第90話 逃走
ゴトゴトと揺れ動く車内で、佐々木は深い息を吐いた。
「――ため息をつくと幸せが逃げるぞ、少年」
すぐ近くから、女性の声が聞こえた。
ひどく冷静なその声色が、この状況ではかえって不自然に映る。
雲雀。それが彼女の名前だ。
黒いスーツに身を包んだ彼女は、一見すればただのOLか何かに見える。
その身のこなしは、素人のそれとは一線を画していたが。
佐々木を警護する護衛部隊の一人である彼女は、部隊の隊長でもある。
女性、しかも実力が重視されるであろう特殊部隊でその地位にいるのだ。
その能力は相当のものだろう。
「いえ……そうですね。弱気になっちゃいけない、ですよね」
「ああ。君は日本の、人類の希望なんだ。なに、これくらいの騒ぎ、すぐに収まるさ」
どこまでも温かな笑みを浮かべながら、雲雀は佐々木の頭をわしゃわしゃと撫でる。
それに少しこそばゆい思いを感じながらも、佐々木の思考はどこか冷めていた。
『セフィロトの樹』、最高指導者である亜樹が、パンデミック首謀者である宣言をした後。
ゾンビウイルスによる感染者、死亡者、完全拡大地域に関する情報が、延々と放送され続けている。
首都圏における、二度目の感染爆発。
これが人為的なものであること、さらに亜樹の目的が人類そのものにとって変わることであることがわかった以上、人類の戦いはゾンビウイルスそのものを駆逐することだけではなくなった。
秘密結社、『セフィロトの樹』の殲滅。
たとえこの先、ゾンビウイルスの特効薬を作成することができたとしても、テロ組織である『セフィロトの樹』を完全に潰さなければ、この戦いに終わりは来ない。
人類が生き残るためには、あの組織を完全に潰さなければならないのだ。
「それにしても、君があの少女と知り合いとはね」
意外そうな表情で、雲雀がそんな言葉を発した。
亜樹との関係については、すでに雲雀にも話している。
これで八度目ともなると、その説明も最小限のものになってしまっていたが。
「知り合いというか、なんというか。僕は彼女の金魚のフンみたいな感じでしたけどね」
「ははっ。何だそれ」
雲雀は佐々木の言葉を笑い飛ばすが、佐々木はとても笑ってなどいられない。
今思えば、当時の佐々木はどうかしていた。
どうかしていたというか、あの少女と一緒にいることこそが、唯一の幸福なのだと疑わなかった。
亜樹も『セフィロトの樹』の構成員だというのなら、パンデミック前の時期から特異な能力を発現していた可能性もある。
特に奴は、『セフィロトの樹』の最高指導者を名乗っていた。
ならば、他の構成員よりも優れた力を持っていると考えるべきだ。
それは必然的に、あの夜月よりも強い力を持っているということを示唆している。
考えるだけで気が滅入ってくるが、なんとかしなければ未来は切り開くことはできない。
亜樹に関しては、佐々木だけでなんとかする必要があるわけではないが、それでもとても楽観視できる状況ではない。
彼女は実際に、人類の半分の滅殺に成功してしまっている。
いつも朗らかに微笑んでいるだけだった少女が、今では本物の化け物にしか思えなくなっていた。
「……まずいな。この辺りまで来ているのか」
雲雀が軽く舌打ちする。
理由は明白だ。
渋滞に巻き込まれ、車が止まっていた。
先の方からは、人々の怒号や悲鳴が聞こえてくる。
ゾンビウイルスの感染拡大地域まで、入ってしまったのだ。
「一旦、引き返しますか?」
「そうだな。頼めるか?」
「わかりました」
雲雀や隊員たちの顔にも、焦りの色は見られない。
この状況で、表面上は平静を保っていられる彼らの精神性は、驚嘆に値する。
雲雀だけでなく、彼らの力も侮れたものではない。
「それでも……」
それでも、勝てないのだ。
あの夜月という悪夢には。
だから今回は、秘策を用意してある。
これを使うことにならなければいいのだが、おそらく使うことになるだろうという、漠然とした予感があった。
「……なんだ、あれ?」
隊員の声に、困惑を含んだ色が混じる。
「どうした?」
「向こうから何か、白い……あれは、人……?」
彼らの会話を聞いた瞬間、佐々木の全身に鳥肌が立った。
「インカムをつけてください! 早く!」
「……! 全員、装着!」
雲雀の号令と共に、隊員たちがインカムを装着する。
佐々木も同じように装着した。
それとほぼ同時に、フロントガラスの破砕音が周囲に響き渡った。
隊員たちの目が、驚きで見開かれる。
突如として現れた、目の前の存在の異質さに。
「よお」
白い影が、フロントガラスをこじ開けながら顔を出す。
酷薄な表情を浮かべた少年が、そんな言葉を漏らした気がした。
悪夢が、姿を現した。