い過ぎではないのだ。
つまり、彼女と日本政府が何か重大な事件を隠蔽するために、火山ガスなどの偽の情報を流しているのか?
僕の言葉を聞いた彼女は目を細め、視線だけはどこか遠くへ向ける。この場にはいない誰かに合図を送っているかのようだ。真剣で、冷徹で、怪しげな表情。明確な解答は言葉にしてはいない。
だが、彼女の視線は明らかに僕の質問に対する「ノー」以外の解答を示していた。店内の気温が下がったように感じる。ポップな店内放送や周囲の喧騒が遠のく。心臓の鼓動だけしか聞こえない。
「今、差し迫って必要な話は他にあるわ。それに、その答えはいずれ夜崎君にも分かることだわ」
「……否定も肯定もなし、か。これはマジでキナ臭い話になってきたな」
キナ臭い、だなんて言葉を口にする日が来るとは想像だにしていなかった。
港元市の長の彼女は適当な言葉で僕の質問を誤魔化した。否定も肯定もしない。当たらずとも遠からずなのだろう。可能であるのならば、いつもの嗜めるような口調で僕の戯言も諌めて欲しかった。彼女がスーツではなく、私服でカフェに顔を出しているから、そのような望みがあると期待した自分が愚かだった。
彼女は改めて極秘の書類の入った茶封筒を机に置き、人差し指で茶封筒を軽く叩く。受け取る気など消え失せていたが、有無を言わせぬ彼女の態度に動揺してそそくさと鞄にしまってしまう。寧ろ、この忌まわしい物体を視界に入れておきたくなかったのだ。彼女はそれを満足そうに眺めている。これも彼女の思い通りか。
しかし、彼女は僕の笑い飛ばされるべき陰謀論を肯定も否定もしないと同時に確かに言った。いずれ夜崎くんにも分かることである、と。今ではないにせよ、僕にも分かるというのはどういう意味なのだろうか……。
「じゃあ、差し迫った方のお話をしましょうか、夜崎君。三日前、北港元市の箱根町、芦ノ湖近辺にある複数の山岳集落の壊滅が衛星画像によって確認されたわ。その後、現地に向かわせた研究者らによると集落自体の被害状況は場所によって様々だけれども、被害を受けた全ての集落にある共通点が一つだけあると判明したわ」
「言わなくても分かっている。……住人が奇妙な死に方をしているんだろう」
差し迫った、彼女はそう前置きをして話し始める。僕の疑問を他所に彼女は重要事項を説明するが、そんなものの内容はとっくに分かりきっていた話だった。彼女が茶封筒の中にしまい込んで、見せつけてきた例の羅列が全てであった。あれだけの、たった一つの行動で事件の重大事項が僕に刷り込まれていた。
重大事項も何も、あの羅列だけが全てなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
忌まわしい漢字の羅列が脳内で明滅する。消え失せない。染み付いてしまっている。
北港元市。僕の住む街。のどかなありふれた日常。
箱根町の山岳集落。そこの住人が死んだ。一人残らずだ。
しかも、ただの死ではない。変死事件。疑問の噴出。懐疑の漏出。
原因不明。正体不明。彼らが死んだ理由も、原因も明かされていないのだ。
何も分かっていない。それだけが、唯一、分かる事。
北港元市箱根町山岳集落住人変死事件。
鍵のかかった記憶の奥底、闇の中から何かが自分を呼んでいる。そうだ。僕はあの山奥に集落が点在している事を知っている。ただの知識ではない。この目で、この脚で、この身体が経験として記憶していたはずだ。幼少期の僕はそこを確かに訪れたはずだ。
だが、そこにあったのは優しい思い出のはずだ。忌まわしい物の影など微塵もない。土と草の自然の香り。涼しい追い風。小さな笑いと人々の暖かさ。誰かの、小さな手のひら。今はそれしか思い出せない。だが、これは確かにあった事実だ。無関係ではいられない、そんな気がしてくる。
「ご明察。正確には、被害を受けた集落の住人のほぼ全員が致死量に満たないはずの擦り傷で死んでいるわ。夜崎君にはその事件の調査と解決をお願いしたいの。これは、不死身の君にしか頼めない任務だわ」
集落に住まう住人全員を死に至らしめる擦り傷。必殺の擦り傷。
火山ガス吹き荒れる荒涼とした山岳地帯を散歩した方がよっぽどマシな任務だった。
自分自身に不死身などという、実に馬鹿げた特異体質があるお陰で白羽の矢が立ってしまったのだった。