2-6
朝の気配が深い霧の中に漂いはじめていた。
深呼吸をすると、清涼な空気が喉を通っていく。霧の切れ間から空がのぞき、燦々とした光が、夜が明けたことを知らせる。
「いい人に教えてもらえてよかったな」
「そうですね。こんな今にも沈みそうな舟で、果たして村まで戻れるか謎ですけどね」
とげのある言い回しに、フラウディアは首をひねる。
「どうしたんだ。そんな仏頂面で」
「あなたは簡単に人を信用しすぎです。それでは悪い連中にいいように利用されますよ」
昨日はあれから長老や村人に聞きこみをしたが、誰も剣や里の情報を持っていなかった。仕方なく当初の予定通り、龍の石碑があるという青の洞窟へと向かうことになった。
宿屋の店主が用意してくれたのは使い古した小汚い舟だった。断崖絶壁の下にある洞窟は海に面していることから、陸路から行くのは不可能だったためだ。
とはいえ、エルヴァルトが心配するのも無理はない。
漕ぐたびに舟がギシギシと軋む音はいつ半壊してもおかしくない響きを伴っていた。
「確かに今までの旅でも、そういった人間はいた。だけど、私は人を疑ってばかりの生き方は嫌なんだ。騙された後も信じるほどお人好しではないが、初対面から人を信じない人間にはなりたくない」
「……すみませんでした」
「なぜ謝るんだ?」
「あなたみたいな人がいるからこそ、世の中は捨てたものではないのだと思って。浅はかな考えを押しつけてしまい、申し訳ありません。……俺はどうやら簡単に人を信用できなくなっていたようです。あなたも何か魂胆があって、手を貸しているんじゃないかと疑っていました」
何となくそんな節は感じていたが、いざ本人から言われると辛いものがある。フラウディアは眉間を険しくて問いかけていた。
「それは今もか?」
「いいえ。……今はそんな風には思っていません。ただ、不思議に思っていたんです。何の繋がりもない人間にここまで親身になる人なんて、故郷では考えられなかったですから」
「そうなのか?」
「少なくとも自分が育った街では。身分が高い者が優遇される。それが当然で、疑問を感じることもありませんでした」
その眼差しに哀愁の影が宿り、フラウディアは声を低くする。
「エルヴァルトは人を信じることが怖いのか?」
「……そうかもしれません。以前、信用していた人から裏切られましたので。もう吹っ切れたと思っていたのですが案外、まだ心にわだかまりが残っているようです」
洞窟の入り江にたどり着き、頭を低めて狭い入り口をくぐる。
内側は思ったより広い空間が広がり、洞窟内の海底は紺碧に彩られ、反射した水面がきらきらと光る様子は満天の星のようだった。
「エルヴァルトは、その人のことを好いていたのだな」
「そうですね。血の繋がりはなくとも、兄のように慕っていました。そう感じていたのは自分だけだと知ったときは辛かったです」
波の音が反響する空洞に、彼の声はよく響いた。
「悲しいことを思い出させてすまなかった。私は決して裏切るようなことはしない。辛い時はそばにいるから、そんなに泣きそうな顔をしないでくれ」
「……そんな顔をしていますか?」
「してるぞ。大丈夫だ、ここには私と君しかいない。つまり、私しか見ていない」
強く言い切ると、エルヴァルトの顔に笑みが戻った。
幸い石碑はすぐに見つかり、調査し終えたふたりは結論を出す。
「ここは思ったより広いですが、とても龍が棲める大きさとは思えませんね」
「そうだな、人が住む場所もないし……またしても空振りか」
「仕方ありません。いったん戻りましょう」
舟を引き返して海原へと戻ると、海面が上昇していた。波の幅が大きくなったかと思えば古い小舟は呆気なくひっくり返り、ふたりは海へと放り出された。
エルヴァルトが運よく舟の端を掴んでいてくれたおかげで、海水を飲みこむ前にひとまずの安心は確保できた。
しかし、予見していた不安が現実となったからか、エルヴァルトはひどく青ざめていた。フラウディアは元気づけようと努めて明るい声を出す。
「これで嵐でも来たら災難だったが、濡れた服はまた乾かせばいい」
「…………。あなたの心の広さは、まるで海のようで羨ましいです」
「それは誉めているのか?」
「誉めていますよ」
転覆した舟に掴まり、エルヴァルトはおかしそうに笑っていた。
*
ずぶ濡れで帰ってきたふたりに、宿屋の主人はひどく狼狽した様子で暖炉の前に連れていき、温かい飲み物を用意してくれた。しきりに謝る彼は、宿代は要らないからもう一晩泊まって行ってくれ、と言ってくれた。
エルヴァルトはその申し出を丁重に断り、服が乾き次第、ふたりは出発した。
思わぬ出来事で時間が取られ、目的地の麓にある村に着いたときにはエルヴァルトの姿はすでに女性になっていた。薄青色の空には星が瞬きはじめている。
一泊することにした農村は家々が点在し、村の北にある宿屋は夜には酒場として雰囲気を変えていた。奥の席に座り、遅めの夕飯にありつく。
隣のテーブルでは若い二人組の男が酒をあおりながら、話に花を咲かせていた。
「なあ、知っているか? シャルロイド王家の呪いの話」
物騒な単語にフラウディアは耳をそばたてた。
「あれだろ。代々国王は病弱で臥せってるって。だから元気な娘を妻に娶るって」
「そう、それ。今は代わりに王妃が政をやってるんだよな」
「それで? それがどうかしたのか」
「シャルロイドから来た商人から聞いたんだが……王城の周りに暗雲がたちこめて不気味な様子だったらしい。いつも活気づいている城下町も様変わりして、謁見もしばらく禁止されて政も滞ってるんだとか。これはさ、いよいよ呪いが爆発したとしか」
「爆発って……。さすがにそれはないだろ」
「だよなー」
からからと笑い声が背中越しに聞こえ、フラウディアは声を潜めて言う。
「……エルヴァルト。今の話は本当なのか?」
にわかには信じがたい話だった。けれど、目の前には夜になると性別が変わってしまう少年がいる。真っ向から嘘だと否定することもできなかった。
その気持ちが伝わったのか、彼は苦笑した。
「事実です。原因は定かではありませんが、国王は病弱な体質の方が多く、実質は王妃様が取りしきっておいでです」
「じゃあ、王城に暗雲が立ちこめてるっていうのは?」
「俺が命からがら逃げてきたときも、そんな感じでした。王族をはじめ、あのとき王城にいた者たちは今も閉じ込められています」
「なら、君はどうやって助かったんだ」
「シャルロイド王家には戦勝祈願の聖女がいるのをご存知ですか?」
記憶を思い起こしながら口を開く。
「確か……特別な方術を操り、人を癒やし、未来を予見する力があると聞く」
「その通りです。彼女はめったに人前には出ることはなく、王城の外れにある大聖堂で暮らしていまして。俺はそこへ助けを求め、隠し通路から外へ逃がされたんです」
「聖女の力をもってしても、呪いの力は解けなかったのか?」
「残念ながら。呪いを解くには、浄化の力を宿す睡蓮の剣が必要不可欠だと。そして、災厄の悪魔を封印するには王家の血族――つまり、俺の力がいると仰っていましたから」
「そうか……ん?」
頷きながら、フラウディアは眉根を寄せた。
(今、耳慣れない単語が聞こえたような)
彼の口調があまりに平淡だったせいで、危うく聞き逃すところだった。
「聞き違いだろうか。今、悪魔とか聞こえた気がしたんだが……」
「信じられないのも無理ありません。ですが、俺は現実として目の前で見ています。王子を守るために剣で応戦するもまったく効かなかった。守るべき人がそばで石化するのを見ることしかできなかったんです」
沈痛な面差しに、かけるべき言葉が出てこなかった。
エルヴァルトは目を伏せて話を続けた。
「聖女様いわく、封印されていた悪魔がよみがえったと。彼は自分を封じていた王族を憎んでいる様子で、次々に石化の呪いをかけました。俺は逃げるのがやっとで、聖女様に助けを求めたのです」
落ち込んだ様子の声色に、胸が締めつけられるようだった。
(睡蓮の剣を手に入れ、エルヴァルトの笑顔を取り戻さなくては)
フラウディアが決意を新たにした頃。そんな気苦労など知る由もない男たちは、酒の勢いか大声で話を続けていた。
「そういえば、ユディーラ皇国の皇太子がもうすぐ即位するって話だぜ。シャルロイド国王も病弱だが、あの国の皇帝も最近はずっと臥せっているって話だからな」
「ユディーラといえば、皇女様は今も行方不明なんだっけ?」
「ああ、そうそう。姿を見せなくなって何年だっけ? 結構経つよな。かなりの美人だって有名だったのに惜しい人を失ったよな、あの国も」
「なんでだっけ、賊に攫われてそのまま……だったか?」
「いや、蒸発じゃなかったか。年頃のお姫様だし、宮殿に閉じ込められて嫌気が差したんじゃないかな。知らないけど」
「それか次々にやってくる縁談に飽き飽きしたとか?」
「庶民からしたら羨ましい話だけどなー。玉の輿だろー?」
「ばっか、皇族なんだから生活に不自由なんてしてないだろ。俺たちと違って」
「そりゃそうだな」
続く笑い声を聞き流しながら、フラウディアたちは無言で夕飯を平らげた。
その日は早めに就寝した。明日は渓谷を抜けなければならない。疲れ切った体をしっかりと休ませ、一番の難所へと挑まなければならなかった。