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時間通りに到着したつもりであったのだが、相手の方が一枚上手だったようだ。
「遅刻よ、遅刻。お友達は連れてきていないでしょうね?」
「お友達は連れてないですよ。にしても遅刻だなんて、たった二分遅れたくらいじゃないですか」
前言撤回。何が一枚上手だ。僕に落ち度はない。
長い黒髪を雑に束ねただけの彼女は熱々のブレンドコーヒーを既に飲み干していた。空のマグカップは既にテーブルの傍に追いやられている。彼女は何十分も前からドトールの一番奥の席を陣取っていただけだったのだ。
ドトールは北三ノ丸駅の中に入っている。モーニング帯のカフェは思ったよりは慌ただしいようだ。サラリーマンやOLさん、カップルやお年寄り、大きなトランクを置いてる子連れの家族旅行客、僕のように制服を着ている学生も利用し、そしてまた出て行く。大繁盛だ。
「随分と見慣れない格好をしてますね、先生。寝起きはそんな姿なんですか?」
「静かにして。良いからさっさと座ってちょうだい。今日は目立ちたくないの、分かる?」
彼女は普段からブラックのスーツにピカピカの白衣を着ている意味不明な職種の人間だが、今日に限ってはそうではない。赤縁の眼鏡、ホワイトのセーターとネイビーのダメージジーンズを身に纏っている。隣の席には彼女の着ていたキャメルのトレンチコートが掛かっている。髪も雑に束ねているだけだ。
口には出さなかったが、彼女が明らかに似合っていない服装をしていると僕の顔には書いてあったのだろう。彼女は僕を軽く睨みつけ、それから顎を一度だけ前に突き出す。どうやらさっさと座れということらしい。
朝早い呼び出しに気分の悪い僕はモーニングの乗ったトレーをやや乱暴に置く。それがまた彼女の癪に触ったようで、彼女はむすっとした顔をする。彼女は苛立ち混じりに黒のボールペンを左手で恐らく無意識的に、しかし器用に回していた。人は苛々すると何かに苛立ちをぶつけたくなると聞く。今の彼女の場合、その対象は黒のボールペンだったようだ。
僕も気分が良くない。まだ午前七時になったばかりだ。ドトールから電車で数駅先の港元市役所駅に文字通りの居城を構えるこの女はここに来るのに大して時間はかからないだろう。だが、この僕がここに来るために何時に家を出なければならなかったかをご存知であろうか。
赤縁眼鏡の奥からチクチクと刺してくる彼女の視線を無視してマーガリンの蓋を開け、ほかほかのトーストにマーガリンをムラなく塗りつける。出来立てのトーストは塗られた乳白色のマーガリンを透明な黄色に溶かし、ほのかに美味しそうな香りを鼻腔に齎す。カリカリとしたパンの表面を撫でるマーガリンナイフからも、トーストの奥のふんわりとした感覚が伝わってくる。
この美味しそうなトーストに免じて早朝の呼び出しも許してやろう。朝からこんなに贅沢な食事をするのは随分と久しぶりだ。僕が自宅で用意する朝食もトーストにチースを乗っけただけのものだが、どうしてここまで違いが出るのだろうか。
「君はもう十七歳でしょう、もっと食べなきゃダメよ。食べ盛りの高校生がトーストと紅茶だけなんて。ハムとかトマトとか挟んだサンドがあったでしょうに……」
「今年の五月で十七歳になるんです。だから、僕はまだ十六歳ですよ。それに、もう充分です。朝はあまり食べられない体質なので」
彼女はやはりむすっとはしていたが、僕のトレーの上にある物を見ると僅かに慌てたようにボールペンを机上に置いた。どうやら貧乏な高校生がトースト一枚しか食べられない一方で、大人の自分だけが「ハムとかトマトとか挟んだサンド」のモーニングセットを軽く平らげたことを少し恥じていたようである。虚しい反撃をしたものだ。
彼女の心配をよそにマーガリンの溶け出したほかほかのトーストを頬張る。ああ、これは良いものだ。軽く唸ってしまう。最初の歯ごたえはサクサクなのだが、そこを超えるとふんわりとした食感がやってくる。癖になる食感だ。とても美味しい。
僕はあっという間に一切れのトーストを食べきってしまった。だが、ドトールは実に親切なもので、分厚いトーストを半分に切って提供してくれている。つまり、美味しいトーストがもう一切れ残っているのだ。もう一度あの味を楽しめるのだ、これは親切であると言わざるを得ない。
とは言うものの、既にほかほかのトーストとそれに溶けたマーガリンの美味しさに舌が満足してしまっている。もう満腹な気分なのだ。僕の満足そうな様子を見て彼女は少し引き気味だ。ずり落ちた眼鏡を直し、軽く咳払いを始めた。どうやら、本題に入りたいようだ。
「まあいいわ、奢る気はないし。どうせ死なないんでしょう。だから……今回の事は君に頼むんだし」
「大人気ないですね。僕だってお腹が減ったら普通に倒れますからね? 朝はトーストで充分ですけど」
彼女が言うのは僕の体質の事だ。彼女は周りの客に気を配ってやや小さな声で、トーンを落として喋る。今回、彼女が慣れない服装でやって来て、何十分も前から店の一番奥の席を取っていたのはそういう理由らしい。他の人に聞かれると困る話題なのだろう。僕の体質の事なら無理もない判断だ。
そうだ。僕は彼女の言う通り、確かに死なない。とは言え、そういう体質を持っていると聞いているだけだ。自分では自分の体質を試したことがない。言うまでもないだろう、試したいとさえ思わない。もしそれがただの嘘で、本当に死んでしまったらどうするんだい。愚か者の極みだ。
だけど、多くの人類が夢見るような不死身という訳ではないのは確かだ。あくまでも「死なない」というだけの話らしい。怪我をすれば血も流れるし、下手をすれば骨も折れる。身体を動かせば疲れるし、夜になれば眠くなる。病気になれば寝込むし、治りが早いかと言えばそんな事もない。勿論、空腹でも倒れるだろう。ただ、死なないというだけだ。
僕は視線を下に向けて改めて自分の身体に意識を向ける。自分ではその体質による恩恵を嬉しいものと思ったことはないし、そこまで便利なものであると感じたこともない。自分の体質を試したこともないのは先に言った通りだ。言うまでもなく、事故や事件に巻き込まれてその体質の片鱗を垣間見た、なんて経験もない。
僕に不死の体質があると診断したのも目の前に座っているこの女だ。僕自身は何も自分の体質なんて知らないし、全く必要のない体質だとさえ思っている。もしかしたら、全部嘘なんじゃないかとさえ思う時もある。
しかし、僕の主治医はそうは思っていないようだ。彼女は僕の体質に何らかの有用性を感じていて、それを利用しようとしている。彼女の眼を見れば一目瞭然だった。彼女の眼光がいつにも増して鋭く、何より妖しい。非人間的な目つきだ。未来でも見ようとしているようだ。
何だろうか、微かに嫌な予感がしてきた。普段の定期検査とは明らかに雰囲気が違う。
そもそも普段の定期検査ならばこんな場所で僕を呼び出す必要などない。
「必要な事はここに書いてあるから、まずはこれを受け取ってちょうだい。話はそれからよ」
「何なんですか、先生。ジェームズ・ボンドの上司のつもりですか……」
彼女は周りを少し確認し、隣の席に置いてあるホワイトピンクの革製の鞄からA5用紙の入るくらいの一般的な茶封筒をテーブルの上に置いた。茶封筒の表面には何も書かれておらず、当然だが中身が透けて見えることはない。だが、封は最初からされていないようだ。
この中身を見てはならないと本能は告げるが、それにも増して好奇心が鎌首をもたげる。僕はそれを恐る恐る手に取ってみるが、軽い。茶封筒の中には数枚程度の書類しか入っていないようだ。素早く茶封筒の裏面を確認するが、やはり何も書かれていない。
表面からは何も情報を得られなかったという不満が僅かにでも存在したのだろうか。好奇心という獣に突き動かされた僕はその中身を一心不乱に取り出そうとする。だが、それより先に彼女は右手で僕の手をぱしりと軽くはたいた。行儀の悪い子供を叱るような仕草だ。
傍目から見れば彼女は軽く僕の手を軽く払っただけだが、緊張していた僕は酷く狼狽した。心臓が一際大きく鼓動し、思わず手に持っていた茶封筒をテーブルの上に落としてしまう。彼女の手の異常な冷たさに驚いたのだ。その衝撃で茶封筒の中身、数枚の書類が少しだけ外に飛び出た。
彼女はそれを慌てず、目を伏せ、微笑みながらゆっくりと茶封筒にしまう。ゆっくり、ゆっくりと。
まるで中身を見たがっていたせっかちな僕に、その中身を見せつけるように。
好奇心という蛇に餌を与えるように。
「こらこら、受け取ってちょうだいと言っただけよ。中を見て良いなんて言った覚えはないわ」
そうは言いながらも、彼女は明らかに見せつけるように紙を茶封筒にしまう。
もはや見逃しようもない。その紙に書かれた文字を。禍々しい羅列を。
それを脳が理解するために小声で呟く。必死に、絞り出すように。
「山岳集落、住人、変死、事件……」
「ああそれと、中身を見たからにはもう知らん顔できないからね、夜崎君」
重くのしかかるように僕の名が告げられる。穏やかなモーニングの時間は終わりだ。
紅茶はとっくに冷めきっていた。