心臓の鳥籠
近親愛もの書いてみたかったです。
表現などは、カフカの「狩人グラフス」や「火夫」などから拝借しました。
春のある日。この日は日曜日だった。桟橋の上で子供達が魚や貝等を探していた。町の平和像の石段に腰を下ろして、2人の男がチェスをしてた。郵便の配達員が自輪車を止め、殴り書きされた住所の解読を急いでいた。ネッカル川を走る小船が音もなく、滑るように桟橋に流れ込んできた。青いセーラー服の船乗りが降りてきて、ロープをボラードに結びつけている。後に続いて、銀のボタンの紳士服を身に付けた青年が1人ステッキをつき、大きなトランクを握り締めながら降り立った。桟橋上では誰も注意を払わなかった。ロープをいじくる船乗りにさえ近づいてくる者はいない。子供達も興味なし、と言った具合でお互い捕まえた貝や小石を見せ合っていた。キャペリンを深々と被った少女が船から降りてきた。青年と少女は船乗りに一礼すると、町の噴水近くのオペラモーヴ色っぽい屋敷を見つめ、黒のオーク材を使用した重々しい門に入っていった。
屋敷の扉を開けると50人はいるであろう使用人達が長い廊下の両側にずらりと並び、一斉にお辞儀した。シャンデリアが煌々と光り、今は使われていない蝋燭台には埃一つ被っていない。使用人の1人が近づき、トランクを預ろうとしたが青年はそれを断り、何かを言いかけた使用人にも、後にしてくれ。と、右の階段を登って少女と共に自室へ入っていった。自室に入るとトランクを置き、青年はベッドに腰掛け仰向けに頭を落とした。天井の絵画が青年を見下ろす。聖母が赤子に母乳を与えている絵だ。それを眺めて青年は口を赤子の様に開き、それを見た少女はクスクスと笑いながら言う。
「あら、兄さん。はしたない事。服にもシワができてしまいますよ。」
青年は天井を見ながら口をパクパクさせる。
「なに。今見ているのはお前だけさ。気にすることはないよ。それにこの服も、今日はもう着ないだろう。」
そう言うと青年はベッドの上で服を脱ぎ捨て、半裸になる。少女は顔を赤らめると失礼。と言いカーテンで仕切られた脱衣場にて普段着に着替える。青年はシャツに袖を通すとベランダに2羽の鳩が止まり、コツコツと窓を突いた。青年が瓶の中に入った穀粒を弧を描いて投げた。鳩は忙しく食べ終わると、町の噴水に向かって飛んで行ってしまった。青年はズボンのベルトを少しきつめに締めた。少女の方も普段着に着替え終わった。普通に戻った2人を部屋の明かりが優しく包み込んだ。青年が少女の髪に、少女は青年の頬を優しく撫でた。2人は椅子に腰掛け、留守中の手紙などを読んだ。半分ほど読み進めていると使用人が言伝を伝えに来た。
「ミア様。お疲れのところ申し訳ございません。ブルクハルト様がお呼びです。1回の応接室までお越し頂けますでしょうか。」
少女は無邪気にもはぁい。と返事をし、扉を開けて階段をパタパタと降りて行った。虫の知らせと言うものだろうか。青年は何か良からぬ胸のざわめきを感じ取り、鋭い焦燥感を突きつけられた。遂には居ても立っても居らず、慌てて少女の足音を追いかけた。あまりにも早く走るものだから、途中掃除中の使用人と衝突しかけた。
応接室につくと、そこにはダイニングテーブルに父ブルクハルトと母フィーネ。少女と見知らぬ男が座っていた。男は金色の羊の紋章が入った黒のジャケットにスラックス姿の正装でかしこまっていた。時折手入れの行き届いたヒゲを触ったり、髪の乱れなんかを気にするそぶりを見せた。
「おい、ミア。お前普段着に着替えてしまったのか。それにランベルト。お前を呼んだ覚えはないが、まあいい。お前にも関係のある話だ。席に座りなさい。」
青年は少女の隣のイスに腰掛けた。すると男は少しムッとした表情を見せたが、青年は気にも留めなかった。使用人の出してきた紅茶がいつもより濃く、応接室一杯に紅茶の匂いが充満していった。部屋の蝋燭台に火がつけられているのに気づいた。とにかく部屋に闇を入れたくない。そんな様子が伺えた。
「お前達は初めて会うな。こちらはシュヴァルツヴァルト卿のご子息、クルトさんだ。今年で26歳で私と同じく貿易会社を経営している。立派なお方だよ。」
父が改めてと、言う感じで青年と少女に説明した。
「初めまして。クルト=シュヴァルツヴァルトです。」
男は少女にきつく握手を交わす。やけにゴツゴツとした手で少女の手が丸々見えなくなった。
「今日はどのようなご用件で。クルト氏。」
青年が尋ねる。しかし、口を開いたのは父の方だった。
「今回、クルトさんが来て下さったのは、ミア。お前の見合いのためだ。」
少女はその言葉に大変驚き、目を丸くして固まった。
「お前は今年で成人を迎えるだろう。成人となればもう十分な大人だ。そこで私が、お前の結婚相手を探してきたんだ。」
父に続き、男が少女の手を握りしめたまま喋る。
「そういう事です。あなたには前々から何の連絡もせず最近になって急な話をしてしまい、申し訳ございません。こちらも身を粉にして働いていて、今日しか予定が空いていないものでしたから。しかし、今日の事のお手紙をお出ししたのですが、読まれましたかな。」
少女は首を大げさに横に振り、男から手を抜き出した。男は思い出した事を明確に伝える様に少し大げさに言った。
「ああ、ノイブルクの修道院に行っていたのでしたな。それでは手紙は読めませんね。では、結構。今お話し致しましょう。」
男はベラベラと手紙に綴っていた内容を喋り出した。見合いを持ちかけたのは父の方からだとか。初めて写真を見た時どう思っただとか。結婚をしたとしたらどこに住むかだとか。青年にとっては夏にストーヴの石炭の備蓄を気にすること位にどうでもいい内容だった。青年にとって重要なのは少女が結婚するか否かだ。修道院から戻ってきたら突然、大切な妹が望んでもいない相手との見合いをさせられて、半ば強引に結婚させられるというのだ。青年にとって黙っておける訳がない。こんなふざけた男に大切な妹を渡してなるものかと青年は男の口説き文句に割って入った。
「発言中失礼しますクルト氏。あなたのお気持ちを私共は十分に理解いたしました。ええ、胸が痛くなる程に。だが、私共はミアの気持ちは理解していなくありませんか。今度は彼女の気持ちを---。」
青年の声を包丁で切る様に母が遮った。
「失礼ですよランベルト。こちらにきなさい。」
母はゆっくりと立ち上がると青年を制止させ、応接室から出るよう促した。使用人が扉を開けて待機をしている。後ろでは父が何やらへりくだっているのが見えた。
応接室の扉が閉まったのを確認すると、母は青年の左の頬を叩いた。
「何をしているのです。大切なミアの結婚相手に。今日のあなたはどうしたのですか。」
青年は叩かれた頬を撫った。
「ええ。母さん。失礼なのは十分承知の上です。ですが言わせて下さい。見ず知らずの男がいきなり私の大切な妹に結婚を申し立てて入る。本人の意も聞かずにだ。奴は鼻持ちならない男ですよ。私から見ましてもね。あの話は最後には結婚するに収束しますよ。ええ。しますとも。あなた方がそうさせます。そうすればめでたく我が家とシュヴァルツヴァルトのパイプが出来ますよ。でも、それではミアがあんまりでは無いじゃないですか。あの子を家名の道具にするだなんて、母さん。あなたの方がどうにかしていますよ。」
青年はいきり立っていた。だが、母がもう一度左の頬を叩くと、金槌を振り下ろした様に、それでも向こうに聞こえぬ様小さな声で青年に押し付けた。
「いいかいよくお聞き。お前が言ってるには子供のつまらない駄々だよ。お前まさか忘れた訳じゃないだろうね。今我が家名は存続の危機にある事を。ブルクハルトの弟。お前の叔父が、我々の家名を勝手に振りかざして、一方的に泥を塗ったじゃないか。おかげで今や、明日にでもブルクハルトの貿易が打ち切られてもいい様な状況なんだよ。その時にパイプがなかったら、お前はどうするっていうんだ。私達を路頭に迷わせる気かい。冗談はそこまでにしておくれ。」
母は青年を睨む目を緩めない。
「...いいかい。これだけは、母の私から言っておくよ。女は結婚して、家名を売る道具なんだ。お前とミアの中がいいのは私も十分知っているよ。でも、お前も大人なんだ。考え方を、切り替えなさい。」
母はスカートを整え直すと、使用人に青年を決して入れぬ様言いつけて、応接室に入っていった。青年は母の背中に、自己保身な奴らめ。と吐き捨た。扉が完全に締まり切るのを確認すると、応接室の扉に耳を当てようと近づいた。が、使用人はそれすらも許さなかった。
「扉に耳を当てるだけだ。中には入らない。」
「いいえ、フィーネ様の言いつけでございます。ご了承下さい。」
「母の言いつけは中に入れるな。これだけだ。扉に耳を当てさせるなとは言ってなかっただろう。さあ。そこをどくんだ。」
青年はやや強引に使用人を退かすと、扉にぴたりと張り付いた。使用人が引き剥がそうとするもまるで、コーカサスの岩のプロメテウスのごとく、硬く張り付いた。しかし、男のノイズしか聞こえず、詳細な内容まではわからなかった。そこで彼は、屋敷の表に飛び出した。急に扉から離れるものだから使用人が尻餅をついてしまった。屋敷の表に出ると彼は、東の中庭を目指した。ちょうどそこが応接室の壁と面しているのだ。だが、応接室の窓は厚いカーテンで締められており、わずかな隙間を探すものの、ワイン色しか彼の目には映らなかった。壁に耳を当ててみたり、何回かジャンプしたりして中の様子を伺うが、曖昧模糊。まさにこの言葉がぴたりと合う、そんな様子だった。陽が傾き始め、建物の影が彼を包み込んだ。空にはガンの親子が飛んでいた。彼は諦めて、部屋に戻っていった。噴水広場の子供達の声もいつの間にか噴水の音の中に吸い込まれていた。
少女が帰って来たのは夜遅くであった。泣きはらした様な赤い瞳で、力の抜けた様な疲れ切った腕で部屋の扉を開ける。開けた途端、青年が飛び出して来た。少女の肩を掴み、その柔らかい髪を強く抱きしめた。
「心配したぞ。話は、どうなった。辛かったな。」
何からいっていいのやら。彼の頭では整理がつかなかった。ひとまず、部屋の扉を閉めた。少女は青年の胸の中で啜り泣いた。
「私。私、嫌だといったのです。ですが、父も母も聞く耳を持たなくて。あの男も、私と強引にでも婚約をしたいそうで。それで私。恐くて。それから、それから...」
少女が1つ、2つと応接室での出来事を言う。その度に青年は怒りを覚えた。
「そして、最後には。最後には、婚約すると話が決まりました。私、その時も嫌だといったのです。でも、どうしてか、決まってしまいました。父も母も、一緒に暮らせば考えも変わるといっておりましたが、私はそうは思いません。思いたくもありません。男は今日のところは帰って行きました。2日後には、私は男のところに行かなければなりません。でも。そんなの、
私は、嫌です。」
少女がより一層強く泣いた。青年は少女を抱きしめる力を強くする。外は風が強くなって来た様で、窓がカタカタと揺れていた。するとその時、少女が「兄さん」と青年を呼んだ。と思うや否や、少女は青年の首を息が止まるほど強く抱きしめた。いきなりのことに青年がびっくりしていると、裸にしてくれ。と少女が頼んだ。実際には少女自身から裸になり、青年の服を脱がそうとした。
「何を。一体。」
青年が困惑する。少女は柳腰で雪膚な体を青年に寄せる。
「兄さんは私こと。嫌いですか。」
「そんなことは。ただ、驚いて。」
少女は誰にも渡さないと言う様に青年を強く強く抱きしめる。
「ああ、兄さん。私の兄さん。」
叫びながら見つめ、抱きすくめた。青年も少女を抱きしめ返す。少女は青年の胸に耳を当てた。続いて乳房を差し出し、心臓の音を聞いて欲しい。といった。青年が胸に耳を当てた。生きていた。確かにそこに「生」があった。不自由な骨と肉体の檻に閉じ込められていたが、それ確かに存在していた。少女はもう1度強く抱きしめる。この夜に2人の「生」が1つになった。優しい蝋燭の炎が2人を包み込んだ。不自由で歪な2人の愛には確かに優しさを孕んでいた。
扉が勢いよく開いた。そこには、鬼の形相で父ブルクハルトが立っていた。今にも噛みつきそうな声で2人に怒鳴った。
「お前達。何をしている。」
少女が小さく悲鳴をあげると、青年の影に抱きついた。青年も硬直していた。
「早く離れろ。事情を説明してもらおう。」
父が部屋の中にどんどん入ってくる。睨み殺しそうな目で2人を見つめていた。少女は強く青年の腕にしがみつき、震えていた。青年は少女を守りたい一心でとっさに引き出しにしまっていた短剣を取り出した。
「父さん。失礼。」
そう言うと、青年は父の腕を切りつけた。父が驚き、痛みで床に転がっている間に2人は部屋から飛び出した。長い廊下を、階段を、2人は駆け出し屋敷から飛び出した。屋敷を出る頃には、屋敷中の明かりが付き、使用人達が2人を追いかけていた。その後ろには、母も、遅れて父もいた。少女は上着を羽織っただけで、青年は普段着のズボンを器用に履いて出ただけであった。噴水を、平和像を通り越し、狭い路地を抜け、2人は走った。終いには何事かと住民が窓から顔をのぞかせていた。2人は町の外れの小高い丘まで来た。が、道はそこで終わっていた。丘の終わりは崖になっていてとても通れそうにない。後ろからは使用人達が、父が来ていた。青年は少女をきつく抱きしめると、接吻を交わした。少女は優しい顔で笑った。全てを許諾する様な笑顔だった。青年は不自由の中で許された様に感じた。父がいよいよと言うところまで来ていた。青年は少女のその心臓に短剣を突き刺した。少女から「生」が消える。不自由から解放されると同時に、この世への存在を否定される。青年は腕の中で力の抜けた少女からそれを抜く。その赤い「生」で染め上がった短剣を勢いよく振りかざすと町全体に響くよな声で叫んだ。歪な愛の精一杯の叫びだった。
「これが僕たちの愛の形だ!」
そう言うと青年は自分の心臓に短剣を突き刺した。不自由から解放される。それを抜くともう一度2人の「生」で染め上がった短剣を振りかざした。天に向かって振りかざした。最後の不自由に対する抵抗だった。自由に対する旅立ちでもあった。青年は力尽き、腕に抱いた少女を守る様に覆い被さって倒れた。その場の誰もが動けずにいた。
青年と少女は優しい顔でこの世から存在を否定されていた。