第82話 夜の遭遇
昨日も更新しております。
琴羽が寝静まったあと、トバリは一人屋敷を散策していた。
部屋には鍵がかけられるようになっていたので、しっかり施錠しておく。
今晩の夕食に、琴羽の丸焼きが出てきたらさすがに困るからだ。
「大丈夫だと思うけど、あまり留守にするのも危ないよな」
沢城亜樹という人間に対する信頼度がマイナスに振り切れているトバリにとって、彼女は次の瞬間には何をしでかしてもおかしくない化物だ。
冗談半分本気半分といった心情だが、琴羽とはできる限り一緒にいるようにする。
「ん?」
トバリがそんなことを考えながら廊下の窓から外を眺めていると、噴水の近くのベンチに人影があるのに気付いた。
亜樹だ。
そこに座ったまま、微動だにしない。
「なにやってんだ、あんなとこで」
日向ぼっこでもしているのか。
もう夜だが。
『セフィロトの樹』の最高指導者様は、ずいぶんと余裕のある人物のようだ。
トバリがそんなことを考えていると、不意に亜樹が目を開いた。
そのまま何の迷いもなくトバリのほうを向き、わずかに口元を歪めながら手招きをする。
「……来いってか」
ちょうどいい。
トバリも、亜樹には聞きたいことが山ほどある。
殺してしまったあとでは聞けないことが、山ほど。
「こんばんはトバリ。さっきぶりね」
トバリが中庭まで降りると、笑顔の亜樹が彼を出迎えた。
左手でポンポンと、ベンチの隣のスペースを叩いている。
座れということだろう。
トバリは黙ったまま、亜樹の隣に腰かけた。
「なにやってんだ? 星でも見てるのか?」
「誰もいないところで、何も考えずにぼーっとするのって、最高だと思わない?」
「おっしゃる通りで」
亜樹なりの休憩中だったようだ。
彼女は彼女で、色々と考えることがあるのだろう。
普段何を考えながら過ごしているのかは、恐ろしいのでとても聞く気になれないが。
「中西くんと、佐々木くんの居場所を聞きにきたの?」
「話が早くて助かる」
元々、食事の時に聞き出そうとしていたことだ。
また話をはぐらかされると面倒なので、聞けるときに聞いておきたい。
そんなトバリの懸念をよそに、亜樹は普通に答えた。
「彼らは東京都、新宿区のホテルの一室にいるわ。……でも、うかつに手を出せない」
「は? なんでだよ?」
トバリは疑問の声をあげる。
適当に車か何かで向かって、サクッと仕留めてくればいい話ではないか。
「警備が厳しいのよ。彼ら、特に佐々木くんは厳重な管理下に置かれているみたい」
「……奴らがなんで、そんな好待遇を受けてるんだ? ただの高校生だろ?」
「それが、そうでもないのよね」
亜樹は嘆息し、言った。
「佐々木くんには、『基礎』のセフィラが宿っているのよ」
「……なに?」
「彼はゾンビから噛まれたにもかかわらず、発症しなかった。それが避難先の都内で知られてしまった。厳重な管理下に置かれるのも当然よね」
「……仮にそれが本当だとするなら、そうなるだろうな。セフィラウイルスに抵抗できる人間から、ワクチンを作ることができれば……」
「そう。この悪夢が終わると、そう思っているのよ。願っているといったほうが正しいかしら」
もし、セフィラを持つ人間が、この感染爆発を止めるために尽力したとするなら。
膨大な数の犠牲者を出しながらも、いつか間違いなく、事態は収束するだろう。
「今の日本が比較的落ち着いているのも、自分たちの目に見えるところにゾンビがいなくなったのと、ウイルスに対抗できる人間を発見したことが大きいと思うわ」
「……なるほど、な。佐々木についてのだいたいの状況はわかった。じゃあ中西はどこにいるんだ? あいつも同じ場所にいるのか?」
「中西くんは、運がよかったのね。佐々木くんと一緒にいたおかげで、佐々木くんの血を分けてもらえた。おかげで今も、なんとか生き延びてるみたい」
亜樹の発した言葉の意味を、トバリは咀嚼する。
つまり、中西は。
「感染したのか」
ええ、と亜樹は頷く。
「別におかしな話じゃないでしょう? セフィラを持たない人間には、セフィラウイルスは等しく牙を剥くわ」
「そうか。そうだよな」
今まで、復讐対象がまともに生きているだけで、ラッキーだったのかもしれない。
こんなことになった世界で、何の力もない少年が生き続けるのはなかなか難しいだろう。
「わたしも気分が悪いの。まるで自分のおもちゃを、見知らぬ他人に勝手に使われていたような不快感」
「まるでこの世のすべては自分のおもちゃとでも言いたげだな」
「おおむねその認識で間違ってはいないのだけれど……」
もはやどこから突っ込んでいいのかわからない。
トバリは嘆息し、亜樹への言葉を飲み込んだ。
「近日中に、わたしたちは佐々木くんが滞在しているホテルを急襲して、彼から『基礎』のセフィラを取り出すわ。そのあとは、トバリの好きにすればいい」
「そうかよ。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらう」
存外あっけないものだと、トバリは思った。
これまでの四人と違って、中西と佐々木は幽閉されているという。
中西に至っては、セフィラウイルスで死にかけているとなると、逆に笑えてくる。
そんな連中に暴力を受け、屈辱に耐えていた自分が情けない。
とはいえ、一番の加害者は目の前にいる女なのだが。
「ねえ。今、『つまらない』って思ったでしょう?」
「思ってねぇよ。やっぱり、お前が一番の加害者だったなと思ってただけだ」
「……やっぱり、わたしのことも許してないのよね」
「ああ? 当たり前だろ。今すぐ殺されないだけ感謝してほしいぐらいだよ」
悲しげに目を伏せる亜樹に、トバリはイライラしながら言葉を返す。
この期に及んで、目の前の女は何を言っているのだろうか。
許してほしいなどと言い始めたら、今すぐにその首をへし折ってやろう。
そんなことをトバリは真剣に考え始めていた。
「ねぇ。どうしてわたしは、トバリのことをいじめていたんだと思う?」
「ああ? 知らねぇよ」
「それじゃあ教えてあげる。それはね、楽しかったからよ」
「……そのままだな」
何か理由でもあるのかと思えば、ただ楽しかったから。
そんな理由でやられる方もたまったものではない。
「わたしにはすべてが見えるの。だから退屈で退屈で仕方ないのよ」
亜樹は真剣な顔で、わけのわからないことを言う。
すべてが見えるとはどういうことなのだろうか。
適当に話しているだけという可能性もあるが。
「その割には、ずいぶんと楽しそうに見えるけどな」
「トバリについてのものだけは、昔からずっと見えないの。だから面白かったのよ。痛めつけて苦しそうな顔を見るのも、こうして話してるのも、ね」
「そうかよ」
トバリは亜樹の言葉を、狂言の類と判断することにした。
そうでなければならない。
すべてが見える、などという能力が存在するのなら、それはもはや人の領域をはるかに超越している。
そんな存在を殺せるとは思えない。
「ねぇ。やっぱり、わたしと一緒に世界を支配しない?」
上目遣いになりながら、亜樹がトバリにそう提案する。
「突然なにを言い出すんだ、おまえは」
「一人だと退屈なのよ。誰もわたしの隣には並べない。トバリもまだまだダメダメだけど、なにをするかわからないから面白いの」
「ダメダメとか久しぶりに聞いたな……。というか、お前には仲間がいるんだから、あいつらとやればいいじゃないか」
「あの子たちじゃだめなのよ。ぜんぶわかってしまうから」
亜樹の黒曜石のような瞳が、トバリを見つめる。
今までそれほどまっすぐ、誰かに見つめられた記憶はない。
まして、殺したいほど憎んでいる相手に、そんな視線を向けられるなど、想像だにしていなかった。
「もし、仮に僕がすべて許してお前と行くって言ったら、お前は僕になにをくれるんだ?」
「――すべてをあげるわ。わたしがあげられるもの、あなたが望むもの、すべてを」
トバリから目を離さず、亜樹は囁く。
それはまるで、告白のようだった。
あまりに蠱惑的で、甘美な響きだ。
しかし、トバリにもさすがに直感できる。
亜樹のそれが、そんな生易しい提案ではないということが。
「……考えとくよ」
それだけ言って、トバリはその場を後にした。
これ以上この場に二人でいると、何をされるかわかったものではない。
去り行くトバリの背中を、亜樹はただ無言で見送っていた。