第93話 仕切り直し
――幸福だ。
ただそこに存在しているだけで幸福だ。
何も煩わしいことはなく、すべてが満たされている感覚がある。
生物として、これ以上の状態はないと断言できる。
仲間たちも皆喜んでいる。
皆と一緒にこの喜びを分かち合うことができる。
至上の幸福を感じる。
この喜びを、さらに多くの仲間たちと分かち合うこと。
それが『民』となり、楽園にたどり着いたトバリの使命。
……『民』?
その単語に、言いようのない違和感を覚える。
それは全能感の中に突然現れた、明確な異物だった。
煩わしい。
消してしまいたい。
完全な状態に戻りたい。
そんな生来的な欲求と同時に、言いようのない感覚が芽生えてくる。
……ダメだ。
トバリにはまだ、やるべきことが残っている。
悠久の安寧を得る資格は、トバリにはない。
得られたとしても、せいぜい永遠の暗闇に落ちるくらいだろう。
安藤、城谷、辻、春日井。
中にはトバリ自身が手を下したわけではない者もいたが、奴らは死に、トバリの目的は達した。
あとは佐々木と中西を殺し――亜樹を殺せばすべて終わる。
終わらせた後のことは考えていない。
ただ、終わらせなければならない。
このパンデミックは亜樹が始めたことなのかもしれないが、トバリの復讐は、トバリ自身が始めたことだ。
それは絶対に譲れない。
……ああ、そうだ。
一つだけ、気がかりなことを思い出した。
琴羽と約束したこと。
すべて終わったら、刹那とユリを探しに行くんだったか。
彼女たちのことを考えても、いまだに何の感情も湧いてこない。
湧いてこないこと自体に、ほんのわずかな寂寥感を感じている。
おそらく、それが答えなのだろう。
先ほどまで全身を支配していた全能感は、もはや影もなく失せていた。
左目から、何かが零れ落ちていく感覚があった。
そこで、トバリは夢から覚めた。
「……っ」
目覚めた瞬間感じたのは、左目の違和感だった。
鉛玉を直接ぶち込まれたのだ。
いくら強化された肉体とはいえ、無事であるはずがない。
「……でも致命傷にはなっていない、か」
いくらか冷静になった頭で、トバリは自身の様子を確かめる。
左目はダメになってしまったが、まだ右目が残っている。
それ以外に、特に目立った外傷はない。
純白だった法衣が銃弾の衝撃に耐えきれず破れ、いくらか血で汚れてしまったくらいだ。
「さっきのは……」
夢、なのだろうか。
生物として、あらゆる幸福が満たされた状態。
究極の全能感、
それをトバリは体験していた。
燃え滾る復讐心がなければ、永遠の安寧に沈んでいたのは間違いない。
『民』となり、楽園で幸福に過ごし続ける。
ある意味、それも幸せのかたちなのかもしれないが。
「楽園、か」
おそらく、トバリは重傷を負い、ゾンビの側に強くひきつけられていた。
彼らはゾンビとなることで、永遠の安寧を手にしたのだ。
死後に安息を手にすることができるのは、唯一の救いなのかもしれない。
生きたまま幸せになれる人間は、そう多くはない。
そういう意味で、亜樹は救世主と呼べないこともない。
人々を救済へと導く、女神のような。
「く」
そこまで夢想して、トバリは苦笑する。
アレがそんな生易しい存在であるはずがない。
亜樹が生き続ける限り、セフィラウイルスの脅威が消えることはない。
トバリが亜樹を殺すのが先か、人類が実質的に滅びるのが先か、微妙なところだろう。
返り討ちに遭う可能性も十分ある。
「……腹が減ったな」
そろそろ自分の指を齧るのにも飽きてきた。
トバリはその辺をふらついているゾンビを掴み、その腕にかぶりついた。
あまり食べすぎると、それはそれで理性が持っていかれてしまう。
ほどほどに抑えておく必要があった。
「『王冠』ー! 大丈夫ですかー?」
遠くの方から、琴羽の声が聞こえてきた。
赤黒い液体で塗れた口元を乱暴に拭い、トバリはその能天気な声に苦笑する。
トバリは無様に敗北した。
今だ佐々木は健在であり、その行方もわからなくなってしまった。
最高指導者様に聞けば、すぐわかりそうなものではあるが。
「なんにせよ、仕切り直しだな」
人間を甘く見すぎていた。
それが今回の、トバリの敗因だ。
次は入念に準備をして、確実に殺す。
トバリは反省し、遠くに見える琴羽に向かって手を振るのだった。