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大聖堂の奥にある祈りの間で両手を組み、女神像へ祈りを捧げるのは幼さが強く残った面立ちの少女。その静寂を破ったのは、慌ただしい足音と息を切らした声。
「失礼します、聖女様!」
大理石の床に両膝を折っていた聖女が立ち上がると、腰まで伸びた銀髪がさらりと揺れた。紫水晶に似た色の瞳が冷たく神官を見つめる。
「何事ですか?」
「お、王城に邪悪な気配が満ちております!」
「……前兆はなかったはずですが」
感情の乏しい声で答える聖女に、神官がまくしたてる。
「原因は不明ですが、妖気の渦が王城の上空に立ちこめておりまして。ともかく聖女様、皆に指示をお願い申し上げます!」
「では、結界の準備を。わたくしは外の様子を見てきます」
「かしこまりました」
言うや否や、神官は騒がしい足取りで出ていく。
聖女は女神像の腕に抱かれた錆びた剣を一瞥する。だが、すぐに踵を返して開け放たれたままの扉を抜けて回廊へ出る。風の唸り声に空を見上げると、黒いもやが広がっていた。
よどんだ空気を肌で感じ、眉間を険しくする。
けれど、考えを深める前に意識は中庭へと向けられる。草木がこすれながら近づく気配に身構えていると、ふと見知った顔と目が合う。
「よかった、ちゃんとたどり着けたのですね。途中、道に迷ってしまって」
軍服に身を包んだ少年は安堵のため息をこぼす。だが、その姿は痛々しいものだった。片足を引きずり、白い軍服はところどころに赤い模様がついていた。
「ひどい怪我ですね。すぐに治しますので、じっとしてください」
「いえ、俺よりも王子たちを助けてください」
「……何があったのですか?」
聖女は回廊の円柱に少年を横たえさせ、傷口に両手をかざす。古代語をつぶやくと、手のひらから治癒光が生まれ、みるみるうちに傷が治っていく。
それを無言で眺めていた少年は、常盤色の瞳を揺らして重い口を開く。
「異形の者が現れたかと思えば、城にいた者が次々と石像のようになってしまいました。聖女様、あれは一体?」
「……やはり、そうでしたか。城の地下には災厄が封じられていました。それが何らかの要因で解かれたのでしょう。災厄を外へ広めるわけにはいきません。ただちに城全体に結界をはります」
治療を終えた聖女は絹のローブの裾を翻し、大広間の扉を開く。集まっていた神官たちが一斉に振り返る。
「今回の結界は大がかりなものになります。わたくしの言葉に続き、詠唱するように」
「聖女様の仰せの通りに」
先ほどの神官が駆け寄り、大振りの杖を差し出す。杖の先端にはめられた紅水晶は、角度によって紫の炎が浮かびあがり、奇跡の術を授かった一族の長たる証しだ。
聖女はとん、と床を突く。重い音が大広間に響き渡り、神官はそれぞれの配置につく。
長い詠唱に合わせ、床に描かれた魔方陣が青白く光りだす。詠唱の区切りごとに杖が魔方陣に触れると、赤や黄色に変わっていく。
複数の声が重なりあい、地響きのような振動が部屋中に伝わる。
その震源地には高らかに詠唱を続ける聖女の姿があったが、集中力が途切れる気配はない。気が遠くなるほどの時間が過ぎ、やがて杖が大きく振り下ろされる。
その途端、魔方陣が空中に浮かびあがり、パッと四方に弾けた。大聖堂から伸びた光の柱は、王城を包みこむ光の障壁を形成していく。
神官たちは疲労が色濃くなっていたが、聖女は顔色ひとつ変えずに言う。
「このたび、古の災厄が再び現れました。国王陛下をはじめ、全員が石化されたとのこと。わたくしたちがなすべきは災厄を王城に閉じこめ、これ以上の犠牲者を出さないこと。これより先、交代で結界の重ねがけを行います。非常時につき、大聖堂から出ることを禁じます。よろしいですね?」
「承知つかまつりました」
「この場を頼みます」
それだけを言い残して、大広間を出る。視線をめぐらすが、回廊に休んでいたはずの少年の姿がない。だが急激なめまいで視界がくらみ、円柱にもたれかかる。
(彼を早く探さなければ……)
浅い呼吸を繰り返していた身を起こし、先代の言葉を思い返しながら歩き出す。
ある日、災厄は何の前触れもなく突然現れ、世界を混沌に陥れた。
時空の狭間から出てきた異世界の住人は天変地異を起こし、未曾有の災いをもたらした。だが時の王が睡蓮の剣をふるって災厄を鎮め、人の世は平和を取り戻した。
かの剣は大聖堂に保管され、今は女神像の手の中にある。しかし、古の聖剣は年月とともに錆び、災厄を打ち払うだけの力はもはやない。
(残った方法はひとつ。時の王が契約したとされる水神の力を借り、睡蓮の花が
変化した剣を手に入れること……それには彼の力が必要不可欠)
聖女は小さく息を吐き、両開きの扉を開く。静まり返った祈りの間には、女神像を呆然と見つめる少年がいた。彼はこちらに気がつくと、すぐに質問を投げかけた。
「先ほどは聞きそびれましたが、災厄とは何なのですか?」
「何百年か前、数多の人間の魂を喰らったとされる災いの象徴。すなわち、悪魔です」
その存在は禁忌とされ、無闇に口にすることは憚られてきた。けれども封印が解かれた今、秘密にしておく意味もない。
「それは空想の生き物……でしょう?」
「いいえ、悪魔は実在します。はるか昔から」
きっぱりと告げると、少年は黙り込んだ。言葉を反芻しているようだった。
「剣がまったく通じない相手に、勝機はあるのでしょうか」
「…………」
ふと、聖女の視線が少年の胸元に止まる。
「胸のところにまだ傷がありますね」
「……本当ですね。痛みはないから気づきませんでした」
傷はすべて癒えたはず。不思議に思って傷口に顔を寄せると、胸元には痣のようなものがあった。深紅の蝶を模した痣は、初めて見るものだった。
「呪いの一種かもしれません。見たところ石化している様子はありませんが、あなたには効かなかったのでしょうか」
聖女が首を傾げると、少年は表情を強張らせた。
「今は大丈夫そうですが、念のために注意してください。伝承通りであれば、石化の呪いを解く期限は十四日のはず。あまり猶予はありません。そして、悪魔を再び封印するには王家の血を引く者の力が必要です」
「……それは王家の遠縁にあたる俺のことですか。でも、どうすれば……」
「悪魔に対抗するには人外の力が必要不可欠。龍の泉に棲まうとされる水神と契約し、睡蓮の剣を手に入れるのです。浄化の力で呪いも解けるでしょう」
「それがあれば、王子たちは助かるのですね?」
すがるような視線に聖女は頷く。
「結界が破れたら災厄が世界中にはびこることになります。そうなる前に、なんとしても聖剣が必要です。龍の泉の場所は不明ですが、隣国の奥地に龍にまつわる種族の人里があるとか。まずは、そこから当たってみてもらえますか?」
少年はすっと片膝をつき、左の拳の上に右手を添える。国王の勅命を受ける際
の礼式だ。
常盤色の瞳は生気を戻し、力強い光を宿していた。
「俺が必ず見つけ出しますから、それまでどうか待っていてください」
「ええ。あなたに、女神のご加護がありますよう」
王城に漂う妖気を避けるまじないをかけ、隠し通路から見送った聖女は女神像に祈る。
彼が無事に戻りますように。
災厄が再び封じられますように。
王家の血が途絶えることなく、この国が存続しますように、と。