第86話 強襲
純白の法衣を纏った二人は車から降りると、ホテルに入っていった。
本当に何の変哲もない、ただのホテルだ。
立地を考慮に入れると少し高級な部類に入るのかもしれないが、どうでもいい。
「……あ?」
ふと、ほんのわずかな違和感が、トバリの脳裏を掠める。
この景色を、前にも見たことがあるような、そんな感覚があった。
そんなはずはない。
トバリがここに足を運んだのは、今日が初めてのはずだ。
気にするほどのことでもない。
そう割り切って、目の前の景色に思考を切り替える。
エントランスには、若い女性が二人しかいなかった。
何の問題もない。
「お客様、申し訳ございません。ゾンビウイルスの感染再拡大のため、本日の営業は――」
「このホテルに、佐々木という少年は滞在しているか? 答えろ」
トバリが問いかけると、女性はにこやかな笑みを浮かべる。
「少々お待ちください」
そう言って、奥へと引っ込んでいった。
少し経ってから、女性が再び姿を現す。
「お待たせ致しました。佐々木様でしたら、1012号室に長期滞在しておられます」
――いる。
その事実に口元が歪むのをこらえながら、トバリは言葉を続ける。
「そうか。中西という少年は?」
「中西様も、1012号室に滞在しておられます」
中西と佐々木が、ここにいる。
その事実に、トバリは喜色を隠せなかった。
ここに来たのは、無駄足ではなかったのだ。
「そうか。ありがとう。二人とも、ここに僕たちが来たこと、ここで聞かれたことはすべて忘れるように」
「かしこまりました」
トバリが彼女たちの横を通りすぎると、彼女たちは何事もなかったかのように仕事へと戻っていった。
その後ろに、琴羽も続く。
「……何度見ても恐ろしいですね。『王冠』の力というのは」
琴羽の思わずといったつぶやきに、トバリは何の反応も示さない。
『慈悲』の春日井に殺されかけ覚醒した時から、自分の中にある『王冠』の力が増幅し続けているのを、トバリは感じていた。
今ではゾンビだけでなく、ただの人間に命令し、それを忘れさせることも可能だ。
便利と言えば便利だ。
だが、自分の意志とは無関係に強くなっていくそれを、トバリはあまり好ましく思っていなかった。
とはいえ、弱くなるよりはマシか。
そんなことを考えるトバリと琴羽を乗せたエレベーターは、無事に十階へと到着した。
受付の女性の言葉が正しければ、ここに佐々木と中西がいるはずだ。
「――『峻厳』」
「ええ、わかってます。いますね」
閉じたエレベーターの扉の先に、複数の気配がある。
扉が開く。
トバリはフードを深くかぶり、正面を見据える。
「動くな!!」
エレベーターが開いた瞬間、男の声がトバリの耳に届いた。
黒の防護服を纏った男たちが、トバリと琴羽に銃口を向けている。
その数は六。
「両手を上げて、そのまま後ろを向け!」
トバリは緩慢な動きで後ろを向いた。
襲撃を読んでいたかのような待ち伏せに、トバリは首を傾げる。
このタイミングで、トバリと三田がここに襲撃をかけることは、『セフィロトの樹』の幹部クラスしか知らないはずだ。
亜樹が演説を行ったのはつい先ほど。
それまで、このパンデミックが人為的なものであるという認識はなかったはずだ。
セフィラウイルスの抗体を持つ佐々木に護衛をつけるにしても、この数は多すぎる気がする。
そもそも護衛ならば、エレベーターを出た瞬間のトバリに、問答無用で銃口を突き付けるようなことはすまい。
どこからか情報が漏れていた。
そう考えるのが妥当だろう。
どちらにせよ、本人たちに直接聞いてみたほうがよさそうだ。
トバリはそう判断し、口を開いた。
「――動くな」
「は?」
そう言うと、黒服たちの動きが止まる。
トバリが再び前を向くと、銃を構えたまま硬直する黒服たちの姿が目に飛び込んでくる。
彼らの瞳には、色濃い困惑があった。
「なんだこれは……身体が、動かない……?」
彼らの戸惑いの声に、トバリが答えることはない。
『王冠』の能力に、時間制限はない。
トバリがいいと言うまで、彼らはずっとこのままだ。
だから、佐々木を始末するのが先だろう。
「ここか」
トバリはそう判断し、近くにあった1012号室の扉に手をかけた。
案の定というべきか、鍵がかかっていたので蹴破る。
「…………いない?」
部屋はもぬけの殻だった。
佐々木はおろか、重病人であるはずの中西の姿もない。
誰かがいた形跡はあるが、それはただの痕跡にすぎない。
――逃げられた。
そう考えるしかなかった。
「……なるほど」
トバリは廊下へと踵を返し、一人の黒服の胸倉を掴む。
「ぐっ!」
「僕の質問に答えろ」
トバリが黒服の目を見ながら、静かに言った。
黒服の目が虚ろになる。
「僕たちを待ち伏せしていたのはなぜだ?」
「ここでお前たちを待ち伏せていたのは、雲雀隊長の命令だ」
「雲雀? 佐々木の関係者か?」
「雲雀隊長は、佐々木少年の警護隊の隊長だ」
どうやら、佐々木は相当なVIP待遇を受けていたようだ。
いや、ある程度納得の感情もあった。
この世界で唯一、セフィラウイルスの抗体を持ちながら人類に協力的な人間かもしれないのだ。
その有用性は計り知れないものがある。
「佐々木はどこにいる?」
「今は、雲雀隊長が彼を輸送中だ」
「どこに?」
トバリが問いかけると、男は聞きなれない施設の名前を言った。
それを頭の中に書き留め、男から目を逸らす。
それだけで、男は床に倒れ伏した。
気を失ったのだ。
「あまりやると、廃人になるのでは?」
「これくらいなら問題ない」
琴羽からのあきれたような指摘に、トバリは雑に返答する。
だいたい、こいつらが壊れようが、トバリにとってはどうでもいいのだ。
佐々木を侮っていたトバリは、彼の評価を改めた。
トバリたちの襲撃を知っていたことといい、油断できる相手ではない。
確実に始末する必要があった。
「雲雀との連絡手段はあるか?」
「携帯がある。こちらから連絡を取ることも可能だ」
「電話しろ。テロリストと思しき二人を捕らえたと言え」
「わかった」
男の一人が、懐から携帯を取り出し、かけ始める。
しかし、繋がらない。
他の男たちでも試してみたが、ダメだった。
「…………」
トバリは黙っていた。
腸が煮えくり返っていた。
ここまで。
ここまで、復讐対象にいいようにされたのは、初めてだった。
完全にこちらの行動を読まれている。
理由はわからないが、今回はトバリの負けだ。
「『峻厳』。こいつらを当分動けなくなる程度に痛めつけろ」
「いいんですか? 殺さなくて」
「うっかり殺してしまいそうだからお願いしてるんだよ」
トバリの声が本気だったのを感じたのか、琴羽が嘆息する。
やれやれとでも言いたげな表情だ。
「しょうがないですね、まったく……」
琴羽がつぶやくと、男たちの手が抉れた。
「ぐぎゃぁぁああああああああああ!!!」
血が噴き出し、手の甲の骨だけが異常に捻じ曲がっている。
手術をして治るものなのだろうかと気になったが、それも一瞬のことだ。
ひとまず、これで大丈夫だろう。
「それで、どうするんですか?」
「ああ、正直言って、あまり気は進まないんだが……」
トバリはそう言って、法衣の中から携帯を取り出した。
今や、テロリストであっても携帯を持っている時代である。
人間には、恥を忍んででもやらなければならない時がある。
卑怯な手を使ってでも、勝利を掴まなければならない時がある。
トバリは、今がその時だと判断した。
「亜樹。『基盤』を逃がした。奴が今どこにいるかわかるか?」
つまり、カンニングである。