3-4
「……うっ」
胸にズキリと痛みが襲い、とっさに手をやる。
けれど、何かに引っ張られたように腕があげらない。何気ない動作すらおぼつかないことに、寝ぼけていた意識が一気に冴えた。
ぱちりと両目を開き、周囲を見渡す。酒樽やワインが置かれた棚、何かの木箱が無造作に重ねて置かれている。埃っぽい場所はとても快適とは言いがたい。
明かりは階上からもれてくる光のみで、どこかの地下倉庫だろうかと推測する。
「やあ、お嬢さん。お目覚めかい?」
びくりと振り返ると、同じく手首を縛られた老年の男がいた。夜目がきいてくると、燕尾服を着た白髪の男の姿が浮かびあがる。
どうやら敵ではないと悟り、警戒を解く。
「失礼だが、あなたは?」
「私はマシェルクス侯爵という」
「マシェルクス?」
聞き覚えある地名に、フラウディアは貴族制度を思い出す。
(爵位は確か、身分や領地などで違うのだったな……)
国王の次に身分が高いのは公爵。王家ゆかりの者や大貴族に与えられる爵位だ。貴族は公爵をはじめ、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士と位が順位付けされている。人によっては複数の爵位を持っていることもあるという。
「いただいている爵位のひとつでね、治めている領地や土地の名前だよ。マシェルクス侯爵にしてアンフォート伯爵、ユンウェル。それが私の正式な名乗りの文句だ。とはいえ、位の高い侯爵の名で呼ばれることが多いがね」
侯爵は気さくな調子で答える。
その様子にフラウディアは眉をひそめた。
「そんな立派な貴族がなぜ、こんなところで捕まっているんだ?」
「恥ずかしい話、護衛もつけずに出歩いてたところを襲われてしまった。自業自得と言われればそれまでだ。どうやら身代金目的の誘拐のようだね。連中の話を聞くところ、君は巻き込まれただけのようだが」
言われて、記憶が途切れる前のことを思い起こす。
「……もしや、侯爵もあのパーティーに呼ばれていたのか?」
「ああ、やはりそうか。関係のない君にまで迷惑をかけてしまい、申し訳なく思う」
「いや、私のことはいい。それより、どうやってここから抜け出るかだな」
フラウディアは手首の自由を縛っているロープを力任せに引きちぎる。それから侯爵の体をぐるぐるに巻きつけたロープに手をかけた。
「……すまない、思ったより頑丈に巻かれているせいで、刃物でないと難しいようだ」
「そうか、ならば仕方ない。ところで……どこかで見た顔だと思っていたが、ひょっとして『桜花の舞姫』ではないかね?」
ジッと見つめながら問われ、フラウディアは面食らう。
「……確かに、その通りだが。もしや、一座を知っているのか?」
怪訝な顔で尋ね返すと、侯爵は目を細めた。
「座長とは古い付き合いでね。君たちのことは、いろいろと聞いているよ。公演も何度か観に行っている」
「そうなのか。縁とは不思議なものだな。とりあえず、武器になりそうなものが何かあればいいのだが」
フラウディアは部屋の中を物色するが、これといって使えそうなものは見当たらなかった。大の男を担いで行くにも戦闘になったら不利になるし、かといって縛られたままの彼を置いていくわけにもいかない。
どうしたものかと考え込んでいると、侯爵が小声でつぶやく。
「誰か来るようだ」
耳を澄ますと、確かに足音がする。
フラウディアは壁を背にして息を潜め、そのときを待った。
(こうなったら、実力行使あるのみ……!)
足取りは焦らすようにゆっくりと近づき、倉庫の入り口で止まる。
先手必勝だ。フラウディアは身を乗り出し、拳を前へ突きだす。ところが、相手は後ろへ下がって攻撃をかわした。再び距離を詰めようとすると、先に向こうが折れた。
「……つくづく男気があふれる方ですね。思わず尊敬したいほどです」
ため息まじりの声音に、殺気立っていたフラウディアは動きを止めた。
声の主をまじまじと見つめる。暗がりの中に浮かびあがった顔は見知ったものだった。
「どうしてここに!? いや、それよりもその衣装は一体?」
靴まで覆い隠すほどの漆黒のワンピース、純白のエプロンに付け袖、そして頭にちょこんと乗せられた白い帽子。その姿は貴族の邸で働くメイドのそれだった。
「衣装に関しては触れないでください。火急の事態につき、やむを得なかったのです」
「火急の事態?」
「あなたとマシェルクス侯爵の誘拐ですよ。とにかく、早く脱出しましょう」
エルヴァルトは短剣で侯爵を縛っていたロープの拘束を解く。自由を取り戻し、侯爵はきつく縛られた痕が残った箇所をしばし見つめた。
「動けますか?」
「ああ。問題ない」
「では急ぎ……」
言葉はそこで途切れる。不審に思ったフラウディアが視線で問いかけると、静かにと人差し指で制される。おとなしく口を噤むと、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
エルヴァルトは声を潜め、渋面を作る。
「仕方ありません、片付けましょう。その前にあなたに渡すものがあります」
「……私の剣? 持って来てくれたのか」
「フラウディアは守られるお姫様ではないですからね」
「ならば、その期待を裏切るわけにいかないな」
手になじんだ剣を受け取り、物陰に隠れて機を窺う。
まもなくして大柄な男が姿を現した。縄を解いて自由になったふたりを見て目をむき、掴みかかろうとしてきた。
フラウディアは足蹴りを喰らわし、大きな図体を床に転がす。そこに暗闇に姿を溶け込ませていたエルヴァルトがとどめの一撃を加え、男は力なくその場に倒れた。
「あなたは侯爵を。囮になりますから、そのうちに脱出を」
「分かった」
本当なら一緒に加勢したいところだったが、ぐっと堪える。
陽動のために駆けだすエルヴァルトを見送り、しばらく様子を窺う。まもなくして遠くから花瓶が割れる音、がんっごんっと激しい音が耳に届く。
忙しない物音でがやがやと人が集まっていく足音を遠くに聞き、同じく様子を見守っていた侯爵に目配せした。
「今のうちだ」
侯爵を背中にかばうようにして、フラウディアたちは一直線に玄関へと向かった。
だがそれを阻むように、やせ細った男が二階の踊り場から叫ぶ。
「何をしているっ! 彼を逃がしてしまったら、この計画はおしまいだ!」
悲痛な叫び声を皮切りに、二階から男たちが駆け下りてきて、あっという間に包囲網が完成していた。逃げ道を塞がれ、歯がみする。
すると騒ぎを聞きつけたのか、エルヴァルトが廊下から駆けつけてきた。その姿を視界の端にとらえ、フラウディアは白刃を構えて声を張りあげる。
「ここは私が! 君は侯爵を守ってくれ!」
「えっ……フラウディア!?」
戸惑う声に構わず、正面の男の顎先を横から叩きつける。体勢を崩した隙に今度は膝を狙う。攻撃が決まってよろめく姿を確認し、背後に気配を感じて重心を低くする。頭上でぶんと空気を切る音がした。
振り向きぎわに横薙ぎの一撃を放つ。けれど剣同士がぶつかり、力が拮抗して鍔迫り合いとなる。それを邪魔するように後ろから強く肩を掴まれ、力任せに横に放られる。
だが細腕に受け止められ、顔をもたげるとエルヴァルトがいた。
「無茶しないでください」
「……助かった」
だがホッとするのも束の間、剣を構えた男たちが群がってくる。エルヴァルトと背中合わせに対峙し、小柄な男に向けて突きを入れると、簡単に体勢を崩した。
フラウディアは地面を蹴り、よろける男の肩を踏み台にして宙を舞う。侯爵が少し離れたところから心配そうに見ているのを一瞥し、男たちの動きを次々に封じていく。
たん、と着地すると、ひと際大きい男が視界を塞ぐ。横腹を目がけて斬りかかるが、あっさりとかわされる。後ろに飛び退き、間合いを取る。
「そんな生温い攻撃じゃ、人は殺せないぞ」
風圧を間近で感じたと思った瞬間、はらりと榛色の髪が舞い散る。切られたのはわずかだが、大振りな剣でこれほど繊細な動きができる者はそういない。経験の差をまざまざと見せつけられ、息を呑む。
「ぐっ……」
殺気を孕んだ双眸と目が合い、剣を握る手に汗がにじんでいく。死闘をかいくぐってきたと分かる圧倒的な存在感に身の毛がよだつ。おそらく相手は全力を出しきっていない。だのに、彼の気迫にあてられただけで手が震えていた。
対峙する緊張感に押しつぶされそうになっていると、不意に男がふいっと体を避けた。横から男に目がけて飛んできたのは雑巾だ。そんなもので倒せるわけがないのにと首を傾げていると、急いた声が耳に届く。
「――フラウディア、侯爵様。目を伏せて!」
近くから聞こえた声に従い、瞼をきつく閉じる。直後に後ろから鼻と口を押さえられ、強く腕を引かれる。驚く暇もなく、そのまま離れた場所まで連れていかれた。
「目を開けてください」
耳元での囁きに瞼を持ちあげると、まず鼻を突いたのは火薬のにおい。
おずおずと白煙が残る部屋を見渡すと、床に崩れ落ちた男たちの姿があった。そのそばに転がっている手榴弾らしきものを見つけ、頬をひきつらせる。
「君の腹の内は真っ黒なのか……!?」
疑いの一言を浴びせると、彼は面食らった顔を見せた後、意味ありげに口角をあげた。
「否定も肯定もしませんが。ご想像にお任せします」
「ご、ごっ……ご想像って! それはもう肯定しているようなものじゃないか」
「ああしなければ、再び捕らえられていたでしょう。時に非道な方法でも、それが必要なら躊躇はしませんよ。ですが安心してください、命に別状はないはずです。……それよりも、二階で傍観されている貴族の方」
「ひぃ!?」
声を向けられた貴族は完全に腰を抜かしている。もはや彼を守る者は誰ひとりいない。
エルヴァルトを先導にして階段を上ると、へたりこんだ姿勢のまま後ずさっていく。怯えた目が見つめているのは最後尾にいたマシェルクス侯爵の姿だった。
侯爵はのんびりと近づき、重い息を吐く。
「つくづく、君には失望させられたよ。レミューダ男爵」
「わ、私は悪くない!」
「君もいい歳なのだから、子供じみた言い逃れはよしなさい」
年長者の言葉はゆったりとした口調だったが、胸に深く沁み入る重みがあった。軽い言葉を口走っていた男爵もやっと口を閉ざした。
「犯した罪は償ってもらう。公費を使い込んだ挙げ句、外国へ逃げようなんて甘い考えだったね。しかも、私の誘拐で得た資金で逃亡しようだなんて、とても元老院の末席に名を連ねる者とは思えない」
レミューダ男爵は観念したように、その場にうずくまった。エルヴァルトがどこに隠し持っていたのか、ロープで縛りあげていく。
正面玄関から外へ出ると、待ち構えていたのは身覚えある顔だった。
「ユンウェル様。ご無事で何よりでしたわ」
「おお、クロエ嬢ではないか。数日ぶりですな。……して、どうしてこんなところへ?」
「一座の仲間が行方不明になったので、こうして助けに来た次第ですわ」
悠然と微笑むクロエはドレス姿のままだった。
外での見張り役を引き受けていたのだろう、と推測してフラウディアは口を開く。
「クロエまでいるとは思わなかった。ところで、マリーの姿が見えないが」
「一座に戻るように伝えているから大丈夫。見たところ、あなたたちは元気のようね」
クロエの窺うような視線は侯爵へと移る。
「何か手荒なことはされませんでしたか?」
「いえ、私は大丈夫です。こちらのお嬢さん方に助けられたおかげで」
「そうですか。こんなときに申し訳ないのですが、実はお聞きしたいことがあるのです」
「この老いぼれで分かることでしたら何なりと」
「実はオルリアン王国の古い伝承について、あなたがお詳しいと耳にしましたの。龍にまつわる伝承で剣が出てくるお話をご存知ないでしょうか?」
「ふむ、剣ですか。さて、どうだったかな……」
マシェルクス侯爵はしばらく考えこむような仕草をし、ふと顔をあげた。
「そういった話は確かにあったような。しかし、恥ずかしながら記憶が少々曖昧でして。私よりも執事の方が詳しいでしょう。彼は生粋の伝承マニアですからね。だがそんな昔話をどうしてまた?」
当然の疑問を投げかけられ、エルヴァルトが前へ進む。
「のっぴきならない事情がありまして、詳しくは申せないのですが事は急を要するのです。剣についての情報があればぜひとも教えていただきたいと。よろしければ、執事の方とのお取り次ぎを願えないでしょうか?」
「無論だ。君たちは命の恩人だし、本邸へ招待しよう。今回のお礼に心ばかりの料理をもてなしさせていただこう。クロエ嬢もいかがですかな?」
「あいにく、明日も公演を控えていまして。お気持ちだけいただいておきますわ」
やんわりと断り、クロエはエルヴァルトをちらりと見やる。
「それと、……エリーゼ」
「はい?」
「朝が来ても、あなたの姿はそのままでね。意味分かる?」
「……承知しました」
「物わかりが早くて助かるわ。着替えも渡しておくわね。じゃあ、吉報を待ってるから」
ちょうどそのとき軍人が慌ただしい足音とともに現れた。自分が事情を話しておくから、というクロエの好意に甘えてその場を離れ、三人は迎賓館に戻った。
マシェルクス侯爵の便宜で用意してもらった部屋で夜を明かし、明朝、馬車で出発することになった。クロエが渡してくれた着替えは、フラウディアの普段着とエリーゼ用の麻のドレスにつけ毛、そして男物の服だった。
侯爵が乗る馬車は前を走り、ふたりきりとなった馬車の空気は心なしか重い。
フラウディアは真正面に座るエルヴァルトの顔色をそっと窺う。
「どうした? 不機嫌そうな顔だが」
「なぜ朝から女性のフリをしなければいけないのか、自問自答していたところです」
「それは、マシェルクス侯爵と会ったときが夜だったからだろう。実は男だったと説明するより、女装した方が何かと都合がいいからであって」
「分かっています。ただ……、男としてのプライドが傷ついているだけです」
今にも泣きそうな眼差しを受けて、とりあえず謝らなければと口を開く。
「そ、そうだな。すまない」
「謝らないでください。余計に辛くなります」
「に、似合っているぞ。その格好も」
苦し紛れに口にした言葉にエルヴァルトは顔をあげた。
「……そうですか?」
「ああ! どこからどう見ても女にしか見えない」
「…………」
「いや本当に! 女の私が言うのもなんだが、綺麗だぞ」
「…………」
「すまない。もしかして、また君を傷つけてしまったか?」
自分の失態を詫びるが一向に返事はない。長い沈黙が続き、重苦しい空気が漂い始める。必死に頭を悩ますが、状況を打破する妙案は思い浮かばなかった。
目の前にいる彼は口を真一文字に結んだまま、ぴくりとも動かない。心の内がまったく読めない状況にどうしたらいいか分からなくなり、しゅんと凹んだ。
その反応を見て、エルヴァルトはわずかに苦笑した。
「すみません。フラウディアを見ていたら少し元気が出てきました。励ましてくれて、ありがとうございます」
「い、いや。礼を言われるようなことはしていない」
「お見苦しいところを見せて申し訳ありませんでした。有力な話を期待しましょう」
気持ちを切り替え、笑みを浮かべる彼にフラウディアは頷きで返した。
しばらく街道を揺れていた馬車は程なくして止まった。御者いわく目的地に着いたらしい。地面に足を着けると、前の馬車から侯爵が降りてきたところだった。
白亜の城を見上げていると、横に並んだエルヴァルトがつぶやく。
「ミス・オルリアンよりも、あなたの方がずっと輝いて見えます」
「…………え?」
聞き間違いかと振り返る。しかし、彼の視線は出迎えに現れた執事へと向けられていた。
「お帰りなさいませ。ユンウェル様」
「ああ。紹介しよう。こちらが私を助けてくれたフラウディア嬢とエリーゼ嬢だ」
「昨夜早馬で知らせを受けておりますので、事情は伺っております。このたびは我が主の窮地に尽力してくださったこと、心からお礼申し上げます。心を尽くしておもてなしさせていただきます」
深々とお辞儀をされ、フラウディアは慌てて言う。
「いや、私は偶然、彼と一緒に攫われただけだし。大層なことはしていない」
「いいえ、あのまま誘拐犯の元にいたら主の命はなかったかもしれません。重ね重ね、感謝いたします」
執事は再び恭しく頭を下げた。
このままでは埒が明かないと危惧したエルヴァルトが間に入る。麻のドレスの裾をひとつかみし、礼を取った後に口を開く。
「すみません。せっかくのご好意ですが、食事は後日改めてということで……。早速、本題に入りたいのですが」
「ふむ。残念だが、致し方あるまい。確か、知りたいのは龍の伝承だったかな。こういった話は私よりも君の方が詳しいだろう。代わりに話を聞いてくれないか」
侯爵が執事へ目配せすると、老年の紳士が前へ出る。銀縁の眼鏡から見えるのは知的な眼差しだった。
「かしこまりました。どういったことをお知りになりたいので?」
「睡蓮の剣、もしくは龍の泉と呼ばれる場所に心当たりはないでしょうか」
率直に尋ねると、彼の片方の眉がぴくりと動く。
固唾をのんで見守るふたりに、執事は微笑をたたえながら答えた。
「剣は分かりかねますが、龍の泉でしたら――」