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第68話 最悪の朝

※こちらは第59話『ティファレト』のトバリたちの視点の続きになります。




「……う」


 冷たい風が顔を撫でる感触に、トバリの意識がゆっくりと覚醒する。

 頭がぼんやりとしたまま視線を周りに向けると、彼は今の状況を思い出し始めた。


 トバリが寝ていた場所は、床の上だった。

 寝ていた部分だけは体温により微妙にあたたかくなっていたが、保温性はお世辞にもいいとは言えない。


 その表面には至る所に正体不明の汚れが付着しており、生理的な嫌悪感を湧き上がらせる。

 硬い床の上で眠っていたからか、トバリの全身が鈍い痛みを訴えていた。


 ここは、ショッピングモールの中にある、テナントのうちの一つだ。

 元は衣料品か何かを取り扱っていた店のようだが、その面影はほとんど残されていない。


 テナントの入り口のほうは表の通路に直結しているが、近くに何体ものゾンビの気配がある。

 三田が見張りとして配置している者たちだ。


 昨日も試してみたことだが、ゾンビ達はトバリの命令を聞くそぶりを見せない。

 これはおそらく、トバリがしばらく人肉を食べていなかったせいで能力の効果が弱くなり、トバリの能力よりも三田の能力が優先されているせいだ。

 トバリの能力も、万全の状態の『知恵コクマー』が相手では分が悪いのだろう。


 近くでは、城谷と辻が死んだように眠っている。

 顔は何度にも渡る殴打のせいで腫れ上がっており、全身を覆う衣服は薄汚れている。

 臭いも酷かった。


 もっとも、トバリもあまり人のことを言えるような状態ではない。

 セフィラが身体の自然治癒能力を向上させているため、春日井の暴力による痕はほとんど残っていないが、衣服や臭いに関しては城谷たちに負けず劣らず酷い有様だ。


 また、トバリの両手両足には手錠が嵌められており、容易には動くことすらできない。

 隙を見て逃げ出すのも難しかった。


「……っ!」


 トバリが自身の置かれた状況を確認していると、遠くの方から足音が聞こえてきた。

 昨日にも聞いた覚えのあるその音に、トバリは警戒の色を強くする。


 その音は二人分。

 まるで昨日の再来のような状況だが、トバリはそれが誰のものなのかわかっていた。


 そして、


「おはよう。お目覚めの気分はどうだぁ、カス共ぉ?」

「……」


 いやらしい笑みを顔面に張り付けた春日井と無表情の三田が、再びトバリたちの前に現れたのだった。








「げふっ!?」

「オラいつまで寝てんだカス。さっさと起きろ」


 春日井の容赦のない蹴りによって、城谷が目を覚ました。

 近くでは、辻が小さくなって震えている。

 そんな彼の様子に、春日井は満足そうに頷いていた。

 

 城谷も辻も、決して安眠できていたわけではない。

 春日井の容赦のない暴行の末に意識を失い、そのまま放置されていただけだ。

 まともな睡眠など取れていないだろう。


 三田はそんな春日井の蛮行を静観している。

 亜樹の命令によって三日間はトバリたちの監視をすることになった三田だったが、最低限の仕事しかしないつもりらしい。


「しっかし、セフィラってのは本当に大したもんだな……。肉を大して食ってないはずの夜月でも、一晩も経てばそこまで回復しちまうのか」


 トバリの様子を見て、春日井がそんな言葉をこぼした。

 昨日、見るも無残なほどにボコボコにされたトバリだが、その痕跡はほとんど消えている。

 それ自体は喜ぶべきことではある。


「まあでも、俺としてもこっちのほうがいい。傷だらけの身体に傷をつけるより、傷のない身体に傷をつけたほうが楽しいからなぁ」

「――――っ」



 

 ――だが、身体の傷は癒えても、心の底にこびりついた恐怖までは消えてくれない。




 それはトバリの思考と行動を、強く制限する鎖となる。

 そして、春日井はそのことをよく知っていた。


「セフィラ持ちを殺したいなら、頭を潰すのが一番手っ取り早い。前の『知恵コクマー』も、そうやって夜月に殺されたようだからな」

「じゃあ逆に、頭以外をどこまで残したまま殺せるか試してみるか? 俺はそれでも全然構わねぇぞ?」

「……やるのは止めないが、やるならそいつら以外で試してくれ」

「それを決めるのはアンタじゃねぇんだよなぁ……」


 三田の発言に、春日井がイライラした様子で返答する。

 アットホームで和やかな、一触即発の空気だ。

 どうやら、三田と春日井はかなりソリが合わないらしい。


「まぁ安心しろよ。亜樹さんから言われてる以上、俺はまだお前らを殺せない。……ってことは、俺が何をしても、お前らは死ねない(・・・・)ということでもあるんだけどなぁ」

「――――」


 いやらしい笑みを浮かべる春日井の言葉は、決してトバリたちの身の安全を保障するものではない。

 むしろそれは、まったく逆の意味合いを含むもので。


「ま、お前らと遊ぶのはもうちょっと後からだな。俺もなにかと忙しいんでね」


 そう言って、春日井は法衣の下からおにぎりを取り出した。

 ラップに包まれた、手作り感が漂うものだ。

 トバリたちの目の前で、彼はそれを何の遠慮もなく咀嚼そしゃくし始める。


 もちろん、トバリたちは昨日の昼から何も食べていない。

 『慈悲ケセド』の春日井に、捕虜に対して食糧を与えるような慈悲は存在しない。


 だからといって、城谷のその行動はトバリにとって到底理解できるものではなかった。


「あ……」


 城谷の視線が、春日井の視線と交差する。

 その瞳に込められた思いに気付き、春日井は表情を崩した。


「そんなに物欲しそうな目で見ないでくれよ。俺だって人間だ。マトモな飯も食っとかないとイカれちまうからなぁ。アンタも少しは食っといたほうがいいぜ?」

「俺はいい」


 春日井が新しく取り出したおにぎりを、三田はやんわりと断った。

 その態度に春日井は少しムッとした様子だったが、すぐにその手を戻す。


 しかし、城谷の視線がおにぎりを追っているのに気づくと、わかりやすい微笑を浮かべて、


「……どうした? もしかして、これが欲しいのか?」

「…………」


 城谷は押し黙ったが、その意識は明らかにおにぎりの方に向いている。


「なんだ? いるのかいらねえのかハッキリしろよ」

「……ほ、ほしい。昨日から何も食べてなくて、腹が減ってるんだ……」


 城谷が喉の奥から絞り出した声に、トバリと辻も驚きを隠せない。

 もちろん、トバリもお腹は空いている。

 だが、まだまだ我慢できないほどではないはずだ。


 『慈悲ケセド』である春日井にそんなものを要求するのがどれほど危険な賭けなのか、城谷は絶対にわかっていない。

 現に今、春日井はトバリが今までに見たことのないような表情をしている。




 ――悪魔が笑いを必死で堪えているような、そんな表情を。




「……しょうがねぇなぁ。ほらよ」


 だが、トバリや辻にとっては意外なことに、春日井はあっさりとおにぎりを城谷の方に投げた。

 投げられた城谷は、それを慌ててキャッチ……しようとして、惜しいところで落としてしまう。


「ぷっ」


 ラップに包まれているため大したことではないが、その様子は春日井にとってはかなり愉快な見せ物だったらしく、一人で吹き出していた。

 そんな春日井を見ないようにしながら、城谷はおにぎりに巻かれているラップを急いで外し始める。

 そして、なぜかトバリたちの方を向いて、


「いやー。それにしても、お前はすごいなぁ」

「え?」


 城谷が、何もわかってなさそうな顔で春日井を見た。

 そんな彼とは対照的に、春日井の表情は明るいものだ。


「だってこの状況で、夜月や辻に何の遠慮もしないで、一人でそれを食べるつもりなんだろ? いやはや、素晴らしい勇気だと思うよ、俺ぁ」

「…………っ! 違う!」


 春日井からの賞賛の言葉に、城谷が声を荒げる。

 トバリは、その様子をただ白けた目で見ていた。




 ――やはり、何も変わってなどいなかったのだ。




 城谷は、亜樹に買収される前の三田や、スーパーに篭城していた他の人たちが比較的まともだったから、改心できているように見えただけだったのだ。

 辻に関してはまだなんとも言えないが、どうせ似たようなものだろう。


 もしかしたらトバリは、少しだけ期待していたのかもしれない。

 城谷や辻が、心を入れ替えて真っ当な人間になったのではないかと。


 だが、そんなことはなかった。

 結局人間は、そう簡単には変わらないのだ。


「い、一緒に食べようぜ。少しは腹の足しになるだろ」


 少しどもりながら、城谷がおにぎりをトバリたちの方へと差し出してくる。

 そんな彼のことを黙って見ているのは、トバリだけではない。


「…………」


 辻もまた、城谷に対して懐疑的な視線を向けていた。

 そこにあるものを察知して、城谷もまた押し黙る。


「あはは」


 そんな空間を、わざとらしい笑い声が破壊した。


「ほんと面白いなぁ、お前ら」


 春日井のそんな言葉と同時に、城谷の身体が後方に吹き飛んだ。

 床の上を何回か回転し、テナントの入り口あたりの場所まで転がっていった。


 何の容赦もない、セフィラによって向上した身体能力を十全に使った蹴りだ。

 内臓の一つや二つくらいは破裂していてもおかしくないような威力に、さすがのトバリも冷や汗が止まらない。


 城谷が持っていたおにぎりも、床の上に転がっている。

 その上を、白い法衣の影が覆った。


「おっと悪ぃ。踏んじまった」


 そう言いながら、春日井は何度もおにぎりを踏みつぶす。

 おにぎりだったものが床にこびりつき、それが何がなんだかわからなくなると、春日井は微笑をこぼして、


「そんなんでもよかったら三人で仲良く食べてくれ。なに、礼は要らねえからよぉ」


 春日井は機嫌良さそうに笑いながら、トバリたちの前を後にする。

 三田も彼を追うように、その後ろについていた。


 ……今朝は、大したことをされずに済んだ。

 そのことに安堵してしまっている自分がいることを、トバリは自覚してしまっている。




 かつて避難民たちが集まっていた、ショッピングモールの二階。


 ……何の打開策も希望もないまま、トバリたちはそこにいた。





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