転・肉じゃがが余ってるんですけど、食べませんか?
長雨のせいで外出がままならず、冷蔵庫の中身はテキーラの残りだけになっていた。
おなかがすいてタップも踏めない僕が玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、まるでハロウィンの仮装のように現実離れした服に身を包んだ、華奢な女の子だった。
手にはタッパーウェアを持っていて、その中身は肉じゃがだった。
僕はこの人を知っている。
以前の話になる。
僕は玄関先で女の子に叱られていた。
「あの、いいかげんにしてください」
「ええと、すみません」
「謝れば良いってものじゃありませんよ、下のもののことをよく考えてタップを踏んでください」
「はい、以後改めます」
しかし僕はその後もタップを踏み続けてしまった。
そしてそのたびにこうしてこの人に文句をつけられ、謝ることをくり返していたのだった。
僕が黒人の教える教本ビデオを見ながら、調子に乗ってタップを踏んでいたとき、そして興が乗ってビデオも見ずにがむしゃらに足を踏み鳴らしたとき、いつもドアをノックする音がした。
そしてドアを開けると、こうしてハロウィンの仮装のような派手なドレスめいた格好の女の子が立っていて、僕に意見をしに来ていたのだ。
かつてはいつも、そうだった。
彼女は一階に住む女の子だった。
「昼間はまだいいんです。でも、夜中はうるさくてたまりません」
「ごめんなさい」
「こうして意見をしにくるというのは、よほどのときですからね。本当に、気をつけてください」
「反省してます」
「それにしても、昼も夜も家にいらっしゃるんですね。失礼ですが、お仕事はされているんですか」
「えー、ああ」
「熱心に練習されているところを見ると、ダンサーさんなのかもしれませんね。練習ばかりがお忙しいようですけど」
「うー、ええ」
「おかげであなたのタップのリズムが夢にまで出てくるようですよ。なかなか心地よくて、それはそれで楽しく眠れていますけど」
「はい、はい」
「それじゃあ、また」
「はい」
僕はドアを閉じた。のぞき穴から外を見ると、女の子はまだそこに立っていて、持っていたバッグからごそごそと、黄色い縁取りのタッパーウェアを取り出している。
再度呼び鈴が押された。
僕はそのままドアを開けた。
「肉じゃがが余ってるんですけど、食べませんか?」
それからことあるごとに、女の子は僕の家に訪れ、僕のタップに文句をつけた。そしてタッパーに肉じゃがを詰めて持ってきたのだった。
僕はしばらく、肉じゃがとタッパーウェアには不自由しない暮らしを送ることになった。
夜中にタップを踏めば、女の子は夜中に文句をつけに来る。朝方にタップを踏めば、女の子は朝方に文句をつけに来る。
僕はこの家を引っ越した。
あの時の女の子が、あの時と変わらない服装と、華奢な体つきで、そこにいる。
彼女は僕に言った。
「肉じゃがが余ってるんですけど、食べませんか?」
……ザアー。
「雨の中、玄関先で来客を待たせるのはどうかと思いますよ。失礼ですが上がらせていただきます」
「えっ」
女の子は僕の家に上がりこんだ。正確に言うなら、上がりこもうとして玄関で、なんだかすごく脱ぎにくそうなややこしい作りのロングブーツを、脱ぎ始めた。
「雨で裾が濡れてしまう危険を考えて、スカートをロングにしなかったのは、本当に正解だったと思います」
そう言いながら女の子は、まだロングブーツを脱ごうとしている。紐が何重にも重なって、しまったりたわんだりしてデザインを形作っているらしく、それを脱ぐには難解な入れ子細工を解くのと同じような集中力が必要そうに、僕には見えた。
「ケロケロ」
その鳴き声で、初めて僕らは気がついた。タッパーウェアをこじ開けて、カエルが肉じゃがをうまそうに食べている。
この子がロングブーツを脱ぐ間、タッパーを床に置いていたその隙に、カエルが肉じゃがを横取りしやがったのだ。
「あっ、こら。それ、そこそこうまいのに!」
このセリフを僕と彼女が同時に言ったことには、少し驚いた。
どうやら今日の肉じゃがは、この子にとっては、そこそこうまい逸品らしい。
とにかく僕は、腹が減っていた。勢い余って、思わずカエルを蹴っ飛ばしてしまう。
カエルと肉じゃがが、ともに宙を舞った。
突然のことなのだが、ここで一人称から三人称に切り替わる。
肉じゃがとともに蹴り飛ばされたカエルは、走馬灯を頭に描いている。しかしそれは、主人公視点では理解することが出来ない事象だ。故にここから先の地の文は、主人公のものではない。
カエル視点の一人称に切り替わってみるという手法も選択可能であったが、それでは残りの文字数が全てケロケロケロケロで溢れてしまうのだから、なんと益体もないであろう。
改めてカエルの走馬灯に目を向けよう。カエルの走馬灯は「雨の中ぴょんぴょん跳びまわって楽しい」で、占められている。
おたまじゃくしの頃の記憶がまったく出てこないところを見ると、カエルは物心をついた頃に、カエルとなるのではないか。これはカエルのアイデンティティーに関わる重要な実証例なのかもしれないが、早くも走馬灯はここで終わりを告げるのだ。
主人公視点の一人称に再び戻る。
蹴り飛ばされたカエルはまず床に落ち、空中で吐き出した大きめのじゃがいもに追い打ちで潰され、床と芋にサンドされる形で、微ぺしゃんこになった。
「グエッ。ケロー」
「なんだ、生きてるじゃないか」
「肉じゃがも大半は無事のようですね」
「よかった。これ、そこそこうまいもんね。さっき君も、そう言ってたし」
「何のお話ですか? おかしなことをおっしゃらないでください。ただの余り物の肉じゃがですよ?」
……ザアー。
咄嗟に女の子はスマートフォンを取り出して、僕と並んで写真を一枚、ぱしゃっと撮影した。
「おかしなことをおっしゃったという証拠の写真を撮りました」
「……写真には音声は入らないよね」
「ではわたし、おいとましますね」
女の子は苦労して脱いだロングブーツを再び履き始めている。
「その様子で、追いかけられては、たまりませんからね」
女の子が指差す先で寝転がっているカエルは、目がハートになっている。
彼女のことを熱心に見つめていた。
「それじゃあ、また」
取るものも取りあえずで女の子はいなくなり、カエルは肉じゃがと女の子を見比べたあとで、両生類なりの結論を出してジャンプで外に飛び出していった。
部屋には僕と、カエルが食べかけた肉じゃが入りのタッパーウェアと、女の子の傘が残された。
女の子が傘を取りに戻ってくることを見越して、肉じゃがの絹さやの部分だけを食べながら待ってみた。
別に戻ってくる気配がない。僕は味の染みたしらたきに手を伸ばすことにした。
雨なのに傘を取りにこない。あの子はもしかすると、多少の雨は傘がなくてもやり過ごせるようなところに住んでいるのかもしれない。
だとしたら。
僕は引っ越しの荷物のうち、まだ開けていなかったダンボールをひとつ取り出した。
ベリベリとガムテープを剥がしてそれを開けると、中には大量のタッパーウェアが入っている。
これを返せるかもしれないな。