第94話 王
「……気分がすぐれないのか?」
決して広いとは言えない車内。
佐々木の隣に腰かけている雲雀が、困ったような表情を浮かべていた。
車体は大破し、ほとんど使い物にならなくなっている。
大破前の状態ならゾンビに突っ込むこともできたが、今の状態ではそれも大きな危険が伴う。
自然と、出発時よりルート選択も慎重になっていた。
「……すいません。弱気になっても、仕方ないんですけど」
「そんなに暗い顔をするな少年。君の安全は、我々が保証する。安心しなさい」
「はい。ありがとうございます」
佐々木は知っている。
彼らが既に、七度にわたって佐々木の殺害を防げなかったことを。
今回、夜月と遭遇して命を拾えたのは、相手の慢心によるものが大きいと、佐々木は考えていた。
そして、奴はまだ生きている。
動けるようになれば、また佐々木の命を狙うために動き出すだろう。
おそらく、次は厳しい戦いになる。
そんな直感じみた感覚が、佐々木の顔を曇らせていた。
状況は最悪に近い。
その中で唯一光明が見えているとするならば、今回はじめて彼女たちが夜月の撃退に成功したことか。
絶望的な状況の中の、数少ないプラス要素だ。
「……まずいな、道が塞がれてる」
「ほかに道は?」
「あるにはあるが……ゾンビが多くなってきてる。急がないとな」
運転席の方から、何やら不穏な会話が聞こえてくる。
道路状況は相当悪いらしい。
「感染の規模も、まだ完全には把握しきれていないらしい。本当に、悪夢の再来だな……」
雲雀の言葉に、佐々木も内心で頷いた。
初めてゾンビウイルスが拡散した時と同じような狂騒が広がっているのが、佐々木にも感じられる。
これを収束させるのは並大抵のことではないだろう。
……人類は、ここから立て直すことができるのだろうか。
現実逃避じみた思考に、佐々木は沈む。
把握できている範囲でも、世界全体のゾンビウイルスによる死者は数千万人にも上るという。
まともに計測することすら難しい国も存在するため、実数はもう少し増えるのだろう。
人類史はじまって以来の大災害。
これまでも大規模な疫病はあっただろうが、今回のそれは本当に人類すべてが壊滅しかねないほどのものだ。
その首謀者があの亜樹だというのだから、渇いた笑いも出てくる。
「…………」
ふと、思う。
セフィラを持つ者には、固有の特異な力が宿るという。
佐々木には限定的な時間遡行の力が、夜月は人間に強制命令をする力が備わっている。
ならば、亜樹にもそれと同じような、特異な力が備わっているのだろうか。
「こっちもダメか……クソ、道が……ここまで来たのに……!」
「応援は?」
「現在の状況では難しいな。
「……やむを得ない。突破するしかないな」
佐々木のとりとめのない思考は、隊員たちの言葉にかき消された。
どうやら、このボロボロの車でゾンビの群れを突破するつもりらしい。
一抹の不安が過ぎるが、それ以外に手段がないのであればやむを得ないだろう。
「雲雀隊長」
「……やむを得ん。どのみちこのままでは、助かるものも助からん」
「了解しました」
隊員の言葉と同時に、佐々木の身体が急激に揺れる。
何かにぶつかるような音が周囲に響き、周囲の気配の色が濃くなった。
それは彼らに獲物と認識されたということに他ならない。
「くっ……!」
隊員の苦鳴が聞こえてくる。
ひしゃげた鉄塊の隙間から外を覗いた佐々木は戦慄した。
前方にはゾンビの大群が群れていた。
この車で突破できるかどうかは微妙なところだろう。
「……あれ」
その光景を見た佐々木は、わずかな違和感を抱く。
ゾンビたちは、明確にこちらを認識している。
それは紛れもない事実だ。
だが、その中に。
単なる捕食以外の気配が含まれているような気がした。
ゾンビたちは傷つきながらも、車両が動きにくくなるような動きをしているように見えたのだ。
「……妙だ」
ゾンビたちの動きを見て、雲雀がポツリと呟いた。
「なにがですか?」
「あの密度なら、他のゾンビに乗って侵入してくることもできるだろう。なぜ奴らはそれをしない?」
「そんなの……」
わからない。
そう言いかけて、佐々木の脳裏におぞましい想像が浮かんできた。
「……足止め?」
「ああ。我々をただここに足止めしたいような、そんな妙な人間味を感じる、ような。……そんなこと、あるはずがないのにな」
「一種の逃避だ、忘れてくれ」と言い残し、雲雀は瞳を閉じた。
もう弾もそれほど残っていない。
最悪の場合に備えて、いつでも動ける体制を整えているのだろう。
妙な胸騒ぎがしていた。
何か致命的なものを見落としているような、そんな違和感。
このままでは取り返しのつかないことになる。
そう直感できているのに、何を見落としているのかがわからない。
嫌な感覚だった。
「――っ!!」
ぞわりと全身が震えた。
自らの命を脅かす存在の接近を、本能がびりびりと感じている。
そんな脅威を佐々木が感じる相手など、一人しか思いつかない。
「――よう。佐々木」
耳元でささやかれたかのような感覚があった。
無論、近くには雲雀と隊員たち、それにゾンビ共の姿しかない。
ない、はずだ。
「…………」
佐々木は遠くへ目を凝らした。
ゾンビたちが揺れるその先に、赤黒い汚れに染まった白衣を纏う者の姿がある。
俯くフードの隙間から、憎悪に塗れた瞳が覗いている。
ほとんど閉じられた左目は、潰れて機能していないように見える。
不意に、ゾンビたちの群れが二つに割れた。
群衆たちの間を、そいつは悠々と歩いてくる。
その姿はまるで、ゾンビの王とでもいうかのような様相で。
「――そいつらを食え。遠慮はいらない」