第92話 撤退
自分の指をかみ砕く狂人の姿を見ながら、雲雀は忌々し気に目を細める。
『セフィロトの樹』、『王冠』の『王冠』と呼ばれるテロリストを目にして、彼女は強烈な不快感を抱いていた。
彼のことは、佐々木から聞いていた。
テロ組織、『セフィロトの樹』の構成員、『王冠』の『王冠』を名乗る少年であること。
常識では考えられないことだが、人間に命令した内容を実行させる特異な力を持っていること。
身体は非常に頑丈で、銃弾では致命傷になり得ないだろうということ。
そして、過去に自分が加担していた、いじめの被害者であること。
その恨みからか、自分の命を狙っていること。
到底信じられないような、荒唐無稽な話。
それでも雲雀は、佐々木の話を信じたのだ。
懺悔するように語る佐々木の頭を、雲雀は優しく撫でた。
過去の事実は変えられない。
佐々木のやってしまったことは、どう足掻いても変えることはできない。
でも、これから先。
未来のことは、変えることができる。
佐々木がその体内に秘めている、ゾンビウイルスの抗体。
それは人類にとって、これ以上ないほど大きな希望なのだ。
ワクチンの開発に貢献することが、かつての行いの償いになるなどとは言わない。
言わないが、まずはそのあたりから始めてみればいい。
そのようなことを佐々木に言ったような記憶が、雲雀にはある。
「だが、これは想像以上だな……」
銃弾を受けても、ただ忌々しそうに眉を寄せるだけの少年に対し、雲雀は率直な感想を漏らす。
金属でできた車体を、拳のみで捻じ曲げる馬鹿力に、わけのわからない耐久性。
異常としか言えないその力の一端を、雲雀は嫌というほど見せつけられている。
人間ならとっくにこと切れているであろう数の銃撃を受けても、まるで意に介した様子がない。
そんなもの、いくら撃っても無駄だと言わんばかりに。
とはいえ、奴の身体の重量は人間のそれと大して変わらないようで、銃撃による衝撃は有効なようだ。
今のところ、かろうじて戦況は膠着しているように見えるが、実際はそうではない。
こちらの銃弾の数には限りがあるからだ。
奴を仕留めるには、殺せるだけの準備をする必要がある。
いくら頑丈とはいえ、元は人間である以上、耐久性に限度があるはずだ。
「……私が出るしかないか」
佐々木を手で制し、雲雀は車外へ出た。
今のところ、周囲に自分たち以外の人影はない。
ゾンビもすぐ近くにいる様子はなかった。
「雲雀隊長!? 危険です!! お戻りください!!」
隊員のそんな叫びも、目の前の化け物に意識を集中させる雲雀には届かない。
呼吸を整え、打ち倒すべき敵だけを見据える。
「――――」
少年が陰惨に笑った。
足を踏み出し、一気に距離を詰めてくる。
その迫力は明らかに人間のそれとはかけ離れたものだが――雲雀の目から見れば無駄だらけの動作だ。
「ふっ!」
少年の大ぶりな一撃を、最低限の動作で受け流す。
大きく体勢を崩された少年は、それでもなお雲雀へと手を伸ばそうとするが、
「させんっ!!」
「――!」
隊員たちの銃撃が、ほぼ同時に少年へと着弾する。
無理のある体勢で投げ出された身体は、今度こそ地面へと落ちた。
「隊長!」
「――お前たちは手を出すな」
制止のジェスチャーで、部下たちに銃撃の停止を命じる。
通常の銃撃では、動きを阻害することはできても、決定打にはならない。
ゆえに弾丸を温存し、雲雀だけで奴を引き付ける。
「来い、化け物。お前の相手はこの私だ」
指を引き、わざと挑発するように雲雀は顔をゆがめる。
化け物に残る、わずかな理性を剥がしとるために。
「――――」
化け物が何かを口走ったのが、口元を見てわかった。
何を口走ったのか、とても知る気にはなれない。
狂人の言葉など、理解する必要はないからだ。
「――――!!」
おぼつかない足取りで、狂人が雲雀へと腕を伸ばす。
その動きは素人同然で、彼女にとっては何の脅威も感じない。
最低限の動きで狂人の腕を逃れ、雲雀は相手の懐へと入った。
「っ!?」
狂人の戸惑った気配を全身に感じながらも、自然な動作で投げ飛ばした。
どうやら体重に関しては、本当にただの人間と大して変わらないようだ。
漠然とそんな感想を抱きながら、雲雀は化け物が顔を上げるのを待つ。
「――――」
化け物が顔を上げた。
その瞳には、あまりにも深い憎悪の色がある。
「――知るか」
彼の内に潜む憎しみなど、知ったことではなかった。
同情する気持ちがないわけではないが、彼はすべてを理解したうえで、人類の敵に回っているのだ。
彼女の役割は、人類の希望である佐々木少年を、安全な場所へ送り届けること。
目の前に転がっている化け物をその犠牲にすることを、雲雀はいとわない。
雲雀は引き金を引いた。
その標準は、化け物の左目へと向けられていた。
化け物とはいえ、生物である以上、弱点となる部位は存在する。
その一つが目だ。
たとえ丈夫な体皮に覆われていても、眼球の強度はどの生物もさほど変わらない。
それがまともな生物であれば、の話ではあるが、どうやら狂人にも痛覚というものは存在したらしい。
「――――っ!!!!」
銃撃で跳ね飛ばされた狂人は、眼窩から血をまき散らしながら、道路へ倒れ伏した。
常人であれば、致命となる一撃だ。
本来なら生死の確認など馬鹿らしいが、今回の相手は人間ではない。
「……それでもまだ、死ねないのか」
悲哀とも感嘆とも取れぬ声を、雲雀は漏らす。
狂人の身体は、いまだにモゾモゾと動いていた。
戦える力など残ってはいないだろうが、生きていることには変わりない。
その化け物の姿を見て、雲雀は決断した。
部下たちにジェスチャーを出す。
すなわち、撤退命令だ。
「な……」
雲雀たちの動きを察したのだろう。
佐々木は悲痛な声を漏らした。
それは、彼女がなぜそんな命令をするのか、まったく理解できないとでも言いたげな表情で。
「と、トドメを刺さないんですか!?」
「……無理だ」
瞳を閉じ、雲雀は断言する。
「っ! そんな! あいつを、あいつを殺してください! テロリストなんですよ!? すぐ目の前にいるのに!!」
「今の私たちの装備では、奴を殺すことはできない」
あの化け物に、銃弾はほとんど通らない。
雲雀が取り出せる火力としては、今はこれが限界だ。
「それに、我々の使命はアレを殺すことではなく、君を安全なところまで送り届けることだ」
「それは……」
当然だが、雲雀もテロリストを放置することに忌避感を覚えないわけではない。
アレをこのまま放置すれば、さらに多くの人々の命が脅かされるであろうことは、想像に難くない。
もし雲雀がより強力な武器を持っていれば、躊躇うことなくあの化け物に対して使っただろう。
現実として、アレをこの場所で仕留める手段はない。
そうなると必然的に、アレを仕留めるよりも、いかに佐々木を逃がすかが重要になる。
「奴がひるんでいる今のうちに、君を安全なところまで送り届ける方が優先だ。わかってくれ」
「……わかりました。無理を言ってすみません」
「いいさ。気持ちはわかる」
雲雀の言葉に頷き、頭を下げた少年を尻目に、雲雀はその場から撤収する。
いまだに倒れ伏す化け物をチラリと見て、彼女は後ろを振り返ることはなかった。
雲雀たちを乗せた車は、化け物を避けるように走り去っていった。