第89話 空振り
「……妙だな」
その場で足を止め、トバリは辺りを見回す。
ホテルへと足を踏み入れたトバリは、明確な違和感を感じていた。
「どうしたんですか? 早く行きましょう」
「『峻厳』。この景色に見覚えはないか?」
突然のトバリの言葉に、琴羽は瞳を揺らした。
そこには明確な、戸惑いの色がある。
「……えっと。『王冠』はこの景色に見覚えがあると?」
「ある。初めてきた場所のはずなんだが」
それが何故なのか、トバリには答えが出せない。
だが、トバリの本能とも言える部分が、強く訴えるのだ。
お前がこの場所を訪れるのは、初めてではないと。
「……まあいい。やることは変わらないからな」
トバリはエントランスに立つ、二人の女性の前に立った。
全身白づくめのトバリたちを前にしても警戒した様子を見せないのは、さすがのプロ意識といったところだが、
「お客様、申し訳ございません。ゾンビウイルスの感染再拡大のため、本日の営業は――」
「このホテルに、佐々木という少年は滞在しているか? 答えろ」
トバリが問いかけると、女性はにこやかな笑みを浮かべる。
「少々お待ちください」
そう言って、奥へと引っ込んでいった。
少し経ってから、女性が再び姿を現す。
「お待たせ致しました。佐々木様でしたら、1012号室に長期滞在しておられます」
――いる。
その事実に口元が歪むのをこらえながら、トバリは言葉を続ける。
「そうか。中西という少年は?」
「中西様も、1012号室に滞在しておられます」
中西と佐々木が、ここにいる。
その事実に、トバリは喜色を隠せなかった。
「そうか。ありがとう。二人とも、ここに僕たちが来たこと、ここで聞かれたことはすべて忘れるように」
「かしこまりました」
トバリが彼女たちの横を通りすぎると、彼女たちは何事もなかったかのように仕事へと戻っていった。
一連の様子を眺めていた琴羽が、ポツリと言葉をこぼした。
「何度見ても恐ろしいですね、『王冠』の能力というのは……」
不思議なことだが、その言葉を聞いたのも、初めてではない気がしていた。
二人でエレベーターに乗り込み、10階のボタンを押す。
「…………」
身体の上昇を感じながらも、トバリは漠然とした予感をしていた。
おそらく、この先に中西と佐々木はいない。
そんな予感を。
エレベーターから降り、1012号室へと向かう。
周囲に警護の人間でもいるのかと思っていたが、全くの無人だ。
いささか拍子抜けしながらも、トバリはドアを開けた。
「…………」
「……あれ? いませんね?」
1012号室は、もぬけのからだった。
一見すると普通のホテルと変わらないが、人間が長期間生活していたような、妙ななごりのようなものを感じる。
ベッドに触れると、微妙にヒトの体温の残滓を感じた。
おそらく、脱出してからそれほど時間は経過していないのだろう。
「……なるほど」
奴らが偶然、トバリたちとすれ違うように拠点を移動したとは考えにくい。
当然ながら、奴らがこの襲撃を知り、逃げるように去ったとしか思えなかった。
『セフィロトの樹』の中でも、『基盤』奪取のための奇襲の事実を知るものはごく僅かにすぎない。
その中で佐々木に味方し、亜樹の逆鱗に触れるようなことをする動機がある奴は、トバリの知る限りでは存在しない。
状況から判断し、トバリは一つの結論に辿り着いた。
「……奴の、佐々木の、『基盤』の力、か?」
「セフィラの固有能力ですか。たしかに可能性はありますね」
トバリの言葉に、琴羽も同意する。
『基盤』の力は、いまだに未知数のままだ。
佐々木がセフィラの力を十全に引き出すことができているのだとしたら、その脅威度もまた未知数。
あまり舐めてかかると、足元を掬われるのはトバリの方になるかもしれない。
「でも、逃げた、ってことは、自分の方が弱いと理解しているということでもある」
逃げる。
その選択肢を取るということは、佐々木が明確に、トバリたちのことを脅威として認識しているということに他ならない。
自分の方がつよいのであれば、真っ向から立ち向かうなり、奇襲をかけるなりすればいいからだ。
「……もしかすると『基盤』の力は、未来を予知する力、なのかもしれないな」
トバリの呟きに、琴羽は露骨に顔をしかめる。
「だとしたら厄介ですね。向こうの力がどれほどのものなのかわかりませんが、ずっと未来を予知されて逃げ続けられたら、わたしたちでは捕まえられません」
「ああ……」
戦闘ではそれほど役に立つとは思えないが、迫りくる脅威から身を守る能力と考えれば、これほど面倒なものはない。
正直、頭を抱えたい気分になる。
「仕方ないな」
トバリは決断した。
奴の能力も気になるが、佐々木は一つ思い違いをしている。
トバリと琴羽を撒いたくらいで逃げ切れるほど、『セフィロトの樹』は甘くないのだ。