君のそばに。~ドイツ、ベルリンの冬
※実話3割、創作7割です。名前は仮名です。
※念のため、作者が主人公ではありません。
朝の9時、テーゲル空港のロビーでは、多くの人たちが思い思いに過ごしている。朝食をとったり、パソコンで仕事したり、再会を喜んでいたり、そこで飛び交う言語は様々だ。
1ヶ月半ベルリンで生活してきたので、あかりの耳には英語よりもドイツ語のほうが聞き取りやすい。
あかりはある男を待っていた。
次に会えるのがいつになるのかわからない。
前日した約束だけが、今あかりと彼を繋いでいる。
『必ず見送りに行くよ。君を驚かせるから』
そう言って、彼は笑った。あかりの好きなくしゃっとした笑顔で。彼の青い瞳にうつるのは、涙をこらえる自分。二人の手は固く結ばれていた。
嘘つき。今までからかっていたのね。遊びだったんだわ。日本からの留学生だから、もう会わなくて済むから。
怒りと悲しみがごちゃまぜになり、ただ立ち尽くすあかりに、留学仲間の千波がそっと声をかけた。
「あかり、そろそろ搭乗の時間だけど…まだクラウスは来ないの?」
「…もういいの。行くわ」
「前日ドイツ人の友達みんなで送別会してくれて、クラウス結構酔っ払ってたから、寝過ごしちゃったんだよきっと。遅刻魔だもん」
「でも、他のみんなだってたくさんお酒飲んだのに、ちゃんと見送りに来てくれてるじゃない。いいのいいの!全部忘れて、これから二週間かけてミュンヘンやウィーン、東欧を回ってから日本に帰るだけ!最高よね、1ヶ月半勉強をがんばった甲斐があるもの」
荷物を持ち直し、何か言いたげな千波に無理に作った笑顔を向け、搭乗ゲートへ向かった。
もう振り向かない。この街を離れたら、忘れるから。
だから、今だけは。
Auf Wiedersehen,Berlin. Ich denke nur an dich.
◇ ◆ ◇
1ヶ月半前、あかりたち短期留学メンバーは日本から12時間かけて、ベルリンのテーゲル空港に降り立った。
2月の半ば、雪が積もり、気温は氷点下になる日もざららしい。あかりは寒さに震えながらも、心は高揚していた。
選抜試験や面接を通過した10人は、海外へ出るのはほとんど初めて。迎えに来てくれた現地の大学の日本語学科の教師と学生は、にこやかに今日の予定を告げる。
この後これから住むルームシェアのマンションに荷物を置いたら、日本語学科の学生主催の歓迎会をするとのこと。
慌ただしく移動し、歓迎会の会場へ向かう。
広めの教室には、ドイツ人学生たちが15人ほどいた。あかりたちが到着したことに気付くと、拍手で出迎えてくれた。
今後は彼ら学生たちが日本人留学生の世話をしてくれるらしい。街の案内をしてくれたり、遊びに誘ってくれたり、宿題を手伝ってくれたり、してくれるそう。
お互いの紹介が終わると、談笑の時間になり、片言のドイツ語と日本語と英語を駆使しながら交流する。あちらこちらで笑い声が聞こえてくるので、あかりも数人の女の子たちと話ながら、これからの生活が楽しみになった。
しばらくして、あかりと友人の千波は話し疲れて窓際の椅子に座って休んでいたときだった。
「どうぞ」
突然目の前に差し出されたのは、一輪の薔薇。薄桃色の可憐な花を持つその人物は、あかりの前で膝をついていた。
「こんにちは。あーもう、こんばんは?今日、バレンタインデーです。男の子は女の子に、花をあげます」
「ダ、ダンケ!」
「日本は、バレンタインデー、女の子が男の子に、好きを言う日、どうしてですか?ホワイトデーとは、何ですか?」
「ええと…お菓子メーカーの戦略って、ドイツ語でどう説明すれば…」
金髪青い目のメガネの男は、窓の外を見ながら挨拶を変え、オドオドするあかりににっこり笑いかけた。彼は千波にも薔薇を手渡しながら、二人を質問攻めにする。
クラウスと名乗ったその男の子は、他のドイツ人に比べて小柄に見えるが、それは190センチ越えがざらにいるだけで、日本人から見たら175センチの彼は低い方ではない。
クラウスは秋入学の大学一年生で19歳、ライプツィヒ出身だそうだ。邦画を見て日本文化に興味を持ったので、日本語学科を専攻したらしい。日本語を学んでまだ半年だけど、たくさん覚えて来年には日本に留学したいと話した。
人懐っこい彼との片言の会話は楽しかったが、マニアックな質問には少し辟易した。
そのうちクラウスの友達も集まり、わいわいとまた話の輪ができた。
歓迎会が終わった帰り際、黒髪美人のナディアに薔薇を誰からもらったのかと聞かれたので、クラウスだと答えると、彼女は形のよい眉をしかめながら首を振った。
「クラウスは、つまらない、男です」
「え?」
「クラウスは、私に、ママレードジャムの話、2時間しました」
「何で、ジャムの話を2時間も…」
「私は、ジャム、面白くない。だから、クラウスは、つまらない」
「ぶふっ…!逆に面白いけど…!ナディア、そういう人のことを「変な人」とか「変人」って言うのよ」
「Oh!ヘンジン!クラウスは、変人!」
「あはは!」
「…そうやって、変な日本語を教えちゃって」
千波の教えた新しい日本語に喜ぶナディアを見ながら、あかりは千波をじろりと睨む。完全に壺に入った千波は笑いが止まらない。
たしかに変な人ではある。
それが、クラウスの最初の印象だった。
◇ ◆ ◇
しばらくすると、午前中は大学でドイツ語の勉強、午後は観光と家事と宿題という、生活スタイルができた。
クラウスと友達たちは毎日のようにあかりと千波を訪ねてきた。マリエン教会、ブランデンブルグ門、ジーゲスゾイレ、国会議事堂、ベルリン大聖堂など、観光地巡りを頻繁にしていたので、あかりはすぐに気付くことになった。
クラウスが、千波に対して向ける熱い視線の意味に。
ベルリンに来て2週間が経ったある日、クラウスから昼食に誘われたので、大学の学生食堂で待ち合わせた。
千波は別に用事があるのであかり一人だけだと伝えたが、クラウスはキャンセルしなかった。
ランチを選んでテーブルで待っていると、クラウスが笑顔で走りよってきた。冬なのに汗だくになっていた彼は、遅刻しそうで走ってきたと頭をかいた。彼は遅刻魔だった。
ドイツ人は時間に厳しいんじゃなかったっけ。それはステレオタイプ?
内心首をかしげながら、クラウスに話しかけた。
「クラウス、メガネが汚れてるわよ」
「ありがとう」
「え?!クラウス、メガネ外すとイケメン!少女漫画みたい!」
「イケ、メン?チョウジョ漫画?」
クラウスが小型の独和・和独辞書で調べ始めた。メガネなくて見えるのかな。
授業と宿題をしているときは全てドイツ語だったが、ドイツ人学生たちと遊ぶときはほぼ日本語だった。彼らの日本語の勉強になる上、あかりたちも気晴らしになるので助かる。
真剣に辞書で調べるクラウスは、彫りが深くて青い瞳が涼やかだ。メガネをかけると温和な印象だが、今は端整な顔立ちが目立っている。
あかりは目が離せないまま答えた。
「ええと、イケメンはかっこいいって意味。辞書には載ってないと思うわ。少女漫画は、女の子が好んで読む漫画のことよ」
「私は、かっこいい、ではありません。私は、恋人いないですから。あの、私は、アカリに聞きたいことが、あります」
「何?」
照れた様子のクラウスは、メガネをかけながら口を開いた。
「チナミは、恋人が、いますか?私は、チナミが、好きです」
「…今はいないけど。ドイツに来る前に別れたって」
「Oh!」
まだ片言なので、直接的な質問になってしまうのだろう。上気した頬でキラキラした瞳のクラウスは、なんだかかわいかった。
千波とは大学で同じサークルなので、仲が良かったため、いろんな話を知っている。
「ても、千波は、好きな人が日本にいるの。だから…」
「チナミの好きな人、優しい人?」
「ええ、優しいわ。とっても」
「私もたくさん優しい、だから、チナミは私を好きですか?」
あかりはドイツ語が、クラウスは日本語が拙いので、詳細を伝える術がない。
あかりはゆっくり、クラウスにもわかる単語で話した。
「そうね、クラウスはとっても優しいわね。でも、チナミは彼が好きなの。彼だから好きなの。彼だけを好きなの。他の人は駄目なの。クラウスは友達なの。わかる?」
「…」
目に見えて落ち込んだクラウスが気の毒になり、持っていたチョコレートをあげた。以前クラウスから勧められたもので、美味しかったので気に入って買い込んでいたのだ。
「これ、あげる。好きでしょ?」
「…Genau!Danke sehr,アカリ!」
チョコレート一個でこんなに喜ぶかな?と、あかりは思ったが、笑顔に戻ったクラウスの姿に一安心した。
◇ ◆ ◇
あかりは困惑していた。
クラウスと一緒に映画を見ているのだが、距離が近いのだ。
今見ているのはフィンランド映画だが、英語の吹き替えでドイツ語の字幕だから解説をすると言って、耳元で小声で教えてくれる。
そんな距離に男の人がいたことがなかったので、緊張から映画の内容が入ってこない。
映画館が暗くて良かった。こんな赤い顔、人前にさらせない!
クラウスは、千波への思いはすっぱり諦め、切り替え早く今度はあかりへとアプローチを始めた。
周りは協力モード。元々仲が良かった二人であるため、くっついたらいいよとばかりに、色々お膳立てしてくれる。
今回の映画もそうだ。みんなで行くのかと思ったら、集合場所には笑顔のクラウスの姿だけ。はめられた…。
あかりは決してクラウスが嫌いではない。ただ、千波を好きだと言った次の日から、あかりを好きになったと言うので、さすがに信じられないだけなのだ。
誰にでも好き好き言ってるでしょ!慣れてるでしょ!
あかりはナディアや他のドイツ人の女の子に訴えた。
しかし、みんな首を振る。クラウスは変人だけど、不誠実ではないと。多分千波を好きなのは日本人の彼女が欲しかっただけ、千波が人懐っこいからいけると思ったんじゃない? と、身も蓋もないことを言う。
それって不誠実じゃ…と思ったあかりに、ナディアは笑う。だから、千波には軽く接していたのよ。あかりに対しては他の男の子と話さないようにベッタリじゃない。
思い当たる節はたくさんあるので、それ以上は聞けなかった。
◇ ◆ ◇
クラウスやナディアたちの内緒話が聞き取れるくらいドイツ語が上達し、クラウスとの距離が近くなったのは物理的であるだけで、ベルリンを発つ前日になった。
直接言葉で好きと言われたわけではない。
そもそも、私も彼を好きなのかよくわからないし。
嫌いではない。好き、なほうだと思う。一緒にいすぎて、友情だか愛情だかよくわからなくなった。
あかりが悶々としていながらも、日本人留学生主催の送別会が開かれた。
日本食や折り紙の飾りつけを見て、みんな喜んでくれている。
「またクラウスは遅刻?明日も遅刻しそうだよね」
「言えてる!あかり、ちゃんと釘を指しておくんだよ」
「ああ、会えなくなるのは寂しいわ。メールしてね」
「もちろんよ」
「あのワイン美味しかったなぁ」
「よし、俺が送ろう。お前なら2瓶くらいすぐ飲んでしまいそうだな」
日本語、ドイツ語、みんなごちゃまぜに話しているが、来たときより格段に上達している。
私はワインを傾けながら、ベランダへ向かった。クラウスが来たかどうか確かめようと思ったからだ。
わあ、きれいな星空!
今朝から吹雪は止み、ベルリンに来て初めて青空を見れた。街は街灯だけで真っ暗、星の瞬きが美しい。
クラウスと、見たかったな。また彼お得意の蘊蓄が始まるだろうけど。
あかりが苦笑を漏らすと同時に、胸がツキンと痛くなった。
もう、クラウスには会えないことに気付いた。毎日一緒にいたから、明日から彼が側にいないことなど考えたこともなかった。
どうしよう。彼と会う前の自分が思う思い出せない。
あんなに優しく名前を呼ばれたり、エスコートしてくれたり、一緒に笑いあったり、たった1ヶ月でこんなに思い出ができるなんて。
涙が溢れそうになったあかりは、ガタリと小さな音が背後で聞こえたので、あわてて部屋へ戻ろうとした。
瞬間、ふわりと暖かな何かに包まれた。
「え?」
「アカリ!遅くなって、ごめんね!」
「クラウ、ス?」
走ってきたのか、息が荒い。正面からあかりを抱き締めるクラウスの顔は、満面の笑顔だった。今まで距離が近いと言っても、せいぜい並んで肩がくっついたり、小声で話すときに耳元に顔が近づくくらいだったが、初めて自分が彼の腕の中にいることにあかりは混乱していた。
「ちょっと…!」
「Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen. 」
「え?聞き取れないわ…何て言ったの?」
「ふふ、秘密さ」
「もう。それにしても、最近は遅刻が少なくなったのに、今日はどうしたの?」
「それも、秘密。謎が多い男は、かっこいいでしょ」
「どこからそんな情報を…ふふ、そうね、かっこいいわ」
なかなか来ないことに苛立ちを覚えていたはずなのに、顔を見るとそれも許せてしまうなんて、私はいつから彼にこんなにも惹かれていたのかしら。
クラウスの冷たくなった頬を両手で暖めながら、あかりは笑った。彼の日本語は同級生の中でもダントツに上手くなっていた。アカリのおかげ、なんておどけてみんなに言っていたが、あかりが何かしたわけではない。クラウス自身の努力の賜物だ。
突然、クラウスが表情を引き締め、あかりの両手を握った。
「アカリ、聞いて。僕は、君に出会えて、本当に良かった。たくさん、ありがとうを言いたい」
「私こそ、ありがとう。いろんなところへ連れていってくれて、とても楽しかったわ」
「明日、空港へ必ず見送りに行くよ。君を驚かせるから」
「ええ、待っているわ。朝早いからって、遅れないでね」
「気を付けます」
神妙な顔をするクラウスは、やっぱりかわいかった。
両手からクラウスの暖かさが伝わってきて、涙がこぼれそうになる。グッと堪えて、微笑み返す。
明日でさよならだから、まだ泣かない。
◇ ◆ ◇
「…!…!」
いくらクラウスのことを考えているからって、空耳まで聞こえるようになってしまったのかしら。
航空チケットを手に、ぼんやりとゲートへ入ろうとした瞬間、今度こそはっきりと名前を呼ばれた。
「アカリ!」
振り向くと、真っ赤な薔薇のミニブーケを片手にこちらへ走ってくるクラウスが見えた。何故かメガネはかけていない。
「クラウス…?…っ、クラウス!」
相変わらず笑顔で、汗だくで、遅刻魔で、どんなときも変わらないクラウス。
馬鹿じゃないの、私。やっぱり顔を見ると許せてしまう。
この先苦労するだろうな。でも、彼じゃないと、駄目なの。
涙があとからあとからこぼれる。
クラウスはそのままあかりを抱き締めた。昨日のようにふんわり包み込むような抱擁ではなく、とても力強く情熱的に。
空港中の人たちがこちらを注目しているのは、驚いている声や口笛が聞こえてくるので痛いほどわかる。それでも、あかりは彼のことを引き離すことはできなかった。恥ずかしさより、幸せな気持ちが勝ったから。
やっと、会えた。
「アカリ!…泣いてるの?」
「クラウス…もう!どうしてこんな日に遅刻するのよ!もう会えないのよ?!私がこんなにあなたを想ってること、あなたは知らないでしょう!?」
「ええと、ごめんね?遅れて、ごめんね。メガネをなくしてしまって、探して、見つからなくて。でも、会えたから、ね?良かったね!」
「…っ!本当に、あなたって人は…はぁ、もういいわ。そうね、会えたものね」
「あかり、これ、プレゼント」
「ありがとう。とてもきれいな薔薇ね」
「プレゼント、まだあるよ」
「なあに?」
不思議そうなあかりに、クラウスは笑みを深めた。
「来年の夏から一年、アカリの大学に、勉強に行くよ」
「え?それって…」
「それまで、寂しい。だけど、夏になったら、一緒!」
話を詳しく聞くと、クラウスは日本語を猛特訓して、日本語学科の先生やあかりの大学のドイツ語教授と連絡を取り、一年生としては特例といえる留学生の枠を獲得したそう。
そのために、毎晩日本語を勉強していたと。だから、遅刻することが多かったのだと。
全てはアカリと一緒にいるため。
「驚いた?」
「…驚いた」
「日本人の先生が、言ったんだ。日本人は恋人になるとき、言葉を言うって。アカリ、僕の恋人になって。僕のそばにいて」
クラウスはあかりの頭を優しく撫でながら、耳元で囁いた。あかりは幸せで頭が真っ白になる。
「ええ!あなたの、恋人になるわ!でも、もう遅刻だけはしないでね」
「わかったよ!ああ、すごく幸せだ!」
「あかり、もう時間がないよ!映画のワンシーンみたいだけど、現実に帰って来て!」
クラウスはあかりを抱いたまま、その場でクルクル回りだした。周りは日本語を理解できてなかったが、雰囲気で若い恋人たちの大団円を感じとり、拍手喝采となった。
千波の切羽詰まった声に慌てて荷物を持ち直し、あかりはクラウスに笑顔で手を振った。クラウスもくしゃりと笑い、両手で大きく振り返した。
夏はまだ遠い。それでも、確実に暖かくなっている。
抜けるような青空に向かって飛び立つ飛行機は、二人の明るい未来へ向かっていくようだった。
冬になると、この二人のことを思い出します。
本文中のドイツ語は、
Auf Wiedersehen,Berlin. Ich denke nur an dich.
「さよなら、ベルリン。あなた(クラウス)のことばかり考えているわ」
Egal was kommt, ich werde dich nie verlassen.
「何があっても君を離さないよ」
活動報告にて、この話の真相や裏話、後日譚など記したいと思います。