承・微ぺしゃんこになってしまう
まだあれから数日しか経っていない。雨は降っている。豪雨じゃないし、ずっと降り続いているわけでもない。たまに降って、晴れるんだ。
こういう雨は質が悪いと思う。一抹の希望を抱くからだ。
浸水した雨を掃き出し、適当に床拭きをした結果、部屋はまたたく間に元通りになった。
僕は飲みかけのテキーラを片手に、フローリングの床に横になっている。
雨は降り続いていた。洗濯物の生乾きの臭い。生ぬるい湿気が、首元でざわつくぐらいの暑さ。僕は紫色のアロハシャツを着て、横になっていた。
シャツの胸ポケットには、インクの染みが付いていた。胸に挿していた万年筆からにじみ出たものだったことを、僕は良く覚えている。
この染みは、かつて僕が、外出するときには必ずペンとメモを持ち歩いていたことを、証明するものだった。僕はたまにこのアロハシャツを着ることにしている。
アロハシャツに、今度はワキの汗が、じっとりとにじんでいた。
寝転んでいる僕の後頭部の床に、下から何か金属めいたものがコツコツと当たる音がして、目を覚ます。
コツコツ。コツコツ。
「……スコップ?」
「そんなことはどうでもいい。雨の件なんだけど」
この声はもぐらだ。
「あ、どうでした?」
「大雨はまあ、意外と助かったよ」
「それはなによりです」
「おかげで穴の上まで雨水が溢れて、それはもう井戸なんて呼べるものじゃなくなったしね。これで井戸端会議は終わりを告げたから」
「へへ」
僕は口元に、似つかわしくない卑屈な笑みを浮かべる。
「けどさ、なんでまた降ったり止んだり、前の雨に戻ってるんだよ」
「僕が雨乞いをしなくなったせいじゃないですかね」
「なんで雨乞いをしなくなったんだよ」
「床がびちょびちょになるからじゃないですかね」
「なんでそこ、自分のことなのに濁すんだよ」
「床がびちょびちょになるからです」
床下のもぐらに向かって、僕はしゃんとした口調で言い直す。
「床がびちょびちょになると、なんで雨乞いをしなくなっちゃうの?」
「それは」
僕はニ階部分がまっぷたつに折れてしまったニ段ベッドを指し示しながら、こう言った。
「部屋のどこでも雨乞いのタップダンスが踊れないからです」
……ザアー。
もぐらの話は、尚も続いた。
「降ったり止んだりの雨で、また穴が井戸に戻ったよ」
「はあ」
「雨をやませることは出来なかったの?」
僕は、既にあるものを増幅して効果を大きくするということより、何かの事象を何もかもなくしてしまうことの方がはるかに難しいことを、心の傷に例えて、もぐらに説明した。
「伝わりましたか?」
「ん、いや、ん、その話はまた今度にしてくれる?」
……ザアー。
「でも、穴が井戸になったせいで、そっちも大変だと思うよ」
「こっち?」
「そう、そっち」
床下から、コツコツと金属めいたものでつつかれ、もぐらが僕の方を示しているのがわかった。
あれはやっぱり、スコップでつついているのかな……ぎゃっ。
「いたたたたたた」
「そうれ見なよ。若くて無分別な命知らずが、そうして大人の君を襲うことになるんだ」
「いた、あいたたた」
「井戸が出来ると、そういうやからが沸いてくることになる」
僕の指には、カエルが喰らいついていた。
「井の中のかわずだ!」
僕ともぐらは同時にそう口にした。
床はテキーラが零れて、びちょびちょになってしまった。
痛いと思っていたけれど、実はカエルに噛まれた指はそんなに痛くもなかった。カエルには歯が生えていないからだ。
テキーラを飲みすぎたせいで、僕は幾分、そう言ったリアクションがサービス旺盛になっていたのかもしれない。
カエルの方は僕の痛がりぶりに気を良くしたらしく、次の獲物を定めて飛び掛ってきた。それは、僕の鼻だった。
突然目の前に緑色の物体が突っ込んできたことに驚き、僕はとっさに平手でカエルを打ち下ろしてしまった。
「グェ」
フローリングの床に叩きつけられたカエルは、微ぺしゃんこになってしまう。少し悪いことをしたかもしれない。
「隙を見て指に噛みつけたからって、鼻を狙うのは無理があるだろ」
「ケロケロ」
「人間とカエルじゃ、明らかにリーチが違うじゃないか。相も変わらず無分別なやつめ」
「ケロ」
もぐらは床下から、井の中のかわずに向かって説教している。
動物同士ということで会話が成立しているのかもしれないが、カエルがどれほどもぐらの言葉を理解しているのか、その無表情さからするに、いささか疑問に思える光景だった。
「ケロケロー」
「あ、テキーラ舐めてる」
床に突っ伏してもぐらの説教に屈していたかのように思えていたカエルだったが、実は床にこぼれたテキーラを舐めるのに一生懸命だった。
「こいつ、大海も知らないのに酒の味なんか覚えやがって!」
「まあまあ」
カエルに手厳しい怒りをぶつけるもぐらに対して、僕はなだめる言葉をかける。
しかし多分もぐらも大海は知らないと思うのだけど、どうだろう。
急にカエルの舌が一瞬で伸びて、僕の昼ご飯の残りだった大学芋をくわえ込んだ。
そして、飲み込んで一瞬で吐き出した。サイズが大きすぎて、胃が受け付けなかったらしい。
「グエッ」
家の外では雨の中、傘を差して下校中の小学生の「げろげろげろげろくわっくわっくわー♪」と言う歌声が陽気に響いていた。
カエルは酒に酔っているのか相変わらず無分別なのか、何度も舌で大学芋を口中に巻き込んでは、グエッと吐き出しつづけている。外から聞こえる小学生の歌声と、リズムが丁度良く合っていた。
「くわっくわっくわー♪」
「グエッ」
「くわっくわっくわー♪」
「グエッ」
外の小学生がその部分をくり返すのは、輪唱だからだ。
大学芋に飽きたカエルは、僕のゴミ箱をあさって、紙とプラスチックを分け始めた。
「やることなすこと傍若無人ですね」
「何せ、井の中のかわずだからな」
「あれ、でもさっき、無分別って……?」
首を傾げる僕の前で、カエルは次々にゴミをより分けていく。
僕はこのカエルを飼うことにした。