結・女の子は横を向きつつ、僕から傘を受け取ろうと手を伸ばす
紫色のアロハシャツの胸ポケットから、ペンとメモを取り出した。
僕なりに、確認と検証と鼎談を慎重に行った結果がこうして記録されているのだけれど、滲んだインクと濡れたメモで、それも混じりあってよくわからなくなっている。
シャツもびっしょりだ。脱いで絞って、ハンガーにかけ、部屋の中央の電灯のふちに引っ掛けておいた。
ぽたりとたれた水滴が、カエルの額にぶつかる。
「やがて答えは出そうなんだけど。なんでその答えが導き出されたのかは、その頃にはよくわからなくなっちゃってるんだよね。こういうふうに」
図形やグラフや鼎談用の僕の別人格のイラストが描かれた、いや、描かれていたはずのメモを、ペンと一緒に床に置く。
カエルは僕の言葉を気にかけることもなく、メモに飛びついてくわえ込み、更にグシャグシャにしてしまった。
もうこれで本当に、何が書かれていたのかが、よくわからない。ここしばらく僕が何を調べていたのかも、よくわからない。
残ったのは、びしょ濡れになって得た、ひとつの推論めいた結論だけだ。
「困ったやつだ、カエルのやつは」
僕が床下の声に気づいたのは、その時だった。もぐらだ。
「なんだか久しぶりですね」
「声はかけてたんだよ。だけどこの土砂降りの雨でしょ。たまに呼びかけても、気づかなかったみたいでさ」
雨は激しさを増していた。ドザー。ピシャン。ガカッ。……ザアー。ずっとそんな調子だ。
「怒られないのをいいコトに、しばらく好き放題タップを踏んでいただろう。いいかげんにしてくれる」
「すみません」
「まあ、これだけ雨や雷がひどければ、君が踏み鳴らす振動は伝わるとはいえ、タップの音はろくに聞こえなかったけどね」
「僕もです。あなたが呼びかける声も、スコップで突く音も、ずっと聞こえてませんでした」
「スコップ?」
「ほら、あの床下からコンコンってつつくやつですよ。あれ、スコップでしょう。今日は鳴らしていませんよね」
「君はあれか? 虫歯菌は口の中で三叉の槍を持って暴れていると信じるタイプの人間か?」
「うーんと、どうですかね」
「床下にいる、見えていない相手に向かって、『もぐらだからスコップを持っている』と、勝手に思い込んでいるだけだろう」
「あー、言われてみると」
僕は床に耳を合わせて、床下のもぐらの音をよく聞いてみた。つつきあげていた音が本当は何の音なのかを、聞き分けるためだ。
でも、スコップめいたあの音は、鳴らない。もぐらが僕に呼びかける声がするだけだ。
それと、床でじたばたしているカエルと目が合うだけ。
「そいつ、好きにさせていていいの」
「カエルのことですか」
「うん、そう」
カエルは僕が置いたメモをくわえこんで、丸めた紙くずのようにしてしまい、更にはペンから漏れたインクを被って、不思議な模様で自分をコーディネートしてしまっていた。
グシャグシャになったメモは、紙の折れ方とちぎれ方、文字やイラストの滲み方で、笑顔の女の子の像をなんとなくそこに錯覚させている。
いや、それは元々僕が描いた絵だったかもしれない。とにかくカエルの目はハートだった。
「女の子に会ってから、ずっとこんな調子で」
「大海も知らないくせして、酒の味を覚えたと思ったら、今度は女」
呆れるもぐらの声をよそに、カエルは引きちぎったメモをくわえながら、巣に戻っていった。
最近このカエルは、タッパーウェアに住んでいる。
同じタッパーにとどまること無く、ひとつが飽きたら次のタッパーへと移り住むので、僕はいちいちタッパーを洗い直さないといけない。
いつ急にまたあの女の子が来て、タッパーを返せるかもしれないのに。その時のために、洗って干して乾かしておかないといけないんだ。外は、雨なのに。
ちなみにあのとき女の子を追ったカエルは、しばらくして落胆した様子でこの家に戻ってきた。
あれから女の子は姿を表さない。傘とタッパーウェアを返したいのだけれど。
仕方がないので、僕とカエルは、ここで待つことにした。なのに雨は否応なしに激しさを増し、人の往来を全力で潰しにかかる。
抗うように僕は家の中でタップを踏み続けた。当然その抵抗には何の意味もないので、僕は疲れるだけだったし、雨はお構いなしに降っていた。
例えるならこれは、横でたばこを吸い始めた人に抗議するつもりで、全力でクロスワードパズルを解き始めるようなものなので、何の意味も因果関係もないのだ。
でも、クロスワードパズルは解けていく。解いている人の能力次第で、解けないこともある。
僕は室内で踊っている。シャツは胸の染みを残したまま、乾いていく。
玄関の呼び鈴が押されたのが、その時だった。僕は驚きを感じた。
我が家のインターホンは電池が切れかかっているせいで、今や呼び鈴の音がろくに響かないのだ。「ピィンフォーーン……」程度しか鳴らない。
そんな間の抜けた音が、タップを踏んでいる僕の耳に届くということは、それだけ周囲に雑音がなく、静けさに満ちているからだといえる。
あれほどひどかった雨が、いつの間にか止んでいるじゃないか。
「傘を引き取りに来たんですけれど」
玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、幾分雨に濡れた女の子だった。
「忘れていったものね、はい」
「きゃあ」
女の子は横を向きつつ、僕から傘を受け取ろうと手を伸ばす。
こちらを向いていないので、その手は空中を何度かつかみとろうとして、そのたびに指の隙間から虚空をこぼれ落とすだけだった。
傘はつかめないけれど、たまに僕の顔を微ビンタすることはあった。
「何してるの」
「あなたこそ、どうして上半身が裸なんですか。女性が来客に来るというのに、そのような出で立ちで出迎えるというのは、もう、とっても、いけないことですよ」
「これは、着ていたシャツが雨で濡れちゃったから。そろそろ乾いてると思う、着てくるよ」
僕は部屋の中央にかけていた乾きかけのシャツを取って、袖を通した。
「雨で濡れたんですか。外に……出たんですね」
玄関先の女の子は、そうつぶやいていた。
上を羽織るついでに、僕はタッパーウェアをまとめて拾い、部屋から持ち運ぶ。
「これ、だいぶ溜まっていたんで。返すね」
「へえ。また何かわたしに食べるものを作って持ってきてくれという、催促ということですか? うちもタッパーが無くなってしまって困っていたところだったんです。ようやく手元に戻ってくるかと思えば、催促。あなたはいつもそういう、失礼な」
「うん、お腹が空いたんだ」
女の子が僕を見つめる。僕も特に見る宛がないので、見つめ返していた。
静かな時間の中で鳴る、僕のお腹。腹の虫に重なりあうようにして次第に広がっていく、雨の音。
……ザアー。
「雨がひどくならないうちに、帰らせていただきます」
女の子は玄関を出て傘を広げ、しずしず帰っていった。
降って、止んで、大げさに降って、止んで、また降って。
降り続く相変わらずの雨を思い描きながら、僕は右足を打ち鳴らし、左足をゆっくり叩きつけた。
結局靴をガチャガチャ踏み鳴らしているだけなんだけど。
「ねえ、いいかげんにしてくんない」
踊っていたら、フローリングの床から、声がした。
ここは一階なのに、床下から声がする。でも僕はもう、驚かない。
汗をかいて、寝転がる。すると床下から、追い打ちが入った。
「ねえ、聞いてるの?」
コツコツ。
何か金属めいたもので下からつつくあの音が、もぐらの声に混じる。
床下からするのは、それだけじゃなかった。ケロケロと鳴く声。それと、肉じゃがのにおい。
僕のいじきたない結論は、どうやら間違っていなかったみたいだ。僕はにかっと笑った。
そう遠くないうちに、また肉じゃがを食べることが出来そうだね。