4-1
フラウディアは夢のような心地に包まれていた。
目を開けると、そこは深閑たる山中だった。
見渡す限りに広大に続く地平線。しかしながら、その景色は記憶のどことも一致しない。
(一体、ここはどこだ?)
その問いに答えるように、目の前に水の鏡が現れる。唐突な登場に目をむくが、もしこれが夢ならば疑問を募らせても無駄かと諦める。
ゆらゆらと揺れる水面に映しだされた風景には、覚えがあった。
泉の透き通った翠緑の色は、意識を失う直前まで見ていた湖と同じ色だった。
不思議な鏡は、水越しに過去の風景をフラウディアに見せていく。
霊獣として永遠の時を経てきた青龍は、ひとりの女と契りを交わした。
姿を人間に転じて人の世に肩入れし、水の加護を彼女へ分け与える。世界的な干ばつが広がった際には女の真珠の涙を指先ですくい、再び龍へと姿を変えた。
悲しい啼き声を合図に、晴天続きだった空が雨雲に覆われ、稲妻が雲をジグザグに引き裂く。そして龍は天空へと昇り、恵みの雨をもたらした。
乾ききった土壌が湿っていき、龍の住み処だった泉は湖になるほどの水が注がれる。大空を自在に飛翔する龍の姿に人々はひれ伏し、感謝を捧げた。
やがて龍神として崇められた龍は女と契約をしていた。ふたりの間にできた子が成長し、その末裔の血が絶える日までオルリアン王国を守護する存在になると。
女は引き換えに、龍の住み処への人間の不可侵を約束した。水の障壁で里への道を隠し、誰にも邪魔されない安寧の地を龍神へ差し出した。
契約の証に女が瑠璃色の鱗へ口づけると、呼応するように緋色へと変化した。
かくして青龍は緋龍となり、かの国は龍神による水の恩恵を約束された。長は古い約束を受け継ぎ、血を次の世代へと繋いで里を守ることを使命とした。
龍人族の生きてきた歴史を垣間見て、フラウディアはひとり納得する。
(そうか……これがオルリアン王国の『水の恩恵』の真実)
場面が転換し、先ほどまでいた湖が映しだされる。
(これは……私?)
自分と同じ風貌の幼い少女。両親に付き従い、とことこと歩いている。
父親の顔は覚えている。だけど、母親の顔は初めて見るような、懐かしいような面差しだった。それが自分の顔と似ていることに気づくと、急に親近感がわく。
だが、そんなひとときの平和の風景は脆くも崩れ去る。
両親は病に臥せった者の治療にあたっていた。
薬師として調合した粉薬を患者に呑ませる母親も同じ病にかかっていた。
にもかかわらず、皆を助けるために体を懸命に奮い立たせている。父親は細々とした雑用を手伝い、幼い自分は外で花を摘んでいた。
しかしながら里に充満していく病原菌が風に運ばれ、とうとう自分も倒れる。両親に抱き起こされ、自分の名を呼ぶ声に安心して瞼を閉じた。
母親はこのままだと一族が滅び、龍神との契約もなくなってしまう、と嘆いてふたりを里の外へ出すことを決める。父親は反対したが、最後には折れて娘を連れて里を出る。
ふたりを見送った母親はひたむきに看病を続けたが、その努力は実を結ばずに次々に命を落としていく。失意の淵に浸りそうになるのを振り払い、皆の亡がらを丁寧に埋葬していった。最後には自らの命の灯火が尽き果て、その場に力なく倒れた。そのかたわらで咲く赤い花だけが彼女の最期を見守っていた。
その場面を最後に、水鏡はただの水へと戻る。そうして空間に響くのは龍神の声。
「フラウディアよ。すべてを知った今、長として務めを果たすことを誓うか?」
静かに問いかける声に迷わずに頷き返す。
自分に流れる血の歴史と意志を受け継ぐこと。それが母親の願いだったのならば。
「龍人族の思いは確と受け取った。私は自分の役目を果たすと誓う」
強く言い切ると、真下から伸びてきた深紅の鎖が体に巻きつく。鎖の先端にあるのは鋭利な刃物。それはフラウディアの心臓を今にも突き刺すような角度で止まった。
「誓いを果たせないときは、その鎖がお前の命を奪うだろう」
途端、空間がぐにゃりと歪んだ。景色は山から海、空から地面と忙しなく移り変わり、やがて残った意識すらも溶かしていく。
そうして目を開けたとき、フラウディアは湖のほとりに倒れていた。
隣には同じく仰向けになったエルヴァルトの体があった。険しい眉間と苦しそうにうめく声に、フラウディアは彼の上体を起こして呼びかける。
「エルヴァルト! しっかりしろ!」
「うう……」
悪夢に心をとらわれたように頼りなく腕がさまよい、フラウディアは彼の手を握りしめる。それに安心したのか、荒かった息が徐々に収まっていく。
やがて震える瞼がゆっくりと持ちあがり、常盤色の瞳が瞬く。
「……あれ、フラウディアですか? 夢じゃなく?」
「ああ、夢じゃない。現実だ」
「そうですか。なら、これで試練は終わったんですね……。フラウディアは大丈夫だったんです? 俺とは違う内容だったんですよね?」
それが水の試練のことを指しているのは聞かずとも分かった。
「私は龍人族の始まりと、里に病が流行ったときの記憶を見せられた。おかげで失っていた記憶も取り戻せたが……正直、辛い過去を思い出すのは胸が苦しいな」
真情を吐露すると、すぐに頷く気配があった。エルヴァルトは目を伏せ、重い口を開く。
「俺の場合は、自分の心に棲まう闇を認めることが試練だったようです」
「闇?」
「ええ。古の災厄を呼び覚ましてしまった原因のひとつが俺なんです」
「――何だと?」
「あの日は、珍しく体調が優れていた国王と王妃様が謁見の間に見えられていました。そして商人が珍しい鉱石を献上したとき、異変が起きたのです。国王が七色に光る水晶に触れた途端、黒いもやが立ちこめて」
エルヴァルトは言葉を区切り、深刻な表情でうつむく。けれど言葉を待つフラウディアと目が合うと、ぽつぽつと語り出した。
「玉座から悪魔が現れて、俺に言ったんです。『愚かな人間のおかげで、面倒な封印を破る亀裂ができた。その水晶は封印を弱体化させ、悪魔の力を増幅させるものだ』と。その感謝と称して、俺以外の人間が目の前で石化に。……敵対した俺は負傷しただけでなく厄介な呪いを受けました。そしてひとりだけ、おめおめと逃げおおせて」
エルヴァルトは拳をきつく握りしめる。
「でも、その水晶を持ってきたのは商人だろう?」
「国王に献上する許可を与えたのは俺なんです。そして、俺に流れるシャルロイド王家の血が警告を発していたのに気づかず、血の楔で繋がれた国王に献上してしまった」
己の過ちに悔いているのか、彼の肩はわなわなと震えていた。
フラウディアはその肩を抱き寄せ、背中を優しく叩く。
「起こってしまったものは仕方ない。今は彼らを助けるのが先決だろう?」
「……はい」
「ところで、血の楔とは何だ?」
気になっていた単語を口にすると、エルヴァルトは少し距離を取ってから答えた。
「前に、シャルロイド王家の呪いについて話したのを覚えていますか?」
「ああ。代々国王は病弱で臥せっているという話か」
「そうです。龍神が教えてくれました。時の王は自らの血をもって悪魔を封印し、それは現代に引き継がれていると。代々国王は自らの意志ではなく、封印を保つために永続的に力を吸い取られ、そのせいで体力が著しく低下しているようです」
語る声は湖のように静謐さを帯びていたが、理解が追いつかなかった。
エルヴァルトは自嘲気味に言った。
「これが呪いの正体です。皮肉ですが、あながち間違った表現ではなかったようです」
「それは……何とかならないのか」
「聖女様も詳しくは知らないご様子でしたし、こればかりはどうにもできません」
彼の悲しげな瞳は、夕闇に包まれた湖へと向けられた。フラウディアもつられるようにして、そちらを見やる。
隣の国での異変が夢物語なのではと思うほどの平和な風景。そう思った直後、水面が激しく波打ち、水しぶきをまき散らして水中から何かが飛び出した。それは強風を体にまとわせ、夕焼けを翔る緋色の龍だった。
風は湖の周辺に立ちこめていた霧をみるみる退けていく。
空中を浮遊する龍神はフラウディアたちの前まで来て、ふと目をすがめた。
龍神が湖に向かってフッと息を吹きかけると、水面に円形の葉が出現する。深い切れこみのある葉の中央には固い蕾が身を縮めていた。
「これより契約に入る。エルヴァルト、汝の剣を差し出すがよい」
エルヴァルトは背中に背負っていた両手剣を鞘から抜く。剣はまるで意志が宿ったように手から抜け出し、ふわりふわりと宙を移動して睡蓮の上で静止した。
それを合図に蕾が膨らみ、ゆっくりと花を開かせていく。大きな黄色の雌しべを包むのは、中心にかけて色合いが淡くなった桃色の花弁。
水中に咲く花は優雅に咲き誇り、突如、空に向かって光の柱を放出させる。柱の中にあった剣とフラウディアの腰に差していた剣がちかちかと点滅した。
「何だ……?」
だが不思議な光は瞬く間に収束し、淡く散っていく。
唖然と見つめるエルヴァルトの手に招かれるように、剣は持ち主の元へと戻っていった。その様子を見届け、龍神が語る。
「龍の加護を得たそれは今より『睡蓮の剣』となった。試しに一振りしてみよ」
「……なっ!?」
言われた通りにエルヴァルトが剣を降ろした瞬間、湖の水が半分に裂けた。だが分かれた水の流れは、しばらくすると何事もなかったように湖に注がれて元に戻る。
唖然とするふたりに龍神はよどみなく告げる。
「睡蓮の剣は悪には浄化の作用があるが、本来は水を操る力だ。雨を降らすも湖の水を自在に操るも自由だ。根源たる悪魔を浄化すれば呪いも解けるだろう」
「それはもちろん、すごいことだと思うが……。もしや、普通に剣を扱えなくなったのではないか?」
「念じれば、今まで通りに剣としても使える」
「…………」
半信半疑といった顔のエルヴァルトに、フラウディアはそっと頷く。
瞼を閉じて集中した彼はしばらく動かず、やがて目を開けてから横に一閃。
今度は湖は静かさを保ったまま、草がはらりと散るだけだった。
「本当ですね。ちゃんと使えます」
「ひょっとして、私の剣も何かできるのか?」
「お前にかけたのはお守りのようなものだ。龍の加護を与えるのは百年に一度だけ。複数に与えられる力ではない」
フラウディアは途端にがくりと肩を落とす。
「しかし、どうしましょう。睡蓮の剣を手に入れたのはいいのですが、ここからシャルロイド王城までかなり距離がありますし……王子たちを助ける時間までとても間に合いそうにありません」
エルヴァルトは考えこむような仕草をしながら、ちらりと龍神を見やる。
何かを期待したような視線が向けられ、龍神は渋々頷いた。
「最後まで世話が焼ける契約者だ。早く背中に乗れ」
ふたりが龍の背にまたがると、大きな胴体は空に向かって昇りつめる。その間、フラウディアたちの体は垂直になり、振り下ろされないように龍の角にしがみついた。
間もなくして平衡感覚を取り戻し、おそるおそる目を開ける。
綿毛のように敷きつめられた雲の海が広がり、ひんやりとした空気が肌を包む。真横から沈んでいく橙色の太陽がやけに大きく感じられ、地上からの景色とは違う感覚に高揚感が増した。
龍神は時折、蛇行しながら悪魔の手に落ちた城に向けて突き進んでいく。
吹きすさぶ空の旅に少し慣れてきた頃、エルヴァルトが心配そうに尋ねてきた。
「高いところは平気ですか?」
「平気だ。……ただ」
「なんです。今更、遠慮は無用ですよ。心配事があれば今のうちに言ってください」
「強風が吹いているのに、王城の上空にある暗雲は留まっているように見える。これっておかしくないか?」
エルヴァルトは前方に視線を戻して頷く。
「魔族は太陽の光を嫌うのでしょう。あの雲自体、普通のものではないと思います」
「あの黒い雲、雷を伴っているような気がするのだが」
「そうですね。光っているのは雷光でしょう。それがどうかしましたか?」
「……う……」
口ごもったフラウディアは視線をさまよわせ、歯切れが悪く答える。
「雨雲はともかく雷雲となると……少し問題が」
「問題?」
「……あ、いや」
言葉を濁していると、それを見計らったように遠くで雷が落ちる音が響く。
「ぎゃ!」
「……フラウディア? ひょっとして」
「い、言うな。分かっている。この歳にもなってこんなの、おかしいと思われるのも仕方ない。だが一向に克服できないんだ!」
「いえ、責めているわけではないですよ。……雷が苦手なんですね?」
それは確認だった。観念したようにフラウディアは声を落とした。
「昔からこればかりは駄目なんだ。本当に自分が情けない……」
「大丈夫ですよ。誰しも苦手なものぐらいありますし。雷が鳴っている間は決してそばから離れませんから、安心してください」
そう言って、エルヴァルトは震える手をぎゅっと握りしめる。
フラウディアは力強く握る手に安心しつつも、なぜだか胸がざわついていた。彼の手はひんやりと冷たい。だけど、繋がれた手から伝わるのは彼の優しさだった。
王城へ近づくにつれ、無数の黒くうごめく影が見えてきて瞠目する。
「なんだ、あれ……っ」
「悪魔の手先でしょう。雑魚ですが、数が多いですね」
黒の集団が間近に迫ってきたところで、エルヴァルトは構えていた剣を振るった。
第一波は一振りで薙ぎ払われ、霧散した。その圧倒的な力にフラウディアは息を呑む。
「これが……浄化の力なのか」
「そのようですね」
エルヴァルトは硬い表情で自分の剣を見下ろす。
しかし感傷に浸る暇もなく、すぐに第二派の奇襲がやってきた。下級悪魔の断末魔を聞き流しながら、エルヴァルトは次々に悪魔を浄化していく。
その攻撃の波がやっと落ち着いてきた頃、沈黙を守っていた龍神が口を開いた。
「その力は契約者の命が尽きるまで剣に宿る」
「……ということは、俺が死ねば意味がなくなると?」
「そういうことだ。それからフラウディア、龍人族の長を継いだ者として一族の使命をゆめゆめ忘れるでないぞ」
「分かっている」
一族の末裔であり、最期の生き残り。
もしフラウディアが命を落とせば、これまで受け継がれてきた血はそこで途絶える。
そのときを境にオルリアン王国の『水の恩恵』はなくなる。龍神と交わした契約は効力をなくし、遠くない未来、干ばつに怯える日が来るかもしれない。
この血を未来へと繋ぎ、先祖から続く契約を果たすことが長の使命。
自分に託された運命の重さを噛み締めながら、フラウディアは緊褌一番の決意で眼前に迫った王城を見据えた。