余命宣告された夫を看取ったはずの私ですが、彼は生きて別の女と暮らしていました――残された娘のため、すべてを終わらせます
余命、半年。
その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。
「……嘘、ですよね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
白い壁。薬の匂い。窓の外には、いつもと変わらない穏やかな空が広がっている。なのに、ここだけが別の世界のように感じられた。
「申し訳ありません。ですが、これ以上の延命は……」
医者――ドミニクは、視線を伏せたまま静かに告げる。その隣で、セドリックは苦笑していた。
「そんな顔をするな、アデル」
いつもと同じ声。いつもと同じ優しい眼差し。それなのに、その言葉はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
「……冗談、ですよね?」
「残念ながら、違うみたいだ」
軽く肩をすくめてみせるその仕草が、どうしようもなく現実だった。
足から力が抜ける。崩れ落ちる寸前、セドリックが私を抱き留めた。
「大丈夫だ」
「……大丈夫じゃ、ありません……」
「俺はまだ、ここにいる」
胸が締めつけられる。――まだ。その言葉が、すべてを物語っていた。
その日から、時間は急速に進み始めた。
「式を挙げよう」
「こんな状況で……?」
「だからだよ。最後くらい、ちゃんとしたいだろう?」
両家の家族だけが見守る、小さな結婚式。それでも――
「……綺麗だ」
そう言ってくれた彼の声が、すべてだった。
その夜、私は彼の妻になった。触れられるたびに、幸福と痛みが同時に来た。これが最後かもしれないと知っているから。名前を呼ばれるたびに、胸が締めつけられる。それでも笑った。この時間を、ひとつも無駄にしたくなかったから。
そして――別れは、あまりにもあっけなく訪れた。
墓の前に立った瞬間、足が止まった。石碑に刻まれた名前を、ただ見つめる。セドリック、と声に出そうとして、できなかった。喉が塞がれたように、言葉が出ない。
「……いや……っ」
膝が崩れる。土に手をついた。
「置いていかないで……私を、一人にしないで……っ」
そのときだった。強い吐き気が込み上げた。
――その数日後。私は、知らされることになる。この身体に――新しい命が宿っていることを。
*
葬儀から数日後。私はまだ、セドリックの屋敷にいた。
「……奥様がお呼びです」
侍女にそう告げられ、私は義母の部屋へと向かった。中へ入ると、義母――ベアトリスと、義父アルベリックが揃っていた。二人とも黒を基調とした装いのまま。けれどその表情は、葬儀の日よりもずっと硬く、冷たく見えた。
「アデル。あなたには、この屋敷を出て行ってもらいます」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「なぜ……? 私は……セドリック様の妻です。まだ――」
「もう、必要ありません」
ぴしゃりと遮られた。震える手を、ゆっくりとお腹に当てる。
「……それでも、私は出て行けません。私のお腹には、セドリック様の子がいます」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
「……そう。それなら、なおさらです。あなたはここにいてはいけない」
「なぜですか!? この子は、セドリック様の血を引いているんです! なのに、どうして――」
「理由を申し上げる必要はありません。我々は、あの子の意思を尊重するだけです」
――あの子の意思? セドリックの?
「……どういう、意味ですか……?」
けれど二人は、それ以上何も語らなかった。
「準備は三日で済ませなさい」
淡々と告げられる現実。お腹に手を当てる。そこには、確かに命がある。
「……私が、守らないと」
かすれた声で、そう呟く。堪えていた涙が静かに溢れた。それでも足は止めなかった。
*
実家へ戻った日のことは、あまり覚えていない。父も母も何も言わずに私を迎え入れてくれた。
「……無理をしなくていい」
父はそれだけを言った。
季節がいくつか巡り、私は娘を産んだ。
「……エルナ」
その名を呼ぶと、小さな手が指を握り返してくる。その瞬間、固く閉じていた何かが、静かにほどけた。
――この子を、生かしたい。ただ、それだけを強く思った。
生きていくには、手に職が必要だった。思い出したのが――あのときのことだった。セドリックの病。何もできなかった、自分の無力さ。
私は、薬師の門を叩いた。最初の頃、夜になると手の匂いが取れなかった。薬草を刻み続けた指先に、苦い香りが染みついている。それでも、嫌ではなかった。むしろ、この匂いがするたびに、今日も少し前に進んだと思えた。
気づけば、数年が経っていた。小さな店も持ち、近隣では"腕のいい薬師"として名が知られ始めているらしい。
「お母さん」
くい、と袖を引かれる。エルナだった。淡い髪が揺れ、蜂蜜のような瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「おてつだい、する」
少し誇らしげに言うその姿に、思わず笑みがこぼれた。
――あの頃とは、違う。まだ完璧じゃない。それでも、確かに前に進んでいる。
そう思えた、その日のことだった。店の扉が、勢いよく開かれた。
「――誰か! 医者はいるか!」
そこにいたのは、見慣れない男だった。背は高く、無駄のない体つき。その腕の中には――ぐったりとした子供が抱えられていた。
「……この子を、助けてくれ」
「こちらへ。すぐ診ます」
迷いはなかった。
担ぎ込まれた少年を、すぐに寝台へ寝かせる。急性の脱水と軽い中毒症状。素早く動き、薬を流し込む。数分後、少年の指がぴくりと動いた。
「ノエル!」
「……ちち、うえ……?」
かすれた声。けれど、はっきりと意識は戻っている。男の声が、わずかに柔らぐ。
「命に別状はありません。ただし、しばらくは安静に」
「助かった。礼を言う」
その声音は低く、けれど確かに誠実だった。
「当然のことをしただけです」
「……誇っていい仕事だ」
不意にそんなことを言われ、言葉に詰まる。こんなふうに、真正面から認められたのはいつ以来だろう。
「おかあさん?」
振り返ると、エルナが扉のところに立っていた。そして、寝台の上のノエルを見て、ぴたりと足を止めた。
「……だいじょうぶ?」
「……だれ?」
「エルナ」
「……ノエル」
それが、二人の最初のやり取りだった。男――ディートリヒは、その様子を静かに見ていた。
「ディートリヒだ」
「……アデルです」
「覚えた」
それだけなのに、なぜかその一言が妙に残った。
*
それから数日後。ディートリヒはノエルを連れて、経過を見せに来た。顔色は前よりずっと良い。診察を終え、薬を包んでいると、いつの間にかノエルがエルナのほうを見ていた。
「ノエル! もうだいじょうぶ?」
「……うん」
「……外、行く?」
少しだけ迷うような間。それからノエルは、ちらりとディートリヒを見上げた。
「……いい」
「遠くに行かないようにね」
二人は並んで外へ出ていった。
「……懐いているな」
「そうですね。人見知りしない子で」
「助かる」
本音に聞こえた。少し間があって、彼がまた口を開く。
「……あまり、子供同士で関わる機会がなくてな」
「お仕事が忙しいんですか?」
「……まあな」
その立ち振る舞いだけで分かる。ただの仕事ではない。けれど、それ以上は踏み込まなかった。
しばらくして、外から声が聞こえてきた。エルナが何かを説明している。ノエルが短く、でも確かに相槌を打っている。ディートリヒはそちらへ目を向けたまま、静かにしていた。その横顔には、いつもの鋭さが少しだけ薄れていた。
「……ノエルは、母親がいない」
ぽつりと、言った。こちらを見ずに。
「だから、ああいう声を聞くのは久しぶりだ」
それだけだった。説明でも、嘆きでもなく。ただ、事実として落とすような言い方。私は何も言わなかった。言えなかった。その沈黙が、不思議と居心地悪くなかった。
「……また来てもいいか」
「ええ、もちろん。患者でなくても?」
すると、彼はほんのわずかに口元を緩めた。
「……理由は考える」
思わず小さく笑う。こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
*
ある日、私は一人で隣町へ来ていた。目的は薬の材料の補充。市場を歩きながら、必要なものを順に揃えていく。
――順調だ。そう思っていた、そのときだった。
視界の端に、見覚えのある姿が映った。人混みの向こう。陽の光の下で、並んで歩く男女。その男の横顔を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……セドリック?」
男が、ふとこちらへ顔を向ける。一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
――間違いない。あの人だ。死んだはずの、私の夫。その隣で、親しげに腕を組んでいる女――フィオレナ。かつて、私が"親友"と呼んでいた女。
けれど。セドリックは、すぐに視線を逸らした。まるで――最初から、私など知らないかのように。そのまま歩き去っていく。
指先が、震える。何かが音を立てて崩れた。
――確かめなければ。
気づけば、私は走っていた。向かう先はひとつ。セドリックの墓。震える手でスコップを握る。掘る。ただひたすらに。やがて――硬い感触が、手に伝わった。棺だ。
「……お願い」
祈るように呟く。蓋を、開けた。中は――空だった。
「……っ」
最初から、何もなかった。あの葬儀も。あの涙も。あの別れも。すべて。嘘だった。笑いそうになる。けれど、声は出なかった。代わりに、熱が腹の奥で渦巻く。
「……ドミニク」
ドミニクの診療所の扉を、乱暴に開けた。
「どういうことですか」
「……何の話でしょう」
「棺は空でした」
その瞬間、空気が変わった。
「……見てしまいましたか」
「なぜ」
「依頼です。彼自身の。別の人生を選びたいと。だから、病を偽り、死を演出した」
「……ふざけないで」
「知りません。それは、私の関知するところではない」
その一言で、すべてがはっきりした。扉を開ける。外の空気が、やけに冷たく感じた。けれど、足取りはもう迷っていなかった。
*
ドミニクの診療所を出たあと、私はかつて"家"だと思っていた屋敷の門の前に立った。躊躇いはなかった。
応接室。ベアトリスと、アルベリック。変わらない。何ひとつ。
「確認に来ました。セドリック様のことです」
わずかに。本当にわずかに。二人の空気が揺れた。
「……何を言っているの。あなたも見送ったでしょう」
「生きています。隣町で。フィオレナと一緒に。棺は空でした。ドミニクも認めました」
沈黙。空気が、張り詰める。
「……そう。それで?」
「……何か、ですって? あなたたちは、孫がいると知っても、何も思わなかったんですか」
「関係ありません。我が家に必要なのは、"あの子が選んだ未来"だけです。それ以外は、すべて不要」
「……そうですか。なら、もういいです」
「……後悔しますよ」
「……もう、十分苦しみました」
それだけを残して、部屋を出る。頭は、驚くほど澄んでいた。
――終わらせる。
*
店へ戻ったときには、もう夕暮れになっていた。
「……おかえりなさい」
顔を上げる。ディートリヒだった。その隣には、ノエルとエルナの姿もある。
「おかあさん!」
エルナが駆け寄ってくる。小さな身体が抱きついてくる。その温もりに、目の奥が熱くなる。
「……何かあったな」
「……少しだけ」
「子供たちは、奥へ」
「ノエル、いこ」「……うん」
二人が奥へ消え、扉が閉まる。
「……話せ」
逃げ場はなかった。私は、すべてを話した。セドリックが生きていたこと。棺が空だったこと。ドミニクの証言。二人の反応。
沈黙が落ちる。
「……最低だな」
ぽつりと、吐き捨てるように言った。その一言に、何かがわずかにほどける。怒っていいのだと、許されたような気がした。
「詐欺だ。婚姻、死亡偽装、財産の移動。すべて罪に問える」
「……そこまで」
「当然だ。お前一人の問題じゃない」
視線が、わずかに奥へ向けられる。エルナがいる方向へ。
「――エルナの人生を、あいつらに汚されたままにする気か」
私のことではなかった。私への怒りでも、慰めでもない。まっさきに、この子の未来を案じていた。その一言が、芯まで届いた。
「……どうする」
「……終わらせます。すべて」
「なら、俺が動く」
「……いいんですか」
「もう関わっている」
それだけだった。けれど、それ以上の言葉はいらなかった。
「……お願いします」
奥の部屋から、小さな笑い声が聞こえてくる。エルナとノエルの声だ。守りたいものは、もうはっきりしている。だから。私は、もう迷わない。
*
翌朝、ディートリヒは早かった。
私が店を開ける前に、すでにテーブルの上に書類が広げられていた。証拠の写しと、動かす人間の名前が書き込まれた紙。彼はそれを指先でひとつひとつ押さえながら、部下らしき男に短く告げていた。
「ここと、ここを先に押さえろ。逃げ道はふたつある。どちらも塞げ」
「承知しました」
返事は短く、男はすぐに出ていった。ディートリヒは書類から目を上げ、こちらに気づくと、ただ一言。
「今日だ」
私は静かに頷いた。
向かったのは、隣町の一角にある屋敷だった。門の前には、すでに人が配置されていた。扉が開かれる。
中にいたのは――
「……誰だ」
驚いたように振り返った男。その顔を見た瞬間、腹の底が一度だけ強く揺れた。けれど、それだけだった。もう、涙は出ない。
「……セドリック」
「……アデル?」
信じられないものを見るような顔。次の瞬間、その表情がわずかに緩んだ。まるで、久しぶりに会った知人を見るように。
「……生きてたのか」
私ではない。彼が、そう言った。自分が死を偽った相手に向かって。
その呑気さに、腹の底で火がついた。
「確認に来ただけです。あなたが生きているかどうか」
「……仕方なかったんだ。俺には、別の人生が必要だった。お前とじゃ、無理だったんだ」
その言葉は、驚くほど軽かった。天気の話でもするような口ぶりで。
「そうよ」
フィオレナが口を開いた。こちらをまっすぐに見て、少しだけ首を傾ける。あの頃と同じ、柔らかな仕草。だが、その目の奥には昔とは違うものが宿っていた。
「あなた、ずっと気づいてなかったでしょう。セドリックが私を見ていたこと」
懐かしむように言う。
「ずっと前から、そうだったの。あなたが間に入ってくるまでは」
フィオレナはそこで笑った。
「なのに、最後まで気づかなかったのね」
怒りは来なかった。
ただ、この女は奪ったことさえ恥じていないのだと、それだけがはっきりした。
「……終わりです」
静かに、言った。その瞬間。
「動くな」
ディートリヒの声が、鋭く響いた。同時に、外から複数の足音がなだれ込んでくる。
「な、何だこれは……!」
「詐欺、死亡偽装、婚姻詐称。すべて、証拠は揃っている」
「……ふざけるな! こんなことで――」
「こんなこと?」
私は、静かに口を開いた。
「あなたにとっては、そうなんですね。私が泣いた夜も。この子が父親のいない世界に生まれてきたことも。全部、"仕方なかった"――それだけの話なんですね、あなたには」
セドリックの顔が、歪む。何か言い返そうとして――言葉が出てこない。もう、何も感じない。ただ、ひとつだけ、はっきりしている。
――もう終わりだ。
「連れて行け」
ディートリヒの一言で、すべてが決まった。
「待て、アデル! 俺は――本当は、お前を傷つけるつもりは――」
「もういいんです」
はっきりと言い切る。ようやく、振り返った。そこにいるのは、かつて愛した人。けれど今は、何も残っていない。
「あなたが何を考えていたかなんて、今さら聞く価値もありません」
初めて、後悔の色が浮かんだように見えた。けれど。遅い。すべてが、遅すぎる。
「……行け」
ディートリヒの声が落ちる。二人は連れて行かれた。足音が遠ざかっていく。
やがて、あたりは完全に静かになった。
長かった、と思う。それだけだった。肩から、ようやく見えない重みが落ちた気がした。
*
数日後。私は、あの屋敷の前に立っていた。
かつてと違うのは、門の前に馬車がないことだった。使用人の姿も、以前より明らかに少ない。行き交う通行人が、ちらちらとこちらを窺っては、小声で何かを交わしていく。噂は、もう十分に広がっていた。
やがて、門が開く。中から出てきたのは――ベアトリスだった。一人で。以前なら必ず侍女を連れていたはずの女が、今は誰の付き添いもなく、足早に歩いている。その顔には、かつての気品の名残だけがあった。
ベアトリスも、私に気づいた。顔を背け、そのまま通り過ぎようとする。
「……後悔しますよ」
低く、それだけを言った。あの日と同じ言葉。
「そうですね」
足が止まる。
「確かに、後悔はしました。信じていたことも、愛していたことも、すべて。けれど――あなたたちと縁が切れて、よかったと」
沈黙。ベアトリスは何も言わずに去っていく。背中が、小さく見えた。かつてあれほど大きく見えた人が。
ふと、手を引かれる。
「おかあさん? もういいの?」
「ええ。全部、終わったわ」
立ち上がる。そのとき。
「……終わったか」
ディートリヒが立っていた。
「ええ。すべて」
彼はわずかに頷いた。もう振り返らない。私は前を向く。この子と。そして――新しい未来へ。
*
それから、季節がひとつ巡った。私の店は、以前よりずっと賑わうようになっていた。
「アデルさん、いつもの薬を」
「はい、少々お待ちください」
薬を包みながら、ふと窓の外に目をやる。エルナとノエルが並んで座っている。エルナが何かを話し、ノエルがそれを静かに聞いている。自然と頬が緩む。
「……忙しそうだな」
不意に、背後から声がした。
「ええ、おかげさまで」
「無理はするな」
「していませんよ」
そのとき、外から声が響く。
「おとうさん」
ノエルが呼ぶ。ディートリヒがそちらを見る。その横顔は、ほんの少しだけやわらいでいた。
「……帰るか」「……うん」
「エルナ、またね」「うん!」
二人が並んで歩き出す。その後ろ姿を、ディートリヒがひとつだけ振り返って見た。それから、私へ視線を戻す。
「……また来る」
問いではなかった。
「ええ」
私も、それだけ答えた。
何も決まっていない。
それでも、あの子たちの笑い声が続く限り、きっと大丈夫だと思えた。この人は、またここへ戻ってくる。――今は、それだけで十分だった。
風が、そっと吹く。エルナの笑い声が、遠くから流れてくる。私は、その音のほうへ、ゆっくりと歩き出した。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語はこれにて完結となります。
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また、新作も投稿しております。もしよろしければ、そちらもお楽しみいただけたら嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




