2-7
天空へ蛇行しながら昇り、自在に駆ける龍は地中か水中に棲むという。
顎下には宝珠を持ち、喉下の逆鱗に触れた者には天罰が下ると伝えられている。書物には力でねじ伏せようとする人間には容赦なく牙をむき、とぐろを巻く姿が記されていた。
伝説の生き物が今なお生息しているのかは甚だ謎だが、オルリアン王国との結びつきは昔話を紐解いてみても強いのは確か。そして、今向かっている渓谷の奥にあるという滝は龍の根城にはぴったりの場所と言える。
だが、そこへ至る道は困難を極めた。切り立った崖にあるのは風化した細道。足場は限りなく不安定の中、強風にあおられながら壁伝いに歩いていく。
「フラウディア。今からでも遅くはありません。ここは俺ひとりで行きますから、あなたは安全なところで待っていてください」
先方を歩いていたエルヴァルトが何度目かの説得を試みる。しかし、フラウディアの返事は毎度同じだった。
「そういうわけにはいかない。君に万が一のことがあったら事だ。こういう危険な場所だからこそ、ふたりで行くべきだ」
「……分かりました」
断固とした意志を示すと、ようやく彼が折れた。そのことに安心して足を踏み出したときだった。突如、左足のバランスが狂う。
「……ッ!」
崩れた体勢を立て直すべく、右手を壁に伸ばす。だが、もう少しのところで届かない。指先はむなしく宙を切るだけで、驚きに目を見開くエルヴァルトの顔をスローモーションのように見つめていた。
「大丈夫ですか!」
焦った声とともに力強い腕によって引きあげられる。呆然としていたフラウディアはしばらく呼吸すら忘れていた。ようやく助かったことを実感したのは、彼の温もりに気づいた後だった。
「……恩に着る」
落ちていく足場の欠片が水音を立て、あっという間に真下の激流に飲み込まれていく。その様を見下ろし、背筋が冷たくなった。
エルヴァルトは掴んでいた手を解き、心配そうに聞いてくる。
「まだ歩けますか?」
「無論だ」
こんなところで立ち止まってはいられない。その思いで頷くと、諦めたようなため息が応じた。危ない箇所を幾度と越えていくと景色が一変した。
険しい道をくぐってきた先にあったのは、緑したたる渓谷だった。
荒々しい岩肌を滑るように流下する滝から、ほとばしる清冽な水音が絶え間なく聞こえる。霧のような水しぶきで滝壺には水の煙が漂う。
裏手に回りこむと滝の音が一層激しくなり、流れ落ちる清水の隙間から木漏れ日が射しこんできて幻想的な空間を作りだす。裏見の滝に目を奪われていると、ふとエルヴァルトが声をあげた。
「ここに石碑があったんですね」
見やれば、滝壺の奥にある岩窟に石碑があった。
「よくこんな辺境の地にも建てようと思ったな」
「そうですね。昔は道もいくらか歩きやすかったのでしょう」
彫られている古代文字を読めないため、フラウディアはおとなしく待つ。
石碑を丹念に調べていたエルヴァルトは腰をあげて、ゆっくりと首を横に振った。
「ここも外れか。……そろそろ日も暮れるし、今晩の寝床を探すとするか」
見上げれば西日はだいぶ傾いていた。体温を奪われないためにも、風よけができる場所を探す必要があった。
それから手分けして山中を探索し、崖の下に広めの洞穴を見つけた。
「どうだ? ここなら寝床に最適だと思うんだが」
意見を求めるために連れてきたエルヴァルトに見せると、いいと思います、と色よい返事を貰えたので意気揚々と足を踏みだす。しかし、驚いたような声に止められてしまう。
「え!? そんな丸腰で危ないですよ」
「熊ぐらいなら余裕だ。安心しろ」
「そうじゃなくて、少しは慎重に行動してください。こっちがはらはらします」
彼の懸念を笑いではねのけ、フラウディアは臆さず中へと入る。少しの間を経て、すぐに顔を出して報告する。
「大丈夫だ。中は何もいないし、そこそこの広さだ。今夜はここで夜を明かそう」
「あなたが頼りになり過ぎて、俺は惨めになりますよ……」
「特訓のためさまざまな猛獣と渡り歩いてきたからな。戦いになっても生き抜く自信はある」
嬉々として語る声にエルヴァルトは嘆息した。
「これ以上聞いていると本当に落ち込みそうなので、薪でもひろってきます」
とぼとぼと歩いていく彼の寂しげな背中を見送り、フラウディアは首をひねりながら野宿の準備に取りかかった。
戻ってきたエルヴァルトから薪を貰い、火をおこす。深まる秋の冷たさが肌を包み、ふたり並んで焚き火で暖をとる。
川で穫ってきた焼き魚を食べ終え、エルヴァルトはおもむろに口を開く。
「フラウディアは誰に対しても、こうなんですか?」
真剣味を帯びた瞳に射抜かれ、しばらく言葉を失う。だがパチパチと燃える火の音で意識を戻し、常盤色の瞳を見つめながら問われたことを自分なりに推測する。
「ああいや、基本的に困っている人は助ける性分だが、誰でも同じというわけではないぞ」
「……じゃあ、俺の場合は?」
「エルヴァルトはひとりで無茶をするだろう。だからかな……放っておけなかった」
「そう、ですか」
「君は見ていて危なっかしいし、なぜだか気になるんだ」
「…………」
「それに昼夜で体が変わって不便だろう。昼はともかく、ひとりでの夜は危険だと思うぞ」
そう断じると、エルヴァルトは押し黙ったまま夜空を見上げた。
すべてを飲みこむような漆黒の闇夜は、月の光さえ真っ黒な雲で覆い隠していた。
「今夜はもう寝よう」
「そうですね。おやすみなさい」
最後の当ても外れたことにより疲労も上乗せられ、フラウディアはすぐに深い眠りへと誘われた。
*
ぽつり、と空から落ちてきた水滴が肩を濡らす。
「……雨ですね」
「だな。昨日通ったところは足場が悪い。雨だとことさら危ないだろう。少し遠回りになるが、迂回して戻ろう」
「分かりました」
渓谷へ至る道はふたつあり、昨日通ってきた崖が最短ルートだった。もう一方は人の足が入っていない山道を進むルートだ。
空一面に広がる灰色の雲を見上げ、フラウディアは不安げな表情を浮かべる。
(急ごう。……雷が鳴り出す前に)
自らに言い聞かせるようにして、道なき道も勘を頼りに突っ切る。
伸び切った草木を踏み分け、無造作に成長した枝葉をへし折って道を確保する。荒れた山道を進んでいく足取りは重い。靴にも雨水が染みこみ、重量を増しているなら尚更だ。
後ろをついて歩くエルヴァルトの息も少し乱れている。けれど、ちゃんとついてきているのを確認し、また前へ視線を戻す。
やがて馬がいるところまで戻り、ほっと胸を撫でおろす。馬は濡れた胴体をぶるりと震わせ、フラウディアたちを迎えた。布で軽く拭いてあげてから、ひょいと跨がる。
「エルヴァルト。体力は平気か?」
「まだ大丈夫です。道に気をつけながら、早めに戻りましょう」
「ああ、そうしよう」
雨脚は弱いものの、視界は限りなく悪い。それに長時間、雨の中に体をさらしていたら風邪をひいてしまう恐れもある。自然と手綱を持つ手にも力が入る。
いつもより慎重を期して、足場に気をつけながら馬を走らせた。
「ここの峠はよく旅人が被害に遭うんだ」
小さい農村を通り過ぎたところで、フラウディアはぼやいた。
「山賊ですか?」
「ああ。――言ってるそばから現れたみたいだな」
フラウディアは後方に目を向け、エルヴァルトもそちらを見る。
まだ距離は遠くの位置にいるが、油断はできない。彼らの目的は主に金目のものだが、馬を奪われることになったら今後の旅に大きな支障がでる。
「無用な争いは避けましょう。馬を走らせます」
「承知した」
馬の腹を蹴り、スピードをあげて振り切ろうとするが、彼らは執念にとりつかれたように追いすがってくる。
「くっ……、囲まれる!」
「いったん、身を隠しましょう。その木立へ走って!」
馬を残し、荷物を持って斜面をくだる。
息を潜めて木々の間から様子を見守っていると、複数の足音が近づいてきた。だが標的がいないと分かるや手分けして捜索を始めた。
辺りをくまなく探す気配に、見つかるのは時間の問題と思われた。
「どうする?」
「やり過ごすのが一番なんですが、そうも言ってられませんね。少し暴れますか」
「任せろ」
頷き返し、そろりと立ち上がる。そして薄汚れた男たちの前で仁王立ちに突っ立つ。
その様子を見て、ボスと思しき男が偉そうに顎をしゃくる。
「悪いことは言わねえ。おとなしく荷を置いていきな」
ふたりを取り囲んだ人数は六人。
(このぐらい余裕だ。練習にもならない)
エルヴァルトと背中合わせになったフラウディアは剣を構える。
「三分で片をつけるぞ」
「一分もあれば充分です」
「上等」
次々に向かってくる山賊たちを次々に薙ぎ払う。吹っ飛んでいく彼らを視界の端にとらえ、見据えるのは残るただひとり。
冷たい眼差しとともに喉元に切っ先を突きつければ、つ、と赤い血が流れる。本気の気迫を感じとったらしく、ボスの男は青ざめていた。さっきまでの威勢はどこへいったのか、急に態度を翻して平謝りしてきた。
「み、見逃してくれ……!」
そうして一目散に消えていった彼らの後ろ姿を見送り、フラウディアは憤慨した。
「ったく、なんなんだ。男のくせに気概が足りない奴らだ。君もそう思うだろう?」
同意を求める声に応えるのは渇いた笑いだった。
何かに堪えるような顔を見て、フラウディアはやっと異変に気づいた。
「エルヴァルト!? おい、しっかりしろ!」
崩れていく体を支え、フラウディアは必死に呼びかける。けれど返る声はない。眉根をきつく寄せ、焦点の合わない瞳はやがて力なく閉じられた。
呪いを受けた日から睡眠もろくに摂らず、ずっと神経を尖らせていたエルヴァルトの体は限界をとうに超えていた。